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徳川家臣団は一日にしてならず

徳川家も元々は

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私(三成):(……ところでさ?)
所員:(なんでしょうか?)
私(三成):(信長が亡くなると同時に織田家がバラバラになったり。秀吉が亡くなり。表向きは秀頼に忠誠を誓ってはいるものの。秀吉恩顧の家臣が、豊臣家から見れば明らかに『異物』に他ならない徳川家康を頼りにしている。ほかにも、当主が代わっていないにもかかわらず。毛利家の中において吉川と安国寺の主導権争い。更には小早川と毛利との関係が疎遠なものとなる。宇喜多も先代の直家からの家臣と秀家の代になってからの家臣との軋轢。同じような仕掛けを秀吉は、徳川にもして来たと見るのが自然なことのように思うのでありますが、なぜ徳川家は一枚岩なのでありましょうか?)
所員:(三河における宗教戦争で2つに分かれた時期はありましたが、こと家康になってからは、少なくとも家臣が主君の足を引っ張るような事態には陥っていません。その理由は何か?と問われますとやはり……。)
私(三成):(……やはり?)
所員:(徳川を称する前の松平を失ったことと、のちに徳川家臣団に編入されることになる武田の滅亡の理由が関係していると思います。応仁の乱の後、それまで京都に居た守護大名が各所領に移り住むのでありますが、幕府の後ろ盾を失った。もともと地盤の無い名ばかりの守護大名に従っても利益が無い。と……。幕府は幕府で。一応、細川家が力を持っているのではありましたが。その政権運営は必ずしも盤石であったわけでは無く、その時々の中央政権の有力者と結びついたものが各地で台頭し。その中央の有力者が力を失う=後ろ盾を失うと同時に廃れ。新たな中央の有力者と結びついたものが力を発揮する。このことは徳川家の本貫地とも言うべき三河の国でも発生していました。そんな三河の国におきまして、力をつけて来たのが松平家。遊行僧として松平郷に根付いた初代の親氏以来順調に版図を拡げて来た松平でありましたが、7代目の清康の時、事件が発生するのでありました。)
私(三成):(家康のお爺さんにあたる人物ですね。)
所員:(その原因となりましたのが、遡ること3代信光の時代に岡崎・安祥に勢力を拡大し、直轄領とすると同時に三河各地に。これは毛利家における吉川や小早川のようなことを行ったと見るほうが、むしろ自然なことかと思われますが。自分の子を分立することにより、これまでの西三河のみならず東三河にも勢力を拡げることになったのでありましたが。)
私(三成):(時代を経るに従い、その血も薄くなっていきます……。)
所員:(6代の信忠は宗家を脅かす一族を抑えることが出来ず。若干13歳の息子・信康への相続を余儀なくされることになります。その背景にありますのが、将軍家内の争いを利用した松平家と今川家の戦いに松平は敗れ、信忠は松平における求心力を失ったからであります。)
私(三成):(……と言うことは信康に対する松平一族の扱いは?)
所員:(一族総出で。でありますのでスタートは順調でありました。……勿論信康は従わざるを得なかったこともありますが……。三河をほぼ制圧する勢いを見せました清康は、尾張の国の政変に乗じ、出兵を決断。そこで待っていたのが。家臣の手による清康刺殺事件。この背景にあったのが一族・松平信定との不和。元来、信定は松平宗家とは別路線。織田家と縁戚関係にあった家。その立場から信康の尾張出兵=織田家との対立は、当然の如く面白くはありません。遠征不参加を表明。国の留守を守っている時。事件は発生したのでありました。その後、信定が採った行動は?と言いますと……。反転攻勢に出た織田信秀と連携し、清康の居城であった岡崎城を占領した上、清康の子・広忠を追放するのでありました。)
私(三成):(典型的な下剋上の姿ですね……。)
所員:(話はこれで終わらず。)
私(三成):(終わっていましたら1599年の今。家康が大坂城であれだけ大きな顔をしてのさばってはいませんからね……。)
所員:(広忠が岡崎城を追放された翌年。駿河の今川家に家督相続争いが発生しました。それまで今川家は松平家とは異なる足利家と繋がりを持っていたのでありましたが、家督相続争いに勝利を修めました義元を支援していたのは松平広忠と繋がりのある足利家。因みに広忠を追放しました信定と織田家は、広忠とは異なる足利家と繋がりがある=今川と織田は対立関係となることになります。これを利用しまして、広忠の家臣は、岡崎から追放されてから広忠を保護して来ました清和源氏出身の有力者である東条吉良氏の吉良持広に今川義元とのパイプ役を願い。その願い通じ、義元は快諾。広忠が駿河遠江の大大名である今川家の後ろ盾を得たことにより、立場を失うことになったのが松平信定。広忠と行動を共にしていたものは勿論のこと。清康死去以来従っていたものからも見限られた信定は、広忠に頭を下げ帰順するのでありました。)
私(三成):(ある意味。父の仇でもあり、自身を放逐した張本人であっても斬ることは出来なかった。と……。)
所員:(それだけ信定の威勢盛んでありまして。頭を下げたとは言え。その後も信定と跡を継いだ子・更に孫の代に至るまで広忠。そして家康を蔑ろにする態度に終始するのでありました。で。広忠は岡崎に戻ることが出来。そこでのちの家康は誕生するのでありました。)
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