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第二章/盈盈一水─Even though there`re so close─
第捌話:瑠璃色の神威
しおりを挟む「彼ら」がいる場所には独特の気配がある。
気配というより、そこでは何かが止まっている。時間とか空間といった概念から隔絶された、まるで凪の中にでも入ったような停滞感があるのだ。
普段僕は、そういった気配を感知しないように気持ちにスイッチを入れている。経験則として、意図的に彼らと関わろうとしたときは決まって霊障や心霊にまつわるトラブルに付け狙われるのだ。中学生の頃にそれなりの目に遭って以来、僕は意図的に霊的存在に対する境界を設けた。
そういえば、僕はどうしてあの葬式の日にこのスイッチを入れなかったのだろう。
そうすればもしかしたら、僕はそこに居たかもしれない彼女に出会えたのではないのだろうか。
いいや、そうじゃないな。僕は意図的にそれを避けたのだ。往々にして、死者の霊は生前とはまるで別のそれに変貌してしまう。どんな思考回路をしてそうなるのかは不明だが、彼らはおよそ感情と呼べるものが著しく欠落している。皆一様に望郷に浸るような表情で、悄然とそこに立っている。
きっと僕は、そんな風に変わり果てた彼女を見たくなかったのだ。それを見ることで、決定的に彼女の死を意識してしまうのを僕は恐れたのだ。この半年間、ほとんどスイッチを切った状態で過ごしてきたのも、死人の形相で現世をさまよっているかもしれない彼女を目撃してしまうのが嫌だったから。
それでも僕がこうしてここにいるのは……。
彼女の無念を晴らすため、彼女が死ななければならなかった理由を知るため、それとも彼女を無残にも葬ったこの世界に対して復讐するため……あるいは──
「…………」
止まった。空気が、時間が──。僕は今この瞬間、自分が世界の凪の中に入ったのを感じた。
街外れの閑散とした住宅街。区画整理待ちであちこちが空き家となりつつあるこの周辺は人通りが極端に少なく、道の状態も良くない。同じ尼子原市にありながらこの静まりようは、単に行政の管理が十分に行き届いていないのとは別種の理由があるようにも思える。その理由のうちの一つが、異様なまでに停滞した周辺の空気。生気と呼べる生気を拒絶するかのような、この世ならざる者たちの気配……。
いる──と、この周囲では唯一まともに点灯していた街灯の下で僕は直感した。
スイッチを切った状態でこの緊張感、全身の毛穴の奥深くにまで潜り込んでくるような強烈なプレッシャーで僕は途端に動くことが出来なくなった。
──まずい。凍結していく思考の端で、僕ははたと翠さんの忠告を思い出す。
『百瀨君、くれぐれも用心したまえ。特に『狭間』は鬼門だ。そこでは決して足を止めてはいけないよ』
狭間……狭間……狭間……。翠さんが示した鬼門を、僕は可能な限り避けてここに来た。建物と建物の隙間、路地の間、陸と水場の境界。そういった場所をなるべく通りかからずに済むようなルートでここまで来た。しかしそれでも足りなかった。僕が今足を止めた、足を止めてしまったこの場所こそが、翠さんが占った鬼門だったのだ。
周囲を闇に閉ざされた中、唯一点灯していた街灯の下。闇と闇に隔たれた光の境界。まさしく今この場所こそが、翠さんが用心しろと念を押した「狭間」そのものじゃないか。
「くそ……しくじった」
逃げないと……。多分「そいつ」はもう僕に目を付けている。このままじっとしていても難を逃れることはまず無理だ。恐怖でどんどん竦んでいく体を押して、僕はポケットに忍ばせていたジップロックから禊祓えの塩を取り出そうとしたがしかし。次の瞬間、金縛りのような神通力が全身を襲う。霊障にあてられて体が動かなくなることは今まで何度かあったけれど、ここまで強い力で押さえつけられた経験はない。スイッチを入れずとも分かる。「こいつ」は間違いなく悪霊や怨霊の類だ。
「……この──っ!」
憑り殺される前になんとかこの場を打開しないと……。そのためにはまずはスイッチを入れないと。
初めてだった、この現象に関わる事を心底怖いと思ったのは。ここまで目を逸らしたいと思ったのは初めてだった。そうこう逡巡している間にも「奴」は確実に僕の精神を犯し、「僕」ではない部分の領域を広げつつあった。
怒り、悲しみ、恨み、妬み、嫉み、忌み、憎しみ──あらゆる負の感情が脳裏に充満し、闇に染められていく僕の心もまた、その感情に感化されていく。それは意図的に切っていた霊媒のスイッチが強制的にオンになるほどに強い衝動。白と黒しかなかった視界が真っ赤に染まるほどの狂騒感に理性が持たない……。
「僕は……」
ここで死ぬのだろうか。何をなすこともなく、こんな誰も訪れない場所で。
そんな諦めの念に瞼を引き下ろされそうになった瞬間、霊障にあてられたときの悪寒とはまた別種の涼風が肌を掠めていった。不意に体が軽くなり、全身に纏わりついていた倦怠感が真っ黒な影を象って僕の身体から引き剥がされ、虚空に磔になったのち、歪に潰されて霧散していった。
想像を超えたファンタジーがめくるめく幻影のように眼前を去来し、ただでさえ怪力乱神の侵蝕を受けていた僕の精神は限界を超えていた。硬直していた膝が崩れ落ち、下半身の力が抜け、立つこともままならずに僕はその場に跪いた。
「なにしにきたの……」
グラスの淵を濡れた指でこするような澄んだ声。腰を抜かした僕に話しかけてきたのは、漆黒のドレスに身を包んだ、薄い金髪に青い瞳の少女。浮世離れした佇まい、感情の剥がれ落ちた無表情はまさに死者のそれだった。
そうか……さっき霊障のせいでスイッチが入ったから、見えるようになったんだ。
「君は……?」
「……ここはあなたのような人の来るところじゃない」
「え?」
「あとそれ」
言って、その少女は僕のズボンのポケットを指さした。霊障除けのために、禊祓の塩を入れたジップロックの小袋がある場所を。
「もう穢れがたまり切っている。むしろ逆効果──それだと彼らを引き寄せてしまうわ」
言葉少なに、まるで詩を詠むような口調で語る彼女は、ただの霊とは明らかに違う雰囲気を纏わせていた。神託を思わせる声音、凛とした目線、感情を欠いて尚ここまで高貴な佇まい。生前はどこかの令嬢だったのだろうか……。
「あの、君は──」
「帰りなさい」
ぴしゃりと少女は言った。まるで無感情に、まるで無表情に。感情と呼べるものがない分、そこには全くと言っていいほど反論の余地がなかった。だが同時に、この怪奇極まる出会いに運命的な物すら感じていた。尼子原署から忽然と消えたカッターナイフから始まり、翠さんに導かれて決定的な怪異に行き会った矢先、間一髪で僕を救った黒ドレスの少女の霊。きっとこれは千載一遇のチャンスだ。
「あなたには帰る場所がある。あなたは私たちとは違う。だから帰りなさい」
「待って……いや、待ってください。一つだけ答えてほしいだけなんです。近頃この近辺で自殺した少女の霊がさまよっていたりしませんか?」
「知らない」
間髪なく、感情もなく少女は応えた。あまりにも取り付く島のないその様に、腰を抜かして跪いたままの僕はさらに尻込みしそうになるが、ここで怯むわけにはいかなかった。
「じゃあ、あなたは一体──」
僕がさらに畳みかけようとした瞬間、割れ響くガラスの音と共に急に目の前が真っ暗になった。かろうじて浮かび上がっていた少女の青い眼光は揺らぎひとつなくこちらを見据えている。やがて闇に目が慣れてきてようやく、僕は自分が何をされているのかを理解した。
暗闇の中でわずかに煌めく透明な欠片、地面に落ちることなく浮かぶそれは割れた街灯の破片だった。その切っ先の一つ一つが僕の眼前に向けられ、明らかな殺意を滲ませていた。
ポルターガイスト、いやむしろこれはサイコキネシスのそれに近い。先ほど僕に憑りついた霊障を滅したのと同質の力……なのだろうか。
「帰りなさい」
三度告げられた忠告。その口調に抑揚はなかったが、そこには確実に僕に対する敵意が存在していた。時の止まった凪の中、生唾ひとつ呑み込む音さえ聞こえてきそうな静寂が、僕の心臓に突き立てられていた。
「…………」
長い、それは長い時間が過ぎた。僕も彼女も、差し向けられたガラスの破片さえも停止した沈黙の中、先に堰を切ったのは僕の方だった。
「知りたいんです。僕にはどうしても知らなければいけないことがあるんです」
「…………」
少女は何も語らない。相も変わらず青い視線を僕に向けたまま、ただ黙してそこに立っていた。
「大切な人が死んだんです。明るくて、太陽のような人だった。でもある日、彼女は僕の前からいなくなった。誰にも何も言わず自分の首にカッターを突き立てて、二度と帰ってこなかった」
「……カッターナイフ」
「僕は何もできなかった。彼女の凶行を止められなかった。そんなの納得できないじゃないですか……。忘れようとしたんですよ、もう彼女はここにはいないって。でも無理でした、そうやって半年間燻って今ここにいるんです」
全国模試一位が聞いて呆れる。まったくと言っていいほど要領を得ない言葉に僕自身が当惑していた。そもそも死人相手に何をこんなに熱くなってるんだ僕は。
幽霊相手に情に訴えようなんてあまりにも馬鹿げている。そんなことは分かっていた。だからこれは僕自身に向けた言葉なのだと、言ってる先から僕は感じていた。
「遊びで来てるわけじゃない、危険なのも十分分かってる。あなたが何も答えないのならそれでいい。だけどせめて僕の邪魔はしないでほしい」
言った、言い切った。腰を抜かしたまま、ややもすれば命すら危ぶまれるこの状況で、僕は今持てる思いの丈の全てを言い切った。
「…………」
再び訪れた沈黙。少女はあくまで何も言わないまま僕を見下ろして、しかし念力で浮かせていたガラスの破片だけを地にばらまいた。それが敵意の喪失を意味するのか、僕に対する協力の意思表示なのかは分からない。けれどもこの瞬間、僕は周囲を取り巻いていた凪がわずかに揺れ動くのを感じ取っていた。
「……とにかく、今日は帰るべき。禊祓えの塩が意味をなしていない。ここで撒いて帰りなさい。今のままではどの道不要な霊障に魅入られるわ」
心なしか語気を和らげた様子で少女は言った。少なくとも先ほどまで僕に向けていた敵意の刃は、一旦収める気にはなってくれたらしい。
「分かりました……あの──」
「普通に喋っても構わない」
「え?」
「気を遣う必要はないわ。私は死者だから」
「…………」
それから、と。少女はやや間を置いてから続けた。
「あなたのその眼、魔眼を御しなさい。そのままでは魔に魅入られる。尼子川下流に住んでいる石動という男なら、その眼の使い方を教えてくれる」
「石動……」
それは、おそらく彼女から聞き出せる最大限の情報だった。さらに彼女は、僕のこの霊媒体質の事を「魔眼」と呼んだ。そんな伝奇じみた物がこの世に存在するのか、にわかには信じられないけれど。かといってこの少女が見せたサイコキネシスや、この少女その者の存在を鑑みれば、もはや魔眼の存在を否定することなど不可能だった。
尼子川の下流。そこにいる石動という男からなら、この怪異極まる事態に対して一通りの情報を得ることが出来る……そう考えてもいいのだろうか。
「行きなさい」
最後に少女はそう言って、黒檀の宵闇の中へと消えていった。
これが夢であったならば、などと考える僕は最早いなかった。
この闇のように閉ざされていた僕の思考に、一縷の光が差した気がした。
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