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第二章/盈盈一水─Even though there`re so close─
第漆話:玉虫の思案
しおりを挟む状況──
カッターナイフは無くなっている。
誰かが持ち出した形跡もない。
管理室の足跡、監視カメラ、持ち出し記録全てに不備はない。
唯一不可解なのはカッターが消える前後、カメラに一瞬のノイズが入ったことだけ。
ハッキングを受けた形跡もなく、その一瞬だけノイズが入った。
まるで霊障のようなノイズ、そして管理室に出入りした黒い人影の映像。
その直後にカッターナイフは消えた。
文字通り忽然と。
──煙のように。
現実にはあり得ない何者かが、現実ではあり得ない手段でカッターを持ち去った。
誰が、どういう理由で。
その何者かの正体とは。
桔梗さんが言っていた、昨今騒がれている少女の自殺。
ウェルテル効果。
葛原玲奈との類似点。
彼女たちの遺品は残っている。
消えたのは葛原玲奈のカッターナイフだけ。
偶然にしては奇妙な符号。
遺品、遺物……聖遺物。
検索──要約──聖遺物はキリストの血を浴びて神聖を帯びた奇跡の残骸。
血は魂を媒介する。
カッターナイフは葛原玲奈が流した最後の血を浴びた──神聖は帯びてないにしても同じ状況。
奇跡──あるいは霊的現象。
そこにいるのに見えていないもの。
証明はできない、しかし僕の目には見える──僕のように見える人もいる。
反証のない仮説、科学の未開域。
推測の域を出ない事柄──しかしそう考えるのが一番筋が通る仮説。
「彼ら」が動いている。この現世で未練を残した魂。
未練……自殺者……葛原玲奈。葛原玲奈の幽霊。
彼女がカッターナイフを持ち去った。何のために……。
そもそも何故そこに辿り着けた。
生前の彼女にそんな知識はない。
別の幽霊……協力者がいた?
彼女と同じような存在……現実にはあり得ないものたちのコミュニティ……幽霊たちの社会。
あるいは警察内部の人間による隠蔽。
ありえない。
動機以外の全てが自明な自殺。
それが仮に他殺で警察内部に容疑者がいるとするなら、その時点でいくらでも捏造できる。
証拠品そのものを消すのは逆に不自然。
犯人にメリットもない。
そして死の直前に取った葛原玲奈の行動に異常はない。
こっちは逆になさすぎることが不自然。
自殺直前までの人間関係、snsの最終更新、ゲームのログイン履歴。
いずれも普段と変わらない。
観測しうる限り彼女のメンタルには何の異常もなかった。
逆に言えば彼女は完全に正気を保ったまま、わざわざ新品のカッターナイフを購入してまで命を絶った。
普段と全く同じメンタルで……そんなことが可能なのか。
不可能である可能性の方が高い。
ではもし、自傷癖があるわけでもない彼女に死ぬ気が全くなかったとしたら……。
例えば誰かに操られていたとしたら。
現実にはあり得ない何者かの、現実ではあり得ない手段によって。
未練を残した彼女がまだこの世にとどまっていたとして、そのカッターナイフが──生前最後に彼女の血を浴びたその遺物が必要だったとしたら。
それを消したいと考えている、彼女と同じ存在、あるいはそういった存在を知っている者による犯行だとしたら。
いずれにしても彼らはそれが立証不可能な手段であることを知っている。
何らかの理由でその姿がカメラに映ろうが、人目に触れようが、その程度では尻尾すら掴めない。
現代社会の常識の外にあることを理解し、堂々と行為に及んだ。見られたとしても誰にも証明できない。
既存の方法ではまず暴けないトリック。
科学の未開域を利用している。
もしこれら全てが現実に存在したなら……。
カッターナイフを誰の目にも止めず、証拠すら残さずに消し去る事は仮説の上では可能。
その法則の内では、あるいは全く未知の手段による殺人すら可能。
そして急増しつつある少女たちの自殺。動機なき自殺。あるいはそう思わせたい何者かによる殺人。それら全てが真実だとしたら……。
葛原玲奈はそんな常識の埒外にある者の手によって殺された。
そう考えることで、自殺する直前の彼女のメンタルに異常がないことの説明がつく。
彼女は死ぬつもりなどなかった。
情報が足りない。しかし検索の条件は絞り込める。
自殺する理由のない少女たちの突発的な自殺。
自殺に見せかけた殺人の手がかり。
「Why done it?」の欠けた自殺。
そのからくりは、おそらく僕らの常識の外にある。
◇◆◇
馬鹿馬鹿しい。あまりにも馬鹿馬鹿しい。
こんなものは仮説ですらない。
殴り書きのメモを見てそう思う一方で、すべてを唾棄できない自分がいた。
もし僕に霊感がなかったら、もっと簡単に諦めがついていたかもしれない。
霊なんてものが見えなければ、彼らのささやきが聞こえることなんてなければ、僕はもっと簡単にこの件について自分なりの折り合いをつけることも出来ていたはずだった。
現代の科学では幽霊の存在を証明することは出来ていない。しかしそれは同時に幽霊の不在を証明したわけでもない。人間の認知にはまだ解明されていない部分も多く残されている。霊感なんてものもそのうちの一つだ。僕たちはそんな、古くからそこにあるかもしれない何かの存在を心のどこかで感じつつ、それをないものとして片付けることで、自身の認知負荷から身を守って生きている。
僕にしてみても、科学的観点から幽霊の存在を否定してはいるけれど、僕の目は、耳は、脳は……時折彼らの存在を否応なく知覚し、その記憶をよどみなく記録している。
理屈で否定することは出来ても、ほかならぬ僕自身の身体が、彼らの事を知っている。
日常のすぐ隣にある深淵。覗くつもりなんてなくても、深淵は常に僕たちの隣でこちらを見つめている。
そう、これは予感だ。彼女の死を、葛原玲奈が死んだ本当の理由を知るには、いまだこちらを睨みつけている深淵を見つめ返さないといけないという予感。
僕にはそれが、とても恐ろしい事のように思えた。
けれどそれ以上に、何かが引っ掛かる。僕の中にある最も信頼におけない、しかし最も原始的な感覚が確信にも近い叫び声で僕に何かを訴えかけてきている。そしてそれは「なぜ葛原玲奈が死ななければならなかったのか」という根源的な疑問とがっちりと結びついていた。
おそらく、この衝動はもう僕には止められない。既に僕は思考の片手間に何件かメールを打っていた。
「来たか」
早速返ってきたメールには、ただ場所だけが指定されていた。
──旧尼子原市民会館。
別にメールでまとめて送ってくれてもいいのだけれど、送り主はそういった手法を好まないタイプの人間だった。何か用事があればこんな具合に場所だけを指定して返信をしてくる。今時珍しい、奇特なタイプという言葉がぴったり当てはまる。
とにもかくにも、呼ばれたからには行く以外の選択肢はない。夜も更け始める頃合いだけれど、幸いにして夜歩きを咎められるような家柄でもないので、母に少し出かけてくる旨を伝えてから、僕は財布と携帯だけをリュックに詰め込んで家を飛び出した。
◇◆◇
旧尼子原市民会館。かつて尼子原市の役所が置かれていた場所。施設の老朽化と地盤のゆるみによる改築が迫られていたが、地盤強化も込みで改築するよりも新しい土地に役所を建てた方が安上がりという事で放棄され、現在は誰も寄り付かない廃館となっている。
周囲に該当らしい街灯もなく、人通りも少ないこの場所は、夜になるとさながら異界のような様相を見せる。特産品の日本人形や着物の展示なんかもそのまま放置されているため、宵闇に浮かび上がるそれらの佇まいははっきり言って不気味だ。一方、その様相を不気味がって誰も近づかないため、こういう話をする上では幾分か都合のいい場所でもある。
霊的存在についてある程度長く触れてきた僕には免疫があるが、玲奈はこういう場所がめっぽう苦手だったなと、息も絶え絶えな明かりを頼りに進む僕は在りし日の記憶をたどる。
朽ちたリノリウムの床を踏み散らしていくと、積もっていた埃が舞い上がって、携帯のライトの光の中で雲母のように揺れている。見通しの悪い足元に難儀しながら先を進み、かつては窓口であったろう場所にたどり着くと、僕を呼び出した当人は既にそこで待っていた。
「ずいぶんと早く着いたね、百瀨君」
「待たせてしまうのもなんですし、こんな夜更けに女性がこんな場所に来ること自体、あまりいいことではないですから」
「この私を一人の女性として扱ってくれるのかい? はは、うれしいね」
酒々井翠。占い師。普段は繁華街で占いの露店をしている。年齢不明、住所不明。分かっているのはオカルト周りの事情に詳しい事。彼女の占いにはほぼ外れがないという事。
「凶兆あり」
「勝手に僕を占わないでください」
「見えたものをそのまま伝えただけ。私の的中率は君も知っているだろう。ロハで占ってるんだからありがたく受け取っておきなさい」
「…………」
それが余計なのだが……。
付き合っていても栓がないので、さっそく僕は本題へと移る。
「それで、先ほど送ったメールの件ですが」
「ああ、その話ね」
翠さんはそう言って携帯を取り出し、窓口の机に腰を掛けながら、さっき僕が送ったメールを検める。
「カッターナイフ一本からずいぶんな仮説を立てたものだ。百瀨君には小説家の才能があるのかもしれないね」
「僕だって突飛だとは思っていますよ。現実的にはあり得ないことのオンパレードですから」
「──実存は真実に先立つ」
「はい?」
「ジャン=ポール・サルトル、実存主義の哲学者」
「いえ、それは知ってますけど、何で今それを?」
ニーチェの次はサルトルか……どうやら今日の僕は実存主義に縁があるらしい。
「そもそも実存主義っていうのは、簡単に言うと『人間とは本質の前に存在する』ということで、本質なんてものがなくても我々人間は成立するという考え方なんだね。現代社会においては忘れられがちな部分ではあるけれど、本来人間に本質などというものは存在しない。周囲を科学や常識というディテールで装飾され、より社会的かつ合理的に自身を営むために、人間には絶えず使命だとか役割だとかいったものが無数にタグ付けされている。その上で不都合な概念や理解不能な存在というのは積極的に排除されるように、今の社会は構成されている」
「あるかどうかわからないものは、不便なので初めから存在しないものとして扱った方が都合が良い。っていう事ですか?」
「そう。それはある意味実存の否定に他ならない。ありものはありものとして、厳然としてそこに存在しているのだから」
「誰の目にも触れずにカッターナイフを盗み出した存在……」
「それが君の言う幽霊に相当するものなのかは分からない」
私には幽霊が見えないからねと前置きを置いてから、翠さんはさらに続けた。
「だけど君は確かにその存在を知覚している。一方で、私が見えると主張している精霊の類は君に知覚することは出来ない。だがやはり、私も彼らの存在を知覚することで人々の運命を観測することが出来ている。それは事実とも言えるし、あるいは解釈とも言える。けれどもそれを感じている我々がここに存在していることは誰にも否定できない」
「つまり……?」
「幽霊がカッターを盗んだという仮説は、少なくとも君が観測している現実の中では成立しうるということだ」
それはすなわち、僕の観測できる現実では人を意のままに操って自殺に導く手段も存在しうる可能性すら示唆している。自分で立てておいて今更な感はあるけれど、仮説と呼ぶにはやはり突飛に過ぎる気がする。
「百瀨君、仮説が正しいか否かは今考えたところでしょうがないんだよ。どの道現代社会の常識では立証不可能な問題なんだ。既知の理論で鍛えた鍵で未知の扉は開かない。ならばせめて君が見えているものを信じるんだ。君には『彼ら』が見える。それがこの問題の最初の鍵なんだからね」
無論、それは幽霊による窃盗や殺人が実在するのであれば──という前提が入るが。
僕の目に見えているもの。現実には存在しないとされているもの。現実で生きていくために、あえてないものとして認知を避けたもの。
僕には彼らの姿が見える。僕には彼らの声が聞こえる。意識すればいまだって、彼らはここにいる。それは僕が知るよりもずっと前から、そこにあり続けている。
「百瀨君、怪物と対峙するなら心したまえ。君が深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。しかし恐れてはいけない。君が君としてあり続ける限り、その胸の内に抱えた真実は誰にも穢すことは出来ないのだから」
翠さんはそう言って、一枚のカードを僕に差し出した。
「近頃、その近辺で複数の少女の霊を目撃したって噂が相次いでいる。君なら彼らの姿をはっきりと知覚できるんじゃないかな」
「彼女と……葛原玲奈と同じように死んだ霊ですか?」
「それは分からない。ただ、メールにあった不審な自殺が相次いでいることは私も聞き及んでいる。この目撃証言と例の事件、関係のあるなしをこの場で言い切るのはいささか早計なんじゃないかと思っているだけだ。まずは確かめてくるといい」
「分かりました、ありがとうございます」
「それじゃあ、私はこのまま仕事に戻るよ。百瀨君、くれぐれも用心したまえ。特に『狭間』は鬼門だ。そこでは決して足を止めてはいけないよ」
狭間……建物の隙間とか、路地裏とかだろうか。ピンポイントな割に解釈次第では結構な場所が当てはまりそうな感じではある。
ともかく心してかかろう。
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