Colors of the Ghost

痕野まつり

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第一章/夢幻泡影─Like the dream bubble shadow and phantom─

第参話:夜より青く

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 それは当然、夜の話。
 山本さんと私は非常口と消火栓の仄かな色彩に照らされた校舎へと侵入した。侵入とはいっても、ただすり抜けただけ。重厚な鉄の扉も、モルタルを詰めこんだ外壁も、霊体からしてみれば透過膜も同然。視界が壁に埋められた次の瞬間には、もうその先の景色が映っている。壁の内部の世界は見えないのだ。

 私立聖麗学院、小等部から数えればおよそ十二年の月日を過ごし、卒業を待たずして去ることになった私の母校。

 私の人生の半分以上が、かつてここにはあった。それはもう更新されることのない過去の記憶。去るものを見送るだけになった、思い出の残骸……というほど何かが形として残っている訳ではなかった。他の人がそうであるように、物質的な面で言えば、この場所にはただ人と人の往来と停滞があるに過ぎない。今の私から言えることはそれだけ。なぜなら私は心を欠いた霊体で、この場所に残されたものに見出す感傷を持ち合わせてはいないから。

 もしいま私がこの場所に何かを見出すとしたら、高等舎の三階女子トイレ。四つある洗面台の右から二番目。私が残してきた無意識の爪痕きろくを遥かに凌駕する痕跡をぶちまけたのがまさにここだった。
 既に洗い流されてしまったけれど、あの瞬間のこの場所は真っ赤に染め上げられていたはずだ。今となっては想像すらできないけれど。

「驚いたな」

 果たして、山本さんが口を開いた。ただ言葉を発しただけのような感想には、当然感情の変遷は感じられない。本当にそう思っているのかどうかすら疑わしい、ひどく淡々とした口調だった。
 それでも私は聞かざるを得ない。彼がこの場所に何を感じたのか。
「何がですか」と。

「何もないね、この場所には。確認するけど葛原さん、君の死に場所はここで間違いないんだね」
「間違いないです。私はいつも教室から一番近いここのトイレを使うので」
「そうか、だとすると厄介だ」
「あの、何もないというのは具体的には何を指して言っているのですか……」
「死人の残り香、絶命の残響、断末魔の残影。まあ、いろいろ言いようはあるね」

 何一つとして具体的な話はなかった。わざとはぐらかしているのか、そもそも私の求める具体性など存在しない何かなのか、前者はまずないと即断した私は、一人勝手に後者と解釈した。

「死者の痕跡は、そのままその人の死の証明になる。それは死者が死者であるために必要なものだ。それが存在しないということは、即ち君の死が世界に記帳されていないという事になる」
「つまり……」

 世界とかなんだとか、あまりにも大きく漠然としたワードが飛び出した話の中、私は驚くほど鮮明に山本さんの出す答えを導いていた。

 そう、私は。

「私が死んだという事実が、世界に認識されていない」
「言い方による」

 それは、私はもはや死者ですらなく、行く道も帰る道も絶たれ、世界から完全に切り離された存在になっていた事を意味しているのだろうか。

「亜死者、と呼ばれている」

 私が説明を求める前に山本さんが口を開いた。
 亜死者……言葉尻だけを捉えれば、死者の亜種ということになるけれど。

「普通の死者との違いは……」
「死ぬ事が人生の過程として記帳されている者。人は概ね、その生涯を通して何かを果たすために生まれる。しかし亜死者は死んだその後になって、ようやく使命の時を迎える。故にその時が来れば、本人の意思に関わらず死が訪れる。平たく言えばそう言う事だよ」
「私の死はあらかじめ定められていた、という事ですか」
「その言い方を借りるなら、人は生まれた時点で死ぬ事は確定しているよ。だが人の死は概ね本人の自助努力という過程を経れば延長することが出来る。そこと比較して、君の場合は延命措置が通用しない。死ぬと決まっている時期が来れば必ず死ぬ。そして死んだあと、本当の人生が幕を開く。無論憶測に過ぎないが、それは僕が今まで出会ってきた死者の中にもそういう人間がいたという事実から生まれた仮定の話だよ」
「その人は、死んだ後に一体何をしたんですか……」
「事故に逢いかけた恋人を助けた。物理的には回避不可能な巻き込み事故でね、そいつは車体をすり抜けて恋人を安全圏に押し出した後、そのまま事態を理解しないまま消えた」

 淡々と話す山本さんと同じトーンで「そうですか」と言う私。こう言ってはだけど、えらく平凡な答えが返ってきたというのが率直な感想だった。もちろん、そのケースがどれだけの奇跡であるかは理解できる。けれどここで私が感じたのは、そこまでして死ななければならない理由があったのかという純粋な疑問だった。それを成すことで自らに待っているのは、もはや送り出す生者もない孤独な死のみ。奇跡を対価にして得るにはあまりにも儚い、草葉の陰で四つ葉を見つけるような報酬だ。

 そんな未来が、私にも待っているのだろうか。そうだとして、私はこれから何をすればいいのだろう。

 謎を解くヒントを見つけに行った先で、さらなる深淵に足を踏み入れるような状況に陥った今、生前の葛原玲奈ならどんな顔を浮かべるのかと思い馳せる私がいた。
 恐怖するだろうか、絶望するだろうか。
 取り立てて大きな受難を経験した事のない普通の少女に、この現実を前にして正気を保つことが果たして可能なのだろうか。

 きっと答えは否なのだろう。どれだけ贔屓目に見ても、私は生前の自分にそこまでの期待は持てない。故にどれだけ心を欠いていても、私が死後の定めを課された亜死者であるという事実は、重く、確かな圧力を持って目の前に立ちふさがっていると自覚せざるを得なかった。

 これだけ現実離れした状況の中、これ以上に理解不能な展開があったものかと、困惑に顔を曇らせる自分を想像した。この迷走する思考に、生前ならどんな名前をつけただろう。

「ともあれ収穫はあった。どうやら君はタダでは死ねないらしい」

 それは単に往生際の悪さを嗤われているのだろうか。そうだとしてもそこに腹を立てる自分はいないのだけれど、なんだろう。言い返せない自分がなんとなく小さく思える。
 私は結局、どこまでもこういう人間なのだと、生前から何ひとつ、自分一人で成し遂げたことがなかった人生を早回しで振り返る。
 もはやそれは走馬灯ですらない。

「もう帰った方が良さそうですね」
「本当の帰る場所じゃなくてよければ、好きにするといい」
「いえ……何も私はそんな風に言ったつもりではないのですが」
「知っているよ。これは僕の思考の癖だ。僕らは皆、いずれしかるべき場所に帰還するべきだと、意識の根底に根付く価値観が時折顔を出すのさ。気にしないでくれ」
「そうですか」

 やむなくそっけない返事をしたけれど、内心どこかで期待している部分もあった。
 山本さんの持つ人間らしさ、それを欠片でも良い、見つけることができれば、あるいは私も自分の中に人間性の欠片を見つけ出すことができるのではないかと。
 そして私は思うのだ。私の意識の根底には、何が根付いているのだろうと。
 より厳密には、何が根付いていたのだろう、と。直面してみればりあきたりな疑問なようでいて、実際問題死んでからようやく至った疑問だった。
 死んで何もかも失ってしまってから見えてくるもの。見つけたところで手遅れなもの。かくも不毛な人の性、といったところだろうか。

 用が済み、どちらからとなく歩き出した私たちだったけれど、先に足を止めたのは山本さんだった。

「いるな、これは」
「何がですか……」
「よくないもの、だよ。ついでだ、祓ってから帰ろう。君とて母校に好ましからざる輩がうろついているのは嫌だろう」
「それは、まあ」

 もちろん御免被る。けれどそれよりも私が気になったのは、山本さんがいつになく強気な姿勢でいることだった。先日の件を思えば、ここは無視して帰っても不思議ではないのだけれど。

「今は警戒すべき生者はいないからね。思うようにやれる」

 そう言うなり、山本さんが腰から取り出したのは拳銃だった。そして私を置いてなんの迷いもなく廊下を渡り、やがて角を曲がって見えなくなったところで、撃鉄が振り下ろされる音がこだました。
何をしたのかはもう明白だった。急に空間から何かが抜けたような感覚がし、それが山本さんの言うところの「よくないもの」が滅ぼされたことを意味していたと理解した。
 けれども、あまりにもあっさりとやってのけてしまうものだから、私はまだ思考を回したまま止まっていた。そんな私をよそに、戻ってきた山本さんは平淡にこう言った。

「こうなったらね、もう仕方ないんだよ」

 この世界にも生存競争がある。私はそれを言外に悟った。
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