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第一章/夢幻泡影─Like the dream bubble shadow and phantom─
第弐話:透明な影
しおりを挟む私たちは人の居つくところには居られない。
それは死者と生者の間に定められた暗黙の了解。死者はただそこにいるというだけで、生者に対して影響を与える。人の知覚の精度は様々だけれど、すぐ近くに何かがいるという感覚は体のどこかであるのだ。本人がそれに気づいていないだけで、私たち死者がそこにいるという事実は揺るがない。
肉体は魂の牢獄だとプラトンは言った。かくも胡散臭い話はないけれど、そう、強いて言うなら私たちは精神エネルギーのようなものを常時全開の状態で歩き回っているのだ。魂から溢れるエネルギーを封じる体が死者にはない。私の体もつい先日に焼かれた。荼毘に付され、肉もはらわたも焼き尽くされた残骸をお父さんやお母さん、親戚のみんなが神妙な顔で壺に収めているのをこの目で見てきたばかりだ。
これが大腿骨です。これが骨盤です──。造血細胞が比較的少なく、2000度近い火炎に当てられても原形を留めていられる、人の体の中でも最も無機物に近い部分だけが、仰々しく取り出される。
これが喉仏です。ほら、こうしてみると仏様が合掌しているように見えますよね。だからこのお骨は最後に収めるんですーー。そう言って、職員の人は私の第二脊椎を勝手に仏だと騙って祀り上げる。
今もここにいる私からしてみれば、それはどうしようもなく人間の骸骨で、それはどうしようもなく「モノ」でしかなかった。
とまれかくまれ私は還るべき肉体を失い、以後は死者の習わしに従って自らの居所に人気のない静かな場所を選ぶことになった。廃屋とか、廃病院とか、廃工場とか、人々に見放され、放置された建造物の死体を、私たちは自らの精神を纏う殻として代用する。
けれどそれも所詮はその場しのぎの誤魔化し。そもそも死者が現世にとどまる理由はないのだ。私たちはいずれ消えなければならず、その先にある生命の源に還らなければならない。帰還を果たした魂は別の形に構築され、再び現世に解き放たれる。それがこの世界における命の輪廻の正体だ。
私たちはいわば、その義務を免除されているモラトリアム。そこから脱する方法はただひとつ。生前の心残りを解消し、自らの生に折り合いをつけること。
面白いのはここから先の話。
死者には様々な種類があって、私や山本さんはその中でも最も一般的な浮遊霊、霊能力者の家系に人間に隔世的に憑依することを宿命づけられた精霊。他にも生き霊やなんやらと、種類別に分けるとそれなりの数の霊がいるらしいのだけれど、その中でも特定の土地に居続ける地縛霊がいる。
彼らは現世を彷徨うこともなく、ただそこにあり続ける。山本さんから言わせてみれば、それは輪廻への帰還を放棄した永遠のモラトリアム。奇しくもその在り方は現世でもよく言う言葉で形容され、また奇しくもこっちの世界ではある種の社会問題とかしているらしい。
そう、彼らは。
「ニート……」
あまりにも俗世的な表現に、私は戸惑う。
私がどこまでも無力な霊体であることを自覚させられてからこっち、失意のまま山本さんに連れてこられた町外れの廃墟。そこで悠然と読書に耽っていたゴスロリ姿の女の子を指して、山本さんはそんな風に紹介したのだった。
玻璃エイル。彼女は訪れた私には一瞥もくれず、積み上げられた本の山を肘掛にして読書を続けている。吉本ばななのTSUGUMIだった。脇にはアルプスの少女ハイジ、マルドゥックスクランブル、タイヨウのうた。確認できる限り、彼女のレパートリーはどれも病弱、あるいは一度死んだヒロインが登場するものに偏っている。
「少し人見知りでね。僕とも滅多に話さないんだ」
「いえ、私は気にしませんが」
言った後で思うと、冷たい対応だったかもしれない。生前の私はこういう子は間違いなく放っておかなかった。けれど今はどうだろう。その時に思ったはずの感情がすっぽり抜け落ちてしまっていて……そう、玻璃エイルに声をかける理由を見つけることができない。
見つけることができないというより、見つけようという気概がわかない。私は今のこの人格にどれだけの「葛原玲奈」が残されているのか、にわかに疑問に思った。
「エイル、頼んでいたものを」
山本さんが言った。エイルは振り向く素振りすらもなく、まるで本のページでもめくるように、指先で虚空を撫でた。
するりと、何かが宙へ飛び出し、山本さんの手の中に吸い込まれる。
カッターナイフだった。血塗られた真新しいカッターナイフ、私の頸部を切り裂いた因縁の刃だった。
「どうしてそれを……」
「君が自殺者だと知ってからエイルに回収を頼んでおいた。このナイフは君の痕跡が残った唯一の品。いわば聖遺物のようなものだ。もっとも、聖槍や聖杯や聖釘や聖骸布のような神聖は帯びてはいないがね。しかし、これは現存する遺品の中で君の血に触れた最後の品でもある。今の君を君たらしめるおおよその由縁はその刃に刻まれた血にある」
「つまり……」
「依り代……いや楔とでも言おうか。君はこのカッターナイフによって現世に繋ぎとめられている。肌身離さず持ち歩くんだ。これは今の君以上に君らしくあるものだよ」
このありふれた工作道具が、今の私よりも私を「私」たらしめている。そんな突拍子もない話が、妙に胸に重い。私のすべては私自身すら切り裂いてしまうほどの刃——鋭利な鋭利な銀の中に閉じ込められてしまった……ということなのだろう。それはそれでそういうものなのだと諦めるほかなかった。私はただ、まだ消えたくないという一点のために現世に留まり続けているのだ。姿形に細かく文句を言うのは贅沢な話だと思う。
こんな、影すらも残せない肉体に私の意識が宿っているだけ、まだマシな方だろう。
いや、それを言うなら死んでしまうのが一番マシなのだけれど。
「さて、これからどうするんだい……。君は自分の死の真相を知りたがっていたようだけれど」
「ええ、そうは言いましたけど、具体的には何も。未だに右も左も分からない身の上ですし、自分に何ができるのかもわかりません」
今の私には何ができて、何ができないのか。知ることがあるとしたら、まずはそこからだろう。
しかし山本さんは。
「そうだね、端的に言えば、君を含め、僕たちは何でもできるし、何もできない」
「よくわかりません」
「例えば、先日君が阻止しようとした交通事故は後者に含まれる。一部の例を覗いて、僕たちは生体への干渉はできない」
「一部の例って、何ですか……」
「君は知らなくてもいい。健全な死者でありたいのならね」
「健全な、死者……」
死者に健全も不健全もあったものか、というのが私の率直な気持ちなのだけれど。
「君が見たあの黒い影、アレはもはや死者ですらない。輪廻の輪から外れた死に損ないどもの中のアウトサイダー、それが怨霊だ。生者に取り憑き、それを依り代に死と業を撒き散らす。連中はそういう手合いだよ」
「じゃあ、私が死んだのも」
「どうだろうね、怨霊の仕業にしては手が込みすぎている。聞けば君は自殺する直前にそのカッターを買ったんだろう。それがどうも引っかかる。ただ自殺に追い込むならもっと簡単な手段があったはずだ。ホームに飛び込ませるなり、車道に突っ込ませるなり、お膳立ては充分だった」
空恐ろしいことを簡単に言ってくれる。しかし山本さんは至って真剣だった。
真剣に、私のことを、私が死んだ理由を考えていてくれている。なのにそれに対しての感慨が私にはない。それはきっと、悲しいことなのだと思うし、私に感情と呼べるものが残っていたら、きっとそうしていたとも思う。
「タナトス」
薄氷のように澄んだ声が、清く鎮まるように響いた。声がした方向を向くまで、それがエイルのものだとは気がつかなかった。
「タナトス、ギリシャ神話の死の神か」
「そんなものがいるんですか?」
「まさか、そんなものは存在しない。エイルが言ったのは人の深層心理にある根元への帰還を目的とした自己破壊欲求、死の渇望とその衝動のことだよ。フロイトはそれをデストルドーと呼んだ」
デストルドー、言葉の響きだけでも充分な破壊力を感じる。私は無意識にその言葉を頭の中で繰り返していた。
デストルドー、死の渇望、自己破壊欲求、自殺衝動。
「タナトスは、蒼古領域に及ぶ退行欲求。いのちが、生命誕生以前の太源へと還りたいと願う魂の咆哮。それはウェルテルの自殺とは対極のもの」
視線を下に、文字の河を下流へ下流へと下っていくエイルの喋り方は、どこか預言者や神託の巫女めいた何かを感じる。幾度目かもしれない重版の吉本ばななの本でさえ、彼女の手に収まっている間は神聖な書物のように見えてしまうのが不思議だった。
「案外、その線もないことはないかもしれないな」
「私が、意識の外で死を望んだことですか?」
「そう嫌そうな顔をするな。タナトスは誰にでも存在する本能のようなものだ。仮に君のタナトスが君を殺したとしても、君に落ち度はないよ。これは仕組みなんだ」
「でも、そうだとしたら、だったらなおさら……」
「今も自分がここにいる理由が分からない……だろう。魂が望んだはずの死を遂げたのなら、君の魂は輪廻の輪に帰還していなければならない」
でもそうはならなかった。私は意識だけを取り残して、中途半端な思念体として現世に留まった。
私が今ここにいること、それそのものが私が自らの死に納得していないという証明になる。
今私は、間違いなく理由があってここにいるのだ。
それを知りたいと思う私が確かにここにいるのだ。
「話を戻そうか。今はそちらが先だろう」
「そうですね」
閑話休題、以後本題。
「僕がこうして物を持てているように、多少の訓練をすればある程度の物理干渉は可能だ。そうでなければ僕たちは何も果たしようがない。死者はそのわずかな干渉力をもって彼岸の情報を集め、輪廻帰還への道を作る」
「情報……」
「自分が死ぬに値したという根拠、だな。僕たちは納得するために、いや妥協するためにここにいる」
妥協、やはりそれしかないのかと、私は内心落胆する。
「僕たちは生者と会話できない。生者に触れることはできない。生者と同じ空間にはいられない。そして……世界は生者のためにある」
私たちに居場所はない。生者の成れの果てである私たちは、ダスト・トゥ・ダスト。還るべき場所に還るのみ。そうあれかし。
私たちにできることは何もない、山本さんの言葉の本質は、多分そこに根ざしている。
死者が意識を持って現世を彷徨う。それはきっと神の理から外れてしまった行いなのだろう。
だからせめて、私たちはどうにかしてリングの中に帰還するべきなのだろう。物理的な干渉手段が残されているのはきっとその証で、そういう意味では、エイルもその努力を怠るべきではないのだ。往生際の悪さにも、程というものがある。
だから私は、粛々とそれを全うしよう。
そのためには彼らの協力がいる。
「山本さん、もう一度あの場所までついてきてもらえますか?」
私が死んだあの場所に。
「わかった、ついていこう」
私たちは夜を待った。
影すら透ける、黒い夜を。
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