眩しかったから

松野井奏

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眩しかったから

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 7月のとある日、2年4組の教室の窓枠には紐がくくりつけられ、その先端にササキフミカの死体が垂れ下がっていた。夏用の制服に乱れはなく、肌は陽に翳せば透けるほど白かった。この蒸し暑いのに、フミカからはなんの温度も感じられない。
 けたたましく鳴く蝉の声が耳にわんわんと反響して、まるでサイレンのようだ。そうか。救急車を呼ばなくてはならない。いや、こういう時は警察だろうか。窓の近くに転がっている蹴り飛ばされたであろう椅子をぼうっと眺めながら、コバヤシはそう考えた。

 ササキフミカという生徒は、成績が良くも悪くもなく、目立つような素行も見当たらず、顔立ちは不器量でも特別美人でもなかった。だが、年頃に似合わない影のある、伏し目がちな黒の瞳がコバヤシには気になって仕方がなかった。
「コバヤシ先生、これ。」
 ノートを手渡してフミカが踵を返すと、長い黒髪がさらりと揺れた。
 おい、とコバヤシの喉元まで出かかった言葉はかき消えた。別の生徒がフミカの名を呼んだからだ。
「次体育だよ。一緒に行こう。」
 2人は足早に去っていく。まだ4月だというのにいやに蒸し暑い日のことだった。

 コバヤシという男は、偏差値が高くも低くもない女子中学校で、日本史の教師をしていた。人気者でも嫌われ者でもなく、現状に不満もなかったが向上心もなかった。友人には「若い女の子ばっかりで羨ましいよ。」などと言われるが、年頃の女子高生たちを相手にするのは、面倒以外の何物でもなかった。恋人のルリには「若い子に目移りしないでよ?」なんて冗談まじりに言われている。その度にコバヤシは「10代なんて女ではなく子どもだろう」と答えていた。本心であった。
 近頃いやに引っかかるのはササキフミカのことだ。1年生の頃は特に印象に残らなかったのだが、このところ目を引くのである。何がとは言えないのだが、フミカの目を見ると腹の中がざわざわと蠕く。コバヤシは、今日はもうこのことは考えないようにしようと決めた。

「ただいま。」
 扉を開け、小さな声でフミカは言った。
「少し遅かったんじゃない?」
 耳がキンとするような声でササキの母キョウコが言った。
「部活でちょっと…。」
「部活?あんたちゃんと勉強しないと高校で困るわよ。」
 勉強もちゃんとしてる、と心の中で返事をしたが、口に出して言い返すことはなかった。
「塾に間に合わなくなっちゃうから、早くご飯食べちゃいなさい。」
 フミカは無言で食卓についた。「私が学生の頃は…」「あんたの友達のタカギさんはいいわよね…」とキョウコは一方的に話し続ける。娘が一言も発していないことに気付いていないかのようであった。

「行ってきます。」
 またしても小さな声でフミカは言った。
「しっかり勉強しなさいよ。」
 キョウコのキンとする声に追い立てられるように家を出た。
 キョウコは専業主婦であった。14になり手のかからなくなった娘にちょっかいを出す他に、ストレスの発散方法を知らないのだ。キョウコの居場所は家庭にのみあり、そこでの存在の大きさこそが、世界におけるキョウコの存在意義を決定付けるのである。
 フミカの幼い頃からキョウコはあれこれと躾をし、褒めることはほとんどなかった。こんなに愚かな子は見たことがないとでもいうように、ため息をついたり、なじったり、時に癇癪を起こしては怒鳴りつけた。フミカがキョウコの顔色を伺うようになると、それもまたキョウコの気に障った。
「自分で考えられないの?」「もっと利口な子がよかった。」
 そういった言葉に顔を歪ませる娘を見ると、少しだけ気が晴れるような気がするが、一方で、「私の言葉に嫌な顔をする可愛くない子」という怒りが更に募るのであった。

「ササキさん最近元気なくない?」
 フミカが顔をあげると、目の前の席に座っているニシヤマショウが振り返ってこちらを見ていた。
「え…」
「勉強してて寝られてないとか?テストも塾もで大変だよね。」
 フミカは口を開いたが言葉が出てこなかった。
「今日途中まで一緒に帰ろう。もう遅いし。」
 ニシヤマは嫌味なところのない普通の少年であるが、フミカにとってそんなことは重要ではなかった。断る理由を見つけられず、無言で一緒に塾を出た。
「あのさ、気付いてるかもしれないけど俺、ササキさんのこと好きなんだ。付き合って欲しい。」
 ニシヤマは照れてこそいたが、フミカの目を見てハッキリ言ってのけた。フミカはその場を走り去ろうとしたが動けず、喉に込み上げてきたものをかがみ込んで吐き出した。息も絶え絶えである。目には涙が浮かんでいた。
「えっ、大丈夫…。」
 反射的に支えようとしたニシヤマの腕をフミカは払いのけた。そして頭を抱えて金切り声をあげ、泣きじゃくり始めた。
「ごめん……。」
 やっとのことでそう言うと、ニシヤマは走り去っていった。

 5月、2年4組の生徒全員からフミカは無視されるようになっていた。クラスの中心人物であるツジアヤノがフミカを気に入らないと言い出したことから始まったいじめだったが、フミカは泣くことも怒ることもなく、毎日学校に来ていた。両親にも担任にも相談する気にもなれず、クラスメイトを心底軽蔑しながらただ自分の席に座っていた。
 フミカには、なぜアヤノが自分を嫌うのか分かっていた。アヤノがニシヤマショウに好意を抱いていたからだ。同じ塾に通うアヤノは、フミカとニシヤマのやりとりを目撃していた。自分を選ばないニシヤマではなくフミカを憎み、人の好意を踏みにじった嫌な女だと正当化した。
 フミカと一緒にいた友達もあっという間に敵になった。フミカにはそれすらも最早問題ではなかったが。

 フミカの周りに誰もいなくなったことにコバヤシが気が付いたのは6月のことであった。
「ササキ、お前大丈夫なのか。」
フミカは何の感情も浮かんでいない目でこちらを見上げた。
「最近、元気ないだろう。悩みとかあるなら聞くぞ。」
コバヤシらしくない言葉だった。勇気を出して言った割には拍子抜けするくらい空虚で無意味な言葉だ。俺、教師向いてないかもな、と内心で思った。
「大丈夫です。」
フミカは薄い唇の両端をするりとあげ、笑ってみせた。自分の無力さとフミカのこれからを思うとコバヤシはゾッとした。

 ササキの父タダシは年相応に老けていて、サラリーマンとして妻を専業主婦にしておけるだけの年収を手にしていた。中肉中背で眼鏡をかけていて、スーツは高価でも安物でもない。タダシの人生において特筆すべき点はただ一つ、娘のフミカに劣情を抱いたことである。
 幼い頃から母親に冷たく当たられる娘を見ると可哀想であったし、それでもいい子であろうとするフミカの姿はいじらしくもあった。フミカが生まれる前は、キョウコも明るくて美しかったのにと思わずにはいられなかった。見た目だけは、フミカがキョウコに似て良かったと思っていた。どんどんと大人になる娘。どんどんと衰えていく妻。タダシは妻を醜いとさえ思っていた。自然とフミカの方に味方をし、フミカの方ばかりを見つめるようになった。
 キョウコにはそれが分かっていた。だからこそ、フミカが気に障るのであった。自分というものを差し置いて、娘が夫に選ばれるなど許せなかった。老いていくことも、女として娘に負けることも、夫の視界に入れないことも、何もかもが許せなかった。
 4月の上旬のこと、会社の帰りに酒を飲んで帰ったタダシは、寝ていたフミカに口付けた。着ていた服をまさぐると、小さい頃にはなかった膨らみを感じた。タダシは地獄に堕ちることに決めた。酔っていたし、正常な判断ができなかったのだと、あなたは思うかもしれない。だが、そうではない。タダシは明確に自分の行為が卑劣であることを知っていた。ただ、フミカも共に地獄の苦しみを味わうとは考えていなかった。この男は、キョウコの感情もフミカの感情も、眼中になかった。最初から「そう」なのである。こいつは化け物だった。
 目を覚ましたフミカは恐怖のあまり声を出せなかった。拒絶していいのかもわからなかった。声を出したらお母さんにバレちゃう、真っ先にそう思った。一言も発さなかった代わりに、涙は滝のように流れた。とめどない涙がしとどに枕を濡らしていた。
 ことが済むとフラフラとタダシは出て行った。この日からフミカの地獄は始まった。

 7月のあの日、教室の掃除をしていたのはフミカ1人だけだった。ふと窓の外を見ると、校門にニシヤマショウとツジアヤノが立っていた。2人は手を繋いで互いを見つめ合っている。その瞬間、フミカは死のうと決めた。眩しかったから。たとえどんなに足掻いても、一生自分はあの陽の光の中を誰かと手を繋いで歩けないのだと気付かされたからだった。
 この苦しみも、悲しみも、背負っていたところで何の意味があるというのだ。父に蹂躙され、母に邪険にされ、友人に排斥され、これから生きるに値する希望、それがフミカにはなかった。
 自殺をすると地獄に堕ちると言った人間がいたっけ。私が地獄に堕ちたら、そいつも、あいつも、あいつも、あいつも、みんなみんな地獄に堕としてやりたい。地獄がここよりそんなに悪い場所とは思えないけれど。もしもっと悪い場所があるなら、私がそこに絶対に引き摺り込んでやるんだ。初めて楽しみができた気がして、笑いながら椅子の上に立った。
 バイバイ。また会おうね。
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