46 / 55
第4章 露れるのは真実と嘘
8.声は無く
しおりを挟む
司を押さえつけたまま、隠邪は喉の奥でぐぐぐと嫌な音を立てる。
『気になるかぁぁぁ? 気になるよなぁぁぁ。教えてやるよぉぉぉ、人間の嘘をさぁぁぁ。そしたら狐ちゃんはぁぁぁ、オレと一緒にぃぃぃ、来たくなるぜぇぇぇぇぇ』
司は何も言えない。ユクミも、聡一も、何も言わない。
ギィギィと軋む金属にも似た、猿の声だけが辺りに響く。
『むかしむかしのぉぉぉ、話さぁぁぁ。ある村によぉぉぉ、一人の老人が来たんだぁぁぁぁ。そいつは言ったぜぇぇぇ。「この村にあるぅぅぅ、狐の頭をぉぉぉ、譲ってもらえないかぁぁぁ」ってさぁぁぁぁ!』
村人は断った。
その“狐の頭”は妖怪の一部であり、隠邪から村を守ってくれる大事な品なのだからおいそれと渡すわけにはいかなかったのだ。
しかし老人は言った。
「もしも狐の頭を譲ってくれるのなら礼として金を払うし、お前たちが望むのなら“隠邪が現れなくなる術”をこの村に施してやってもいい」
「その術はどのくらいのあいだ続く?」
「永劫にだ」
村人はごくりとつばを飲み込んだ。
もしもこの老人の話が本当ならば、妖の頭を渡すと引き換えに金が入る上、村に隠邪が出なくなるというのだ。
「本当だな?」
「もちろんだとも」
こうして村人は妖の頭を老人に渡し、金を手にした――。
「嘘だ!」
昔語りの声にかぶさるような高い声が響く。
いつの間にか顔から手をどけたユクミが、猿をひたと睨んでいる。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ! だって父さんは私と約束した! 村に隠邪が出ないようにするなら、母さんの頭を大事にしておいてくれるって約束したんだ! だから村に隠邪がでなくなった理由が私でなくても! あの人の術でも! 母さんの頭はちゃんと村で大事に!」
『その約束がさぁぁぁ、守られなかったんだよぉぉぉぉ』
ユクミは白い髪を振り乱して「嘘だ!」とさらに叫ぶが、
『俺はぁぁぁ、嘘を言わないぜぇぇぇぇ』
猿は再びグギギと嫌な音を立てて笑う。
しかし、今回は笑ったあとで一転、
『可哀想ぉぉぉだぁぁなぁぁぁぁぁ』
と、驚くほど優しい声を出した。
『可哀想なぁぁぁ、狐ちゃんよぉぉぉ。オレは知ってるぜぇぇぇ。お前がぁぁぁ、頑張ってたのをぉぉぉ、知ってるぜぇぇぇぇ。傷ついてぇぇぇ、ボロボロになってぇぇぇ、それでも頑張ってぇぇぇ、隠邪を倒してたのぉぉぉ、知ってるぜぇぇぇぇぇ』
辺りに響く声は相も変わらず軋む金属のようだというのに、なぜだか胸の奥に沁みわたるように聞こえた。
優しく、あたたかく、寒さで震えているとき与えられた毛布のように、ふわふわと心をくるんでくれるように思えた。
だからこそ司は気持ち悪くて仕方がない。
この声を発しているのは隠邪だ。闇に棲んで人間を食うだけの存在が優しさなど持ち合わせているはずがないのに、なぜ。
傍で聞いている司でさえ猿が唯一の理解者だと錯覚してしまうほどなのだから、話しかけられている当のユクミは目に涙をいっぱいにためて、すがるような眼差しを猿に向けている。
『村からぁぁぁ、隠邪をぉぉぉ、遠ざけていたのはぁぁぁ、狐の頭の力じゃないぃぃぃ。本当はぁぁぁ、狐ちゃんがぁぁぁ、必死にぃぃぃ、倒していたんだよなぁぁぁ。あの村にぃぃぃ、母親の頭をぉぉぉ、置いてもらうためにぃぃぃ、頑張ってぇぇぇ、頑張ってぇぇぇ、頑張ってたんだよなぁぁぁぁ』
「どうして……知って……」
『知ってるさぁぁぁ。オレは何でもぉぉぉ、知ってるのさぁぁぁ。狐ちゃんはさぁぁぁ、何もぉぉぉ、悪くないぜぇぇぇ。悪いのはぁぁぁ、全部ぅぅぅ、嘘つきのぉぉぉ、父親……』
言いかけて猿は喉の奥で「ング」という変な音を立てる。
それは今までの笑い声とは違う、意図せず苦いものを飲んだような、柔らかいと思って噛んだら硬くて驚いたかのような、そんな響きを含んでいたように思う。
しかしそれも一瞬のことで、猿はすぐにまた「グググ」と笑い、優しい声でユクミに語り掛ける。
『酷いよなぁぁぁ、頑張ったぁぁぁ、狐ちゃんにぃぃぃ、嘘をつくなんてよぉぉぉ。人間はぁぁぁ、酷い奴らばっかりだぁぁぁぁ。――ああぁぁぁ、狐ちゃんよぉぉぉ、可哀想になあぁぁぁ。そんなに泣いてぇぇぇぇぇ』
ユクミは声も出さずに泣いていた。
押さえつけられて何もできない司は、黄金の瞳から溢れた大粒の涙が白い頬を伝い、聡一の袖や地面を濡らす様子を、猿が言う前からただ見ていた。
『無理もないさぁぁぁ。あの村によぉぉぉ、まだ母親の頭がなぁぁぁ、あるはずだってさぁぁぁ、狐ちゃんはよぉぉぉ、何百年もぉぉぉ、信じぃぃぃてたんだもんなぁぁぁぁ。だろぉぉぉぉぉ?』
隠邪の声に引き込まれるようにして、小さな頭がこくりと動く。
『無くなったぁぁぁ、母親の頭ぁぁぁ、探したいよなぁぁぁぁ』
小さな頭が再び上下に動いた。
『オレがぁぁぁ、探してやるよぉぉぉ。狐ちゃんのぉぉぉ、母親の頭をさぁぁぁ、探してぇぇぇ。お前の手にぃぃぃ、戻してぇぇぇ、やるよぉぉぉぉ』
「……そんな、こと、できない」
『できるさぁぁぁ』
「……できる……」
『そうさぁぁぁぁぁ。できるのさぁぁぁぁ』
「……本当に?」
か弱い声にほんのわずかな希望がまざった。猿がわずかにみじろぎをする。
『本当さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!』
猿は笑う。今までと同じはずなのに弦楽器の旋律のような優美さを感じる声は、もはや金属の軋む音とは言えない。
「どう、すればいい?」
『簡単なぁぁぁ、ことだぜぇぇぇ。オレと一緒にぃぃぃ、来ればいいぃぃぃぃぃ』
ユクミは涙に濡れた顔を上げる。その表情からは猿に対する嫌悪が消えていた。ただ、まだ迷いは残っている。もしも司が声を掛けられたら状況はきっと変わるだろうと思うのに、司は相変わらず猿に押さえつけられていて口を開くことができない。
せめてユクミが司を見てくれたらと願うが、ユクミはまっすぐに猿だけを見ている。
『オレはぁぁぁ、人間と違ってぇぇぇ、嘘をつかないぜぇぇぇぇ。だからぁぁぁ、約束してやるよぉぉぉぉ。オレと来たらぁぁぁ、狐ちゃんはぁぁぁ、母親とぉぉぉ、離れずにぃぃぃ、すむぜぇぇぇぇぇ』
「離れずに……」
『そうさぁぁぁぁぁぁ』
「でも……私は」
『余計なぁぁぁ、ことなんてぇぇぇ、考えるなよぉぉぉぉぉ』
再び生じたユクミの迷いを切り払うように自分の声を被せ、猿は優しくも強い口調で言う。
『今まではぁぁぁ、悲しいことやぁぁぁ、寂しいことぉぉぉ、ばっかりだったろぉぉぉぉ。これからはぁぁぁ、幸せな時間だけぇぇぇ、過ごせばいいぃぃぃ。幸せでぇぇぇ、楽しいことだけぇぇぇ、考えてればぁぁぁ、いいんだぁぁぁぁぁ』
猿は身を乗り出す。
『オレとぉぉぉ、来いよぉぉぉぉぉぉぉぉ』
ユクミは猿を見つめる。猿だけを見る。
そうして、こっくりと頭を上下させた。
『――つかまえたぞ!』
猿の吼える声が響くと同時に体が自由になった。司は跳ねるようにして起き上がり、結んでいた右手の刀印を振り向きざま横に薙ぐ。
「隠邪逐滅――烈斬!」
しかしそこに司の攻撃を受けるべき対象は存在しなかった。空間がわずかに揺らいだ気がしたが、それだけだ。
司は慌てて右、左、さらに後ろと探し、さらに三回ぐるりと見回す。
辺りには誰もいない。
猿の隠邪も聡一も。ユクミの姿も、ない。
「ユクミ!」
司が叫び、待っても、どこからも返事はなかった。
もう一度顔を巡らせ、司は右手の刀印はそのままに歩き出す。
近くの小さな建物の中からは甘い香りが漂い、薄暗い店内では中年の女性が座っていた。
司は古びた扉に手を掛ける。横に開き、ガラスに映る気抜けした自分の姿を視界から消すと、中にいた女性が茫洋とした目で出入り口を見ながらにこりと笑う。
「いらっしゃい。ここは駄菓子屋さんよ」
扉を開けたまま司は無言で中に入る。先ほど聡一が現れたと思しき場所の横にしゃがんで見分してみるが、ヒビの入ったコンクリートの床にも古びた木の棚にも何の痕跡もない。
視線を上げると、相変わらず出入り口の方へ顔を向けたままのアヤがいる。
「……今しがた外で起きたことを見ていましたか?」
「好きなお菓子を選んで持ってきてね」
「さっき聡一が店の中に現れましたよね」
「このお店には毎日たくさんの子が来るの」
平坦で無機質な声を聞きながら立ち上がり、司は店を出た。
おそらくこのアヤは機械の自動音声と同じだ。いくつかの言葉を状況に応じて話しているだけ。何も見ていないし、何かの答えを期待することもできない。
しばらく歩き、司は小さな足音が聞こえないことを再確認する。後ろを振り返り、ただ風が吹くばかりの道を見つめ、眉を寄せ、「くそ!」と叫んで近くのブロック塀に拳を叩きつけた。これが何に対しての苛立ちなのかは心が混沌とし過ぎていて司自身にも分からない。
しかしただ一つだけ確実なことがある。
この異界で司は、一人きりになってしまったのだ。
『気になるかぁぁぁ? 気になるよなぁぁぁ。教えてやるよぉぉぉ、人間の嘘をさぁぁぁ。そしたら狐ちゃんはぁぁぁ、オレと一緒にぃぃぃ、来たくなるぜぇぇぇぇぇ』
司は何も言えない。ユクミも、聡一も、何も言わない。
ギィギィと軋む金属にも似た、猿の声だけが辺りに響く。
『むかしむかしのぉぉぉ、話さぁぁぁ。ある村によぉぉぉ、一人の老人が来たんだぁぁぁぁ。そいつは言ったぜぇぇぇ。「この村にあるぅぅぅ、狐の頭をぉぉぉ、譲ってもらえないかぁぁぁ」ってさぁぁぁぁ!』
村人は断った。
その“狐の頭”は妖怪の一部であり、隠邪から村を守ってくれる大事な品なのだからおいそれと渡すわけにはいかなかったのだ。
しかし老人は言った。
「もしも狐の頭を譲ってくれるのなら礼として金を払うし、お前たちが望むのなら“隠邪が現れなくなる術”をこの村に施してやってもいい」
「その術はどのくらいのあいだ続く?」
「永劫にだ」
村人はごくりとつばを飲み込んだ。
もしもこの老人の話が本当ならば、妖の頭を渡すと引き換えに金が入る上、村に隠邪が出なくなるというのだ。
「本当だな?」
「もちろんだとも」
こうして村人は妖の頭を老人に渡し、金を手にした――。
「嘘だ!」
昔語りの声にかぶさるような高い声が響く。
いつの間にか顔から手をどけたユクミが、猿をひたと睨んでいる。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ! だって父さんは私と約束した! 村に隠邪が出ないようにするなら、母さんの頭を大事にしておいてくれるって約束したんだ! だから村に隠邪がでなくなった理由が私でなくても! あの人の術でも! 母さんの頭はちゃんと村で大事に!」
『その約束がさぁぁぁ、守られなかったんだよぉぉぉぉ』
ユクミは白い髪を振り乱して「嘘だ!」とさらに叫ぶが、
『俺はぁぁぁ、嘘を言わないぜぇぇぇぇ』
猿は再びグギギと嫌な音を立てて笑う。
しかし、今回は笑ったあとで一転、
『可哀想ぉぉぉだぁぁなぁぁぁぁぁ』
と、驚くほど優しい声を出した。
『可哀想なぁぁぁ、狐ちゃんよぉぉぉ。オレは知ってるぜぇぇぇ。お前がぁぁぁ、頑張ってたのをぉぉぉ、知ってるぜぇぇぇぇ。傷ついてぇぇぇ、ボロボロになってぇぇぇ、それでも頑張ってぇぇぇ、隠邪を倒してたのぉぉぉ、知ってるぜぇぇぇぇぇ』
辺りに響く声は相も変わらず軋む金属のようだというのに、なぜだか胸の奥に沁みわたるように聞こえた。
優しく、あたたかく、寒さで震えているとき与えられた毛布のように、ふわふわと心をくるんでくれるように思えた。
だからこそ司は気持ち悪くて仕方がない。
この声を発しているのは隠邪だ。闇に棲んで人間を食うだけの存在が優しさなど持ち合わせているはずがないのに、なぜ。
傍で聞いている司でさえ猿が唯一の理解者だと錯覚してしまうほどなのだから、話しかけられている当のユクミは目に涙をいっぱいにためて、すがるような眼差しを猿に向けている。
『村からぁぁぁ、隠邪をぉぉぉ、遠ざけていたのはぁぁぁ、狐の頭の力じゃないぃぃぃ。本当はぁぁぁ、狐ちゃんがぁぁぁ、必死にぃぃぃ、倒していたんだよなぁぁぁ。あの村にぃぃぃ、母親の頭をぉぉぉ、置いてもらうためにぃぃぃ、頑張ってぇぇぇ、頑張ってぇぇぇ、頑張ってたんだよなぁぁぁぁ』
「どうして……知って……」
『知ってるさぁぁぁ。オレは何でもぉぉぉ、知ってるのさぁぁぁ。狐ちゃんはさぁぁぁ、何もぉぉぉ、悪くないぜぇぇぇ。悪いのはぁぁぁ、全部ぅぅぅ、嘘つきのぉぉぉ、父親……』
言いかけて猿は喉の奥で「ング」という変な音を立てる。
それは今までの笑い声とは違う、意図せず苦いものを飲んだような、柔らかいと思って噛んだら硬くて驚いたかのような、そんな響きを含んでいたように思う。
しかしそれも一瞬のことで、猿はすぐにまた「グググ」と笑い、優しい声でユクミに語り掛ける。
『酷いよなぁぁぁ、頑張ったぁぁぁ、狐ちゃんにぃぃぃ、嘘をつくなんてよぉぉぉ。人間はぁぁぁ、酷い奴らばっかりだぁぁぁぁ。――ああぁぁぁ、狐ちゃんよぉぉぉ、可哀想になあぁぁぁ。そんなに泣いてぇぇぇぇぇ』
ユクミは声も出さずに泣いていた。
押さえつけられて何もできない司は、黄金の瞳から溢れた大粒の涙が白い頬を伝い、聡一の袖や地面を濡らす様子を、猿が言う前からただ見ていた。
『無理もないさぁぁぁ。あの村によぉぉぉ、まだ母親の頭がなぁぁぁ、あるはずだってさぁぁぁ、狐ちゃんはよぉぉぉ、何百年もぉぉぉ、信じぃぃぃてたんだもんなぁぁぁぁ。だろぉぉぉぉぉ?』
隠邪の声に引き込まれるようにして、小さな頭がこくりと動く。
『無くなったぁぁぁ、母親の頭ぁぁぁ、探したいよなぁぁぁぁ』
小さな頭が再び上下に動いた。
『オレがぁぁぁ、探してやるよぉぉぉ。狐ちゃんのぉぉぉ、母親の頭をさぁぁぁ、探してぇぇぇ。お前の手にぃぃぃ、戻してぇぇぇ、やるよぉぉぉぉ』
「……そんな、こと、できない」
『できるさぁぁぁ』
「……できる……」
『そうさぁぁぁぁぁ。できるのさぁぁぁぁ』
「……本当に?」
か弱い声にほんのわずかな希望がまざった。猿がわずかにみじろぎをする。
『本当さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!』
猿は笑う。今までと同じはずなのに弦楽器の旋律のような優美さを感じる声は、もはや金属の軋む音とは言えない。
「どう、すればいい?」
『簡単なぁぁぁ、ことだぜぇぇぇ。オレと一緒にぃぃぃ、来ればいいぃぃぃぃぃ』
ユクミは涙に濡れた顔を上げる。その表情からは猿に対する嫌悪が消えていた。ただ、まだ迷いは残っている。もしも司が声を掛けられたら状況はきっと変わるだろうと思うのに、司は相変わらず猿に押さえつけられていて口を開くことができない。
せめてユクミが司を見てくれたらと願うが、ユクミはまっすぐに猿だけを見ている。
『オレはぁぁぁ、人間と違ってぇぇぇ、嘘をつかないぜぇぇぇぇ。だからぁぁぁ、約束してやるよぉぉぉぉ。オレと来たらぁぁぁ、狐ちゃんはぁぁぁ、母親とぉぉぉ、離れずにぃぃぃ、すむぜぇぇぇぇぇ』
「離れずに……」
『そうさぁぁぁぁぁぁ』
「でも……私は」
『余計なぁぁぁ、ことなんてぇぇぇ、考えるなよぉぉぉぉぉ』
再び生じたユクミの迷いを切り払うように自分の声を被せ、猿は優しくも強い口調で言う。
『今まではぁぁぁ、悲しいことやぁぁぁ、寂しいことぉぉぉ、ばっかりだったろぉぉぉぉ。これからはぁぁぁ、幸せな時間だけぇぇぇ、過ごせばいいぃぃぃ。幸せでぇぇぇ、楽しいことだけぇぇぇ、考えてればぁぁぁ、いいんだぁぁぁぁぁ』
猿は身を乗り出す。
『オレとぉぉぉ、来いよぉぉぉぉぉぉぉぉ』
ユクミは猿を見つめる。猿だけを見る。
そうして、こっくりと頭を上下させた。
『――つかまえたぞ!』
猿の吼える声が響くと同時に体が自由になった。司は跳ねるようにして起き上がり、結んでいた右手の刀印を振り向きざま横に薙ぐ。
「隠邪逐滅――烈斬!」
しかしそこに司の攻撃を受けるべき対象は存在しなかった。空間がわずかに揺らいだ気がしたが、それだけだ。
司は慌てて右、左、さらに後ろと探し、さらに三回ぐるりと見回す。
辺りには誰もいない。
猿の隠邪も聡一も。ユクミの姿も、ない。
「ユクミ!」
司が叫び、待っても、どこからも返事はなかった。
もう一度顔を巡らせ、司は右手の刀印はそのままに歩き出す。
近くの小さな建物の中からは甘い香りが漂い、薄暗い店内では中年の女性が座っていた。
司は古びた扉に手を掛ける。横に開き、ガラスに映る気抜けした自分の姿を視界から消すと、中にいた女性が茫洋とした目で出入り口を見ながらにこりと笑う。
「いらっしゃい。ここは駄菓子屋さんよ」
扉を開けたまま司は無言で中に入る。先ほど聡一が現れたと思しき場所の横にしゃがんで見分してみるが、ヒビの入ったコンクリートの床にも古びた木の棚にも何の痕跡もない。
視線を上げると、相変わらず出入り口の方へ顔を向けたままのアヤがいる。
「……今しがた外で起きたことを見ていましたか?」
「好きなお菓子を選んで持ってきてね」
「さっき聡一が店の中に現れましたよね」
「このお店には毎日たくさんの子が来るの」
平坦で無機質な声を聞きながら立ち上がり、司は店を出た。
おそらくこのアヤは機械の自動音声と同じだ。いくつかの言葉を状況に応じて話しているだけ。何も見ていないし、何かの答えを期待することもできない。
しばらく歩き、司は小さな足音が聞こえないことを再確認する。後ろを振り返り、ただ風が吹くばかりの道を見つめ、眉を寄せ、「くそ!」と叫んで近くのブロック塀に拳を叩きつけた。これが何に対しての苛立ちなのかは心が混沌とし過ぎていて司自身にも分からない。
しかしただ一つだけ確実なことがある。
この異界で司は、一人きりになってしまったのだ。
21
【作者からのお知らせ】
美麗な表紙絵も描いてくださっているベアしゅう様が、第2章「5.告げられた内容」のワンシーンをマンガにしてくださいました。
司とユクミがとっても魅力的なんです。
すごく素敵なので、ぜひぜひご覧ください!
★★ベアしゅう様のpixivページ★★
美麗な表紙絵も描いてくださっているベアしゅう様が、第2章「5.告げられた内容」のワンシーンをマンガにしてくださいました。
司とユクミがとっても魅力的なんです。
すごく素敵なので、ぜひぜひご覧ください!
★★ベアしゅう様のpixivページ★★
お気に入りに追加
35
あなたにおすすめの小説

お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
『霧原村』~少女達の遊戯が幽から土地に纏わる怪異を起こす~転校生渉の怪異事変~
潮ノ海月
ホラー
とある年の五月の中旬、都会から来た転校生、神代渉が霧野川高校の教室に現れる。彼の洗練された姿に女子たちは興味を示し、一部の男子は不満を抱く。その中、主人公の森月和也は、渉の涼やかな笑顔の裏に冷たさを感じ、彼に違和感を感じた。
渉の編入から一週間が過ぎ、男子達も次第に渉を受け入れ、和也の友人の野風雄二も渉の魅力に引き込まれ、彼の友人となった。転校生騒ぎが終息しかけたある日の学校の昼休み、女子二人が『こっくりさん』で遊び始め、突然の悲鳴が教室に響く。そしてその翌日、同じクラスの女子、清水莉子が体調不良で休み、『こっくりさん』の祟りという噂が学校中に広まっていく。その次の日の放課後、莉子を心配したと斉藤凪紗は、彼女の友人である和也、雄二、凪沙、葵、渉の五人と共に莉子の家を訪れる。すると莉子の家は重苦しい雰囲気に包まれ、莉子の母親は憔悴した姿に変わっていた。その異変に気づいた渉と和也が莉子の部屋へ入ると、彼女は霊障によって変わり果てた姿に。しかし、彼女の霊障は始まりでしかなく、その後に起こる霊障、怪異。そして元霧原村に古くから伝わる因習、忌み地にまつわる闇、恐怖の怪異へと続く序章に過ぎなかった。
《主人公は和也(語り部)となります。ライトノベルズ風のホラー物語です》
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈@2/28コミカライズ発売
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化

セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

【完結】側妃は愛されるのをやめました
なか
恋愛
「君ではなく、彼女を正妃とする」
私は、貴方のためにこの国へと貢献してきた自負がある。
なのに……彼は。
「だが僕は、ラテシアを見捨てはしない。これから君には側妃になってもらうよ」
私のため。
そんな建前で……側妃へと下げる宣言をするのだ。
このような侮辱、恥を受けてなお……正妃を求めて抗議するか?
否。
そのような恥を晒す気は無い。
「承知いたしました。セリム陛下……私は側妃を受け入れます」
側妃を受けいれた私は、呼吸を挟まずに言葉を続ける。
今しがた決めた、たった一つの決意を込めて。
「ですが陛下。私はもう貴方を支える気はありません」
これから私は、『捨てられた妃』という汚名でなく、彼を『捨てた妃』となるために。
華々しく、私の人生を謳歌しよう。
全ては、廃妃となるために。
◇◇◇
設定はゆるめです。
読んでくださると嬉しいです!
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
【商業企画進行中・取り下げ予定】さようなら、私の初恋。
ごろごろみかん。
ファンタジー
結婚式の夜、私はあなたに殺された。
彼に嫌悪されているのは知っていたけど、でも、殺されるほどだとは思っていなかった。
「誰も、お前なんか必要としていない」
最期の時に言われた言葉。彼に嫌われていても、彼にほかに愛するひとがいても、私は彼の婚約者であることをやめなかった。やめられなかった。私には責務があるから。
だけどそれも、意味のないことだったのだ。
彼に殺されて、気がつけば彼と結婚する半年前に戻っていた。
なぜ時が戻ったのかは分からない。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。
私は、私の生きたいように生きます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる