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第3章 共鏡の世界にのぞむ
12.痛みはどうして
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何百年もこの灰色の領域で過ごしてきたユクミは止むことのない雨の音をずっと聞いてきた。屋根を叩く微かな音も、集まった雫が地に落ちる音も馴染み深いもののはずなのに、今このときの音はこれまでの静かな寂しさを纏うものと違うように思える。
「……聡一、は」
雨の音を消すようにして、司が再び口を開く。
「聡一は、隠邪を優先しなかった。その行動は、さすがに祓邪師の中で問題になった。でも、知穂ちゃんを亡くした聡一は見てられないほどに憔悴してて……」
その時のことを思い出したのだろう、司は少し顔を顰め、しかしすぐまた表情を消す。
「さすがに追及は出来なかったっていう人と、それこそが罰なんだという人がいた。どっちにせよ両者の意見は『もういいだろう』ってことで合致してたから、目に見える形では『政府からの報奨金の額を減らす』っていう話で落ち着いたんだ」
「そうか……」
そんな処断で聡一が心を動かされなかっただろうことは完全に無関係なユクミでさえ容易に想像がついた。これは単に、「罰した」という体裁が祓邪師側に必要だったため下しただけなのだろうと思う。
「隠邪を一定の場所に閉じ込める手段はなかったのか? そうすれば、隠邪がどこへ向かっても焦らずに済んだのに」
ユクミが言うと、司は「なかったんだよ」と返して口元だけで笑う。
「当時の俺もそう思った。もっと前から本腰入れて『結界』みたいな術を作ってくれてたら良かったのに、ってさ。……でも、考えてみれば仕方なかったのかもしれない。数十年前まではあの近辺に住む人なんて祓邪師ばっかりだったから、他の人を排除する必要もなかったし、それに……新しい術を編み出すのだってそう簡単な話でもなかったんだ」
自身の手のひらを見つめる司の口調からは悔しさと嘆きが感じられた。もしかしたら知穂がいなくなった後の司は新たな術を作ろうと躍起になったのかもしれない。父親の聡一ほどでなくとも、司が知穂と深く関わった人物でもあることは間違いない。彼の心が深く傷ついたとしても何も不思議はないのだ。
(こんな風になるくらいだったら……聡一は、知穂がもっと大きくなるまで隠邪討伐に連れて行かなければ良かったのに)
聡一は知穂をとても大事にしていた、結果としてはそれが仇になってしまった感じだ。
しかしユクミは祓邪師のことをよく知らない。本来なら知穂の年齢でもきちんと戦えていたのかもしれないし、もしかするといつもとは違う状況になってしまって、ただひたすらに運が悪かったということなのかもしれない。
それに知穂が年齢を重ねても、聡一は同じ行動を取った可能性がある。何しろユクミの母がそうだったからだ。
縄張りに異常を感じるたび母は「今日があなたの初戦になる日よ」と言ってユクミを連れだした。しかし実際に隠邪を目撃すると「あれは初戦としては強すぎる」だの「今日は視界が悪いからやめた方がいい」だのと言って戦わせてくれない。不満に思うユクミが頬を膨らませると、母は「とにかく駄目よ、●●。隠邪と戦うのはまた今度ね」と言って――。
(あれ?)
ユクミの心の奥で何かが引っ掛かった。母の声の一部が上手く思い出せないのだ。しかもそれは。
(私の、名前……。私は母さんから、なんて呼ばれてた?)
ユクミは「ユクミ」以外の名をもった覚えがないというのに、母が呼んでいた名は別のものだった気がする。これはどういうことなのだろう。
違和感の正体を探ろうと、ユクミは母のことを思い返す。
母は、人間である父と一緒にいるときは合わせて人間の姿を取っていた。その相貌はあまり思い出せないが、本来の姿ならきちんと覚えている。九本の尾を持つ大きな白い狐だ。小さな自分を乗せてくれた背はふわふわとしてあたたかく、見つめてくれる黄金の瞳は愛情に満ちていた。そして、優しい声が呼んでくれた名は。
名は、確か――。
「どうした、ユクミ?」
しかし司の声がした瞬間、遠い記憶が離れていく。せっかく手が届きそうだったのに、と地団太を踏みたくなるほどの口惜しさに襲われたが、それも束の間のことだった。一回、二回と瞬きをするうち、霧が晴れるようにユクミの胸の内から苛立ちが消える。
自分の名はユクミ、他の名などない。母のことは何かの間違いだ。
「すまなかった、なんでもないんだ」
謝罪すると、司は「気にするな」とでも言うようにゆるゆると首を横に振る。その顔は暗い社の中でも分かるほどに白い。これは司が死人となったせいだが、もし生きていたとしても今の司はこんな顔色だったに違いないと思わせるほどに目に力はなく、表情は暗かった。ユクミが出会ってからというもの、ここまで沈んだ司は初めて見た。きっと、過去の話をしたからだ。
司にとって聡一というのは――知穂というのは、それだけ大きな存在なのだとユクミは改めて思い知る。
「楽しい話じゃなかったよな。でも、聞いてくれてありがとう」
ユクミは「ありがとう」と言ってもらうのが好きだ。自分が誰かの役に立てた気がしてとても嬉しくなる。しかし重苦しい胸を抱えた今はなぜか、「ありがとう」と言われても少しも心が躍らなかった。
「……聡一、は」
雨の音を消すようにして、司が再び口を開く。
「聡一は、隠邪を優先しなかった。その行動は、さすがに祓邪師の中で問題になった。でも、知穂ちゃんを亡くした聡一は見てられないほどに憔悴してて……」
その時のことを思い出したのだろう、司は少し顔を顰め、しかしすぐまた表情を消す。
「さすがに追及は出来なかったっていう人と、それこそが罰なんだという人がいた。どっちにせよ両者の意見は『もういいだろう』ってことで合致してたから、目に見える形では『政府からの報奨金の額を減らす』っていう話で落ち着いたんだ」
「そうか……」
そんな処断で聡一が心を動かされなかっただろうことは完全に無関係なユクミでさえ容易に想像がついた。これは単に、「罰した」という体裁が祓邪師側に必要だったため下しただけなのだろうと思う。
「隠邪を一定の場所に閉じ込める手段はなかったのか? そうすれば、隠邪がどこへ向かっても焦らずに済んだのに」
ユクミが言うと、司は「なかったんだよ」と返して口元だけで笑う。
「当時の俺もそう思った。もっと前から本腰入れて『結界』みたいな術を作ってくれてたら良かったのに、ってさ。……でも、考えてみれば仕方なかったのかもしれない。数十年前まではあの近辺に住む人なんて祓邪師ばっかりだったから、他の人を排除する必要もなかったし、それに……新しい術を編み出すのだってそう簡単な話でもなかったんだ」
自身の手のひらを見つめる司の口調からは悔しさと嘆きが感じられた。もしかしたら知穂がいなくなった後の司は新たな術を作ろうと躍起になったのかもしれない。父親の聡一ほどでなくとも、司が知穂と深く関わった人物でもあることは間違いない。彼の心が深く傷ついたとしても何も不思議はないのだ。
(こんな風になるくらいだったら……聡一は、知穂がもっと大きくなるまで隠邪討伐に連れて行かなければ良かったのに)
聡一は知穂をとても大事にしていた、結果としてはそれが仇になってしまった感じだ。
しかしユクミは祓邪師のことをよく知らない。本来なら知穂の年齢でもきちんと戦えていたのかもしれないし、もしかするといつもとは違う状況になってしまって、ただひたすらに運が悪かったということなのかもしれない。
それに知穂が年齢を重ねても、聡一は同じ行動を取った可能性がある。何しろユクミの母がそうだったからだ。
縄張りに異常を感じるたび母は「今日があなたの初戦になる日よ」と言ってユクミを連れだした。しかし実際に隠邪を目撃すると「あれは初戦としては強すぎる」だの「今日は視界が悪いからやめた方がいい」だのと言って戦わせてくれない。不満に思うユクミが頬を膨らませると、母は「とにかく駄目よ、●●。隠邪と戦うのはまた今度ね」と言って――。
(あれ?)
ユクミの心の奥で何かが引っ掛かった。母の声の一部が上手く思い出せないのだ。しかもそれは。
(私の、名前……。私は母さんから、なんて呼ばれてた?)
ユクミは「ユクミ」以外の名をもった覚えがないというのに、母が呼んでいた名は別のものだった気がする。これはどういうことなのだろう。
違和感の正体を探ろうと、ユクミは母のことを思い返す。
母は、人間である父と一緒にいるときは合わせて人間の姿を取っていた。その相貌はあまり思い出せないが、本来の姿ならきちんと覚えている。九本の尾を持つ大きな白い狐だ。小さな自分を乗せてくれた背はふわふわとしてあたたかく、見つめてくれる黄金の瞳は愛情に満ちていた。そして、優しい声が呼んでくれた名は。
名は、確か――。
「どうした、ユクミ?」
しかし司の声がした瞬間、遠い記憶が離れていく。せっかく手が届きそうだったのに、と地団太を踏みたくなるほどの口惜しさに襲われたが、それも束の間のことだった。一回、二回と瞬きをするうち、霧が晴れるようにユクミの胸の内から苛立ちが消える。
自分の名はユクミ、他の名などない。母のことは何かの間違いだ。
「すまなかった、なんでもないんだ」
謝罪すると、司は「気にするな」とでも言うようにゆるゆると首を横に振る。その顔は暗い社の中でも分かるほどに白い。これは司が死人となったせいだが、もし生きていたとしても今の司はこんな顔色だったに違いないと思わせるほどに目に力はなく、表情は暗かった。ユクミが出会ってからというもの、ここまで沈んだ司は初めて見た。きっと、過去の話をしたからだ。
司にとって聡一というのは――知穂というのは、それだけ大きな存在なのだとユクミは改めて思い知る。
「楽しい話じゃなかったよな。でも、聞いてくれてありがとう」
ユクミは「ありがとう」と言ってもらうのが好きだ。自分が誰かの役に立てた気がしてとても嬉しくなる。しかし重苦しい胸を抱えた今はなぜか、「ありがとう」と言われても少しも心が躍らなかった。
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