一夜限りの恋人

杵島 灯

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一夜限りの恋人

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 今日も客は捕まらない。
 店の前で立つサンドラは鳶色の髪をかきあげ、溜め息をついた。

 ここは王国の南にある交易の町だ。

 異国からの船が着けば、船乗りや異国の商人たちで町は溢れ返る。
 合わせて陸路からは、彼らと商談をしたい商人たちがやってくる。

 つまり交易船さえ来れば、この町にはどっと人が増える。人が増えれば店も賑わい、サンドラの懐も潤うのだが、残念ながら少し前に船は去ってしまった。船乗りも商人もいなくなった町はいつもの住人ばかりになっている。膨らんだ財布を片手に店へ来てくれるような客はまたしばらく望めないだろう。

 もう一度溜め息をついて、サンドラは周囲に視線を移す。
 ちらほら見かけるのは、自分と同じ職の女性ばかりだ。

(そろそろ他の子と交代しなきゃ……ああ、今日も無理だったねぇ)

 諦めて部屋へ戻ろうとしたとき、視界の端に男性の姿が映る。
 もしや客になってくれるだろうかと期待をこめて顔を向けるが、すかさず一人の娘が彼の元へ向かった。
 男性にしなだれかかって話をする彼女は、界隈でも美人と名高く人気のある娘だ。いつもなら表に出てくることなどまずない。

 あの子が行ったのなら自分に出番は回ってこないだろう、とサンドラは思ったのだが、しかし話し始めていくらも経たないうちに、気落ちした娘を置いて彼はその場から立ち去る。
 意外に思ったサンドラは、目の前を通る男に話しかけた。

「あの子は好みじゃなかったのかい?」

 客引きをしようという気がないわけではないが、それ以上に男に興味がある。
 無視されることも覚悟の上だったが、立ち止まった彼はサンドラへ顔を向けた。

「瞳の色が好みじゃなかった」

 高くもなく、かといって低くもない声が無感情に言葉を紡ぐ。
 瞳の色、とサンドラは心の中で繰り返した。

 あの娘の瞳は茶色だが、赤みがかなり強めだ。赤系統の瞳や髪はこの辺りでは珍しい。
 彼女の人気に拍車をかけているのは美貌だけでなく、その瞳の色も理由のはずだった。

「赤っぽい色は嫌いなのかい?」

 何の気なしに問いけると、彼は口を引き結んで眉を寄せる。どうやらこの問いで機嫌を損ねてしまったらしい。きっと彼は先ほどの娘の時と同じように、サンドラの前からも立ち去るだろう。
 残念に思ったのだが、しかし彼は逆にサンドラを眺めはじめた。

 商売柄、見られることには慣れている。

 無遠慮な視線に臆することなく笑みを浮かべながら、サンドラもまたこっそりと彼の姿に視線を走らせた。

 年齢は20歳ほどに見える。だとすればサンドラよりも6つばかり年下だ。
 釣り気味の目が人を遠ざける雰囲気を醸し出しているが、顔自体は悪くない。
 体躯はがっしりとしており、ずいぶん鍛えているであろうことを窺わせる。
 事実、彼のマントの下からはきらりと光るものが見えた。どうやら腰に剣を佩いているようだ。

 町の外へ出れば魔物と遭遇する可能性は格段に増える。
 きっとこの青年は、そういったものとの戦いを生業としているに違いない。

(戦いで食い扶持を稼ぐ者、か)

 しかし彼の持つ雰囲気は、領主に仕える兵士や神殿に仕える騎士たちのように思えない。だとすれば主に、商人の護衛をしているのだろう。もしかすると交易が盛んなこの町へ護衛の仕事を探しに来たのかもしれない。

 そう考えたサンドラは、相変わらず値踏みするような視線を向けてくる彼に言う。

「ねえ。私には商人組合に知り合いがいるんだよ。良かったら紹介しようか」

 下心なく提案したのは、なんとなく彼を放っておけなかったからだ。
 この青年からは、うっかりすると悪い奴に騙されてしまいそうな純朴さがにじみ出ている。

 事実、サンドラの言葉を聞いた彼は素直に瞳を輝かせた。
 私が悪い奴だったらどうする気だ、とサンドラは苦笑するが、青年はそんなサンドラに気付かない様子で口を開いた。

「紹介してもらえるなら助かる。この町は初めてで、買取してくれる場所が良く分からなかったんだ」
「買取?」

 サンドラが問いかけると、青年は背中に負った荷物を下ろす。後ろで一つに結ぶ茶色い髪が風になびいた。

「これさ」

 青年は荷物の奥から、紙と布とで何重にも包まれた品を取り出す。
 開いた中から出てきたのは木の破片。大きさは彼の手くらいだ。

 何の変哲もない木に見えたのでそう言おうとしたのだが、次の瞬間辺りに甘いとも辛いともいえない不思議な香りが立ち込めはじめる。

 サンドラは思わず息をのんだ。

「香木……」
「ただの香木じゃない。沈香という」

 素早く包みなおした品を青年はまた荷物の奥にしまう。

「しかもかなりの良品だぞ。俺もこんなに凄い物を見つけたのは初めてなんだ」

 自慢げに笑う彼は子どものようで、つられてつい、サンドラも商売用の仮面を外して笑う。

「なるほどね。私はてっきり、魔物討伐を本業にしてる人かと思ったよ」

 山や森などでは魔物に遭いやすい。採集に行くのは確かに屈強な人物が多いとはいえ、目の前の青年は彼らと雰囲気が違う気がする。
 そう思って言ったのだが、しかしサンドラの言葉を聞いた彼は、さっと笑みを消した。

「……魔物も倒す」

 今しがたまで見せていた顔が嘘だったかのように、無表情となって彼は呟く。

「少なくとも――――を受け取ってしまった以上は仕方がない。それが俺の――――」

 いくつかの言葉は聞き取れなかったが、問い返すことが許される雰囲気だとは思えない。

「あぁ、そうなんだ。みんな色々と大変だよね」

 何気ない調子を装い、空気を変えるように明るく言ってサンドラは笑った。

「まあとにかく、そういった物の買取だって、商人組合に聞けばいい店を教えてくれるから安心しなよ。いいかい? 場所は神殿の近くにあるんだけど――」
「待ってくれ。今はいい」
「え?」

 自分より頭一つ分ほど高い青年をサンドラは見上げる。
 彼は悪戯を思いついたかのような表情を浮かべていた。

「教えてもらうのは後にする」
「後? いつだい?」
「そうだな。もしかしたらこの後すぐになるかもしれないし、明日の朝、あんたの部屋でってことになるかもしれない」

 片頬を上げた青年は、サンドラの顎に右手を当てる。

「味見をさせてもらえるか? 唇だけでいい」

 彼の意図を悟って、サンドラは嫣然と微笑んだ。

「私を気に入れば部屋に来てくれるけど、駄目ならこの後すぐ別れるってことか。……面白いね。いいよ」

 言うと、大人びた笑みを浮かべた彼は顔を寄せてくる。サンドラが瞳を閉じると同時に、唇へ触れる柔らかいものがあった。

 口づけた彼はまず唇を使って感触を楽しんでいたようだが、続いてサンドラの唇には湿ったものが触れる。どうやら舌を使い始めたようだ。彼は舌の裏や表で強弱をつけながらサンドラの唇をなぞる。
 この年下の青年がまさかここまで慣れた様子を見せるとは思っていなかったので、サンドラは驚嘆した。

(これはまた……ずいぶんと遊んでるね……)

 やがて、約束通り唇にだけ触れて顔を離した彼は、水色の瞳に満足そうな輝きを湛えていた。

「……商人組合の場所は明日の朝、あんたの部屋で教えてくれ」
「分かった」

 数日ぶりの客に向けてサンドラは微笑む。
 店の扉を開けて女将に合図をし、階段を上って自室へ青年を案内した。

「そういえばまだ名前を言ってなかったね。私はサンドラだよ」

 店の女の名に興味はない、と言う客もいたが、サンドラは毎回名乗っている。
 一方で客は、名乗る人も名乗らない人もいた。

「サンドラか。俺はレオンだ」

 今回の客はサンドラの名を呼び、名を教えてくれた。
 それが本名かどうかまでは分からないし、サンドラも気にするつもりはない。ただ、名を呼び合えるのはいつも嬉しかった。

「レオンね。今日はよろしく」

 言ってサンドラがレオンの首に腕を回すと、レオンは瞳を覗き込んでくる。

「サンドラの瞳は綺麗な色だな」
「そう? ありがと。でもこの辺じゃありふれた色なんだよ」

 サンドラがおどけたように言うと、レオンはふと視線を落とした。

「髪も綺麗だな。……色も赤じゃないから、いい……」

 ぽつりと呟いた声が寂しそうで、サンドラは思わず目を見張る。
 だが彼はすぐに水色の瞳をサンドラに戻した。

「いや、何でもない。……そうだな。それにサンドラの唇は柔らかいし、何より大きい胸が俺好みだ」

 言って彼は笑うが、纏った翳りは消えない。
 それでも誤魔化したいという気持ちは伝わってきたので、サンドラは調子を合わせて笑うと、腰を引き寄せる腕に従って唇を合わせた。

 二度目のキスは、外でしたものよりも長く、そしてずっと甘美だった。

 短い呼吸をしながら唇を離すと、潤む彼の瞳には欲の炎が灯っている。
 だがその中にも、情欲とは違うものがあることにサンドラは気付いた。

 もしかして、と思いながら首に回していた手を上へ伸ばす。
 届く範囲で頭を撫でると、目を見開いたレオンは直後に嬉しげな笑みを浮かべ、大きな体を屈めてサンドラの右肩に顔を埋める。ついで背を強く抱き、満足そうな吐息をもらした。

 その様子からは情欲よりも、人に甘えたいという気持ち――ぬくもりを恋しがる子どものような気持ちの方を強く感じる。

 くすくすと笑うレオンの背を撫でながら、サンドラは彼のことが少し不憫になった。

 彼はずっと、良い人たちに囲まれて暮らしてきたのだろう。すぐ他人を信用する上、根が素直なのはおそらくそのせいだ。
 だが会ってからの状況や話から察するに、彼は今、事情があって一人で行動しているらしい。

 きっと、とサンドラは思う。

(……女のところへ来るのは、遊びたいっていうより、人恋しくてたまらなくなるからなんだね)

 本来ならこの青年は、故郷で暮らす方が性に合っていたのだ。

「今日は朝まで仲良くしてね、レオン」

 サンドラが囁くと、体を起こしたレオンはうなずいて顔を寄せてくる。
 せめて今宵は思い切りあたためてあげようと思いながら、サンドラは一夜限りの恋人になった青年ともう一度唇を重ねた。
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