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第6章
25.茜は暁の色に似て
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未だ白さばかりが残る世界の中に、その赤い花はあった。
親指ほどの太さをもつ茎はローゼの胸元まですらりと伸び、2つの蕾と1つの花をつけている。
幾重にも重なってまるでドレスのような花弁を持つ花は、木の間を抜ける朝日を浴び、天上のものかと紛うほどに神々しい。一方で、辺りに甘く芳しい香りを振りまく様は、寒さに委縮した地のものたちの心を和ませようとするかのようだ。
華やかさと、神秘性と、慈愛とを併せ持つ。
芳暁花はそんな印象を抱く花だった。
「……すごい……」
【なんというか……】
ローゼの呟きに続き、腰の辺りからも感嘆の言葉が聞こえた。
【確かに綺麗だな】
「うん。綺麗だね」
答えたローゼが横を見て微笑むと、合わせて笑う声がする。
これまではそれを単なる声としか感じられなかったローゼだったが、今では横に並んだレオンが一緒に花を覗き込んでいるような気がした。
(レオン……)
体に戻った時、ローゼが真っ先に知覚したのは全身を襲う痛みだった。ローゼはそれがレオンを置いてきてしまった心の痛みように思えた。
もちろんすぐに違うことは分かった。確かに心の痛みもあったが、大半の痛みは体からのもの、山の精霊によって負った打撲や傷などから来るものだ。どうやら聖剣の中に魂がいる間は体の時間が完全に止まっていたようで、傷はまったく治っていなかったらしい。
腰の物入れにはアーヴィンからもらった薬がある。手さぐりに確認してみるといくつかは壊れていたが、無事なものの方がずっと多い。全身を治すまでには至らないかもしれないが、大きなものは何とかなるはずだ。
思ってもローゼは動けなかった。痛みのすべてが、外の世界を選んだローゼに対して与えられる罰のような気がしたのだ。
(……聖剣の中に、レオンを置いてきてしまったから……)
交差させた両腕で顔を覆う。
その時、おろおろとした声が聞こえた。
【どうした、ローゼ】
声はレオンのものだ。
【痛いのか? 苦しいのか? 動けないのか?】
彼の声から不満や嫌悪といったものはまったく感じなかった。
伝わってくるのは、不安と焦り。
今の彼はきっと、ローゼに対して何もできなくてもどかしく思っている。何も掴めないと分かっていても手を伸ばす、その様子さえローゼは見えるような気がした。
(……あたし、ちゃんとしなきゃ。レオンに心配かけちゃいけない)
レオンが「外の世界を選べ」と背中を押してくれた。そのおかげでローゼはここに居る。彼のことを考えるのなら、ローゼがするべきは後悔ではなく、しっかりと前を向いて進むことのはずだ。
「ごめんね、大丈夫よ。体が痛いなんて久しぶりの感覚だから、びっくりしちゃったの」
微笑って起き上がり、ローゼは薬を使った。綺麗になっていく傷を見て、レオンがほっとしたような声をくれるのが嬉しかった。
体の時が止まっている間は大精霊の時間も止まっていたようで、目覚めた彼女は何があったのかを知りたい様子ではあった。
ただ、周囲の時間が経過していたり、ローゼが山の精霊と気さくに話していたり、そして何より彼が大精霊に向けて「すまなかった」と謝ったりといった状況から何となく察することはあったようだ。安堵したらしい大精霊は今、以前のように奥底で静かに眠っている。
彼女に関して山の精霊は「無理に連れ戻さない」と約束したものの、黒く染まってしまう点についての懸念は消えていないらしい。
今のところは神降ろしさえしなければなんとかなるだろうということになり、大精霊はローゼの中で眠っていることになったが、もちろんずっとというわけにはいかない。
だが、彼女の処遇については山の精霊も考えてくれるということになった。今までの手づまりな状況とは違うのだから、きっと何か見つかるはずだ。
(神降ろしがなければ、あたしの中にいてくれていいんだけど……あたしがこの世にいなくなったらどうするのか、っていう問題だってあるもんね)
そんなことを思いながら芳暁花を見つめていると、風に乗って声が届いた。山の精霊は辺り一帯に轟くような声も出せるが、こうやって小さな範囲にだけ聞かせることもできるようだ。冬の間にローゼたちと話していたのと同じ方法らしい。
『気をつけよ。それには毒がある』
ローゼはぎょっとして後退った。
「毒!?」
『棘の先だ。触れぬが良かろう』
よく見ると、確かに茎には短く細い棘があった。先の方はどす黒く染まっているので、これが毒なのだろう。
「こんな綺麗な花なのに、毒があるのかぁ……なんかちょっともったいないな」
【綺麗だからこそ身を守るために毒があるのかもな。……そういえば、カーリナはお前をこの花に例えたっけ?】
「うん。覚えてたんだ」
あのときのレオンは、ローゼにすら無関心だった。
【……まあな】
レオンがきまり悪そうに呟いた時、どこか興味深い様子の声が聞こえる。
『我が友はこの花に似るのか?』
【そうですね。割と似てますよ。赤い色もそうですが、見た目は綺麗だけど毒を持ってる、って辺りが特に。何しろこいつは口が悪いし、おまけに意固地ですからね。黙ってれば美人なのに勿体ないことですよ】
「うるさいわね、馬鹿レオン」
『なるほど、毒。……いや、赤い花か。面白い』
「ええ? 何それ、どういう意味?」
眉を寄せたローゼの視界の端に、赤いものが見える。何だろうと思いながらそちらへ視線を移すと、一輪の花がこちらへふわふわと漂ってくるところだった。
「……芳暁花?」
どこから来たのだろう、と思うローゼの鼻先をかすめた芳暁花は、聖剣の刃の付け根――翼を模した鍔の中心へ吸い込まれるように近づくと、そこにぴたりと貼りついた。
* * *
メラニーは襟を鼻の辺りまで引き上げた。
顔の周囲を白くしていた息が内側に籠り、ほんの少しだけ暖かくなる。
メラニーの出身地であるシャルトス公爵領はアストラン王国の最北に位置している。寒さには慣れているつもりだったが、フィデル王国の冬はシャルトス領よりも厳しかった。しかも今年の冬はいつも以上に寒く、雪も多いそうだ。
「きっと、精霊が人を見限ったせいだ」
不安げな人々がそう語るのを、メラニーは何度耳にしただろうか。そのたびに皆の口から「術士」や「神殿」、そして「赤い髪と瞳の娘」という言葉が出てくるのも。
ローゼが空から落とされたあの日、打ちひしがれていたメラニーは自分に役割を課すことでなんとか前を見られた。
それが「セラータを助け出すこと」だった。
嫌がるセラータを何とか連れ出し、混乱する人々の中で自分の馬に騎乗して、メラニーはランドビックの先にある町まで移動した。
カーリナがローゼをどういった扱いにするのか分からない以上、ローゼの護衛を務める自分や、ローゼの馬であるセラータは近くにいない方が良いのではないかと判断したのだ。
その判断が正しかったかどうかは分からない。
分かっているのは、術士たちが今回の異変を、
「聖剣の主が山の精霊を怒らせた。彼女はそのために殺され、精霊は人に背を向けた」
とした上で、
「我々術士がなんとか交渉を続け、元の状態に戻すから安心するように」
とも付け加えたことだった。
だがしかし、これにはすぐ神殿が異を唱えた。
「精霊を怒らせたのは術士たちであり、聖剣の主は人々への見せしめとして殺されただけだ」
と。
以降は術士側と神殿側とで諍いがあったようだが、メラニーはもう、詳しいことを聞く気がなかった。どちらの陣営もローゼは死んだものと決めつけており、特に探すようなことはしていない。それが分かれば十分だ。政治的な駆け引きのためだけにローゼの死を扱う話など、好んで知りたくはなかった。
(誰も死の瞬間を見ていないのだから、ローゼ様は生きているかもしれない)
なんとか森に入る方法を見出してローゼの死を確認しなければ諦めがつかないとメラニーは思っていたし、それはセラータも同様のようだ。彼女は時折り山の方向――ローゼが居るはずの方向へと顔を向け、悲しそうに嘶くことがあった。
カーリナの下から離れる時に大半の荷は手放してしまったが、当面の路銀は手元にあった。
しばらくは町で息をひそめて過ごしていたが、術士側にメラニーやセラータをさがしている様子はない。おかげでメラニーは少しずつ宿から出て、時にはちょっとした仕事を受けて金を稼ぎながら、冬の期間を町の宿で過ごすことができた。
このところは雪の降る日も少なくなっている。どうやらもうじき冬は終わりを迎え、芳暁花と呼ばれる花が咲く日も近いようだ。そうなるとランドビックの術士たちが山の精霊へ挨拶に行くだろう。
あんなことがあった以上、本当に山へ行くのかどうか分からないが、人々の目もある以上は行く可能性の方が高いとメラニーは考えた。ローゼの痕跡を探したいのなら、術士たちより早く山へ向かった方がいい。
道の状況も良くなったということもあって決意を固めたメラニーは、一昨日、ようやくこのランドビックへ戻ってきたのだった。
(……森には入れないと思う。でも、ローゼ様に関する何かが見つかれば)
自身の馬とセラータとを連れて馬屋の扉を開けたメラニーは、雪を照り返す朝日の眩しさに目を細める。そのまま門へ向かおうとしたが、驚いて足が止まった。雪を踏み分ける音をさせながら数人の男が現れたからだ。
しかも、その中心には。
「やあ」
半年以上会わなかったダリュースがいて、まるで昨日別れたばかりのような気やすさで声をかけてきた。
彼は辺境伯の屋敷へローゼを送り届けた直後に姿を消していた。以降は、ローゼを訪ねて屋敷へ来ることも、山の精霊の下へ行く列が発つ時にも姿を見せなかったので、てっきりランドビックから離れたものだと思っていたのだが。
「……ずっと、ここにいたんですか」
「いいや。しばらくはフィデル国内をぶらぶらとしていたんだよ。ランドビックへ戻ってきたのは一昨日のことだ。――君と同じようにね」
相も変わらず人好きのする笑みを浮かべながら、ダリュースはあっさりと言い切る。どうやら彼はメラニーの動向をある程度把握していたらしい。
だが、メラニーは特に驚いたりしなかった。公爵ラディエイルの側近、ジャック・ダリュースの敏腕ぶりはよく知っている。彼ならメラニーひとりがどうしているか知るくらい苦も無くやってのけるだろう。
――もちろんそんな彼でも、ローゼがどうなったのかは知る由もないだろうが。
メラニーに近寄ってきたダリュースは軽く手を上げる。行く手を阻むつもりかと思ったが、よく見ると彼は指に1枚の紙を挟んでいた。
「私はこの宿にいるからね。ローゼ様が見つかったら来るといい。有益な情報を差し上げられるはずだよ」
メラニーはダリュースの顔を見つめる。彼は微笑んだまま、同じ姿勢で立っていた。
やがてメラニーが黙って紙を受け取ると、ダリュースはその手を小さく振って踵を返す。
来た時同様に雪を踏む音をさせながら去って行く男たちの後ろ姿を見つめながら、メラニーはふと思った。
今のダリュースは誰にも捕らわれることなく、自分の考えに従って動いているだろう。しかしその一方で、誰かの依頼も受けているのかもしれない。それはきっとフィデル側ではなく、アストラン側の人物。もしかすると、シャルトス家の――。
そこまで考えて小さく首を振り、メラニーは手にした紙を懐に入れる。
これをどうするかはローゼが考えること。一介の護衛に過ぎない自分ができるのは、主人の身の安全に気を配ることだけ。
だからまず、当の主人を見つけなくては。
メラニーは自身の馬に騎乗した。暁が照らす山へ顔を向け、セラータと共に進み始める。
――その背を、じきに開く赤い花の蕾が、そっと見送っていた。
* * *
「ああぁぁぁ、さむいぃぃぃぃ!」
森を出たローゼは叫び声をあげ、身を縮めながら道を歩き始めた。あまりの寒さに歯の根が合わない。
「山の精霊がランドビックまでの道から雪を払ってくれたりしないかな。あるいは森の中にいた時と同じように加護をくれてさ、寒さからあたしを守ってくれるんでもいいけど」
【お前……ずいぶん勝手な】
呆れた口調のレオンに小さく笑って、ローゼは視線を足元から左腰へ移動させる。そこには白い鞘に包まれた聖剣があった。すっかり見慣れた景色だが、一部に見慣れないものもある。
金の翼の中央で、朝日を受けて煌めく赤。
新たに聖剣に加わったこの赤いものは、花のように見えるが、花ではない。人によってはこの中に銀の輝きを見るはずだ。そしてきっと、力ある精霊に関わるものだと気づくだろう。
これは石だ。それも、山の精霊の一部である石。
『そなたは私に新たな世界を見せてくれるのだったな。ならばこれを通じて私は世を見ることができる。聞くことができる』
花に驚くローゼへ彼はそう言い、だが、と続ける。
『声を届けることはできない。いずれ必ずここへ来い』
彼の気持ちの変化が嬉しくて、山へ顔を向けるローゼの顔は自然にほころぶ。
「うん。絶対に来るわ。だってあたしたちは友達なんだもの。その時はまた、たくさん話そうね」
言って手を振ったローゼは森から出た途端、がらりと変化した気温に震えたのだった。
着ている薄紅の衣は、夏が終わる前に仕立てられたもの。正式な場での衣装ということもあって袖も丈も長いが、雪が残る季節の寒さを防いでくれるほど厚くはない。
せめて靴が歩きやすいものであればまだ良かったのだが、飾りのついた華奢な靴は雪道を歩くのにはまったくの不向きだった。それでも脱いでしまうわけにはいかず、ローゼは顔を盛大に顰めながらも着用し続けるより他に無かった。
ひとつ幸いだったのは、思った以上に雪がサラサラとしていることだ。そのため森から持ち出した枝を使って雪を払うことで、なんとか進んで行けていた。
「ランドビックに着いたら、やることが山積みだわ。メラニーさんとセラータの行方を聞くためにも、カーリナ様に会った方がいいのかもしれないけど……あの人には会いたくないなぁ……」
ため息を吐くローゼの声に続いて、思案するかのようなレオンの声が聞こえる。
【だがまずは、ランドビックにちゃんと着けるのかというところから考える必要があるぞ。このままだとお前が凍えてしまいそうだし、何より疲れるだろう? おまけに食べるものだってないんだ】
「まあね。でも、そのへんは何とかなると思うわ。来る途中で立ち寄った建物には物資がいろいろあったから、あれをちょっと拝借するつもりよ」
【その建物ってのは、侵入できそうなやつなのか?】
「うん。もう少し行ったところにある建物はね――」
【――待て、ローゼ。正面から誰か来る】
強張ったレオンの声を聞いてローゼはぎくりとする。足元から顔を上げると、確かに、こちらへ向かってくる2頭の馬が見えた。
カーリナの手の者か、と思ったローゼが森の方へ戻ろうとした時、馬の1頭が高く嘶く。その声に聞き覚えがあってローゼは目を見開いた。
――まさか。
嘶いた馬はもう1頭の馬から離れ、雪を舞い上げながらローゼに向けて力強く進み始める。レオンが大きく声を上げた。
【ローゼ! セラータだ!】
居ても立っても居られなくなってローゼは走りだし、すぐに足を取られて転ぶ。体中が雪まみれになったが冷たさは感じない。
顔を上げると、先ほどよりずっと近くなった場所に陽に透ける茜色が見えた。その色がまるで暁のようだと思いながら立ち上がり、ローゼは愛馬に向かってもう一度真っ直ぐに足を踏み出した。
親指ほどの太さをもつ茎はローゼの胸元まですらりと伸び、2つの蕾と1つの花をつけている。
幾重にも重なってまるでドレスのような花弁を持つ花は、木の間を抜ける朝日を浴び、天上のものかと紛うほどに神々しい。一方で、辺りに甘く芳しい香りを振りまく様は、寒さに委縮した地のものたちの心を和ませようとするかのようだ。
華やかさと、神秘性と、慈愛とを併せ持つ。
芳暁花はそんな印象を抱く花だった。
「……すごい……」
【なんというか……】
ローゼの呟きに続き、腰の辺りからも感嘆の言葉が聞こえた。
【確かに綺麗だな】
「うん。綺麗だね」
答えたローゼが横を見て微笑むと、合わせて笑う声がする。
これまではそれを単なる声としか感じられなかったローゼだったが、今では横に並んだレオンが一緒に花を覗き込んでいるような気がした。
(レオン……)
体に戻った時、ローゼが真っ先に知覚したのは全身を襲う痛みだった。ローゼはそれがレオンを置いてきてしまった心の痛みように思えた。
もちろんすぐに違うことは分かった。確かに心の痛みもあったが、大半の痛みは体からのもの、山の精霊によって負った打撲や傷などから来るものだ。どうやら聖剣の中に魂がいる間は体の時間が完全に止まっていたようで、傷はまったく治っていなかったらしい。
腰の物入れにはアーヴィンからもらった薬がある。手さぐりに確認してみるといくつかは壊れていたが、無事なものの方がずっと多い。全身を治すまでには至らないかもしれないが、大きなものは何とかなるはずだ。
思ってもローゼは動けなかった。痛みのすべてが、外の世界を選んだローゼに対して与えられる罰のような気がしたのだ。
(……聖剣の中に、レオンを置いてきてしまったから……)
交差させた両腕で顔を覆う。
その時、おろおろとした声が聞こえた。
【どうした、ローゼ】
声はレオンのものだ。
【痛いのか? 苦しいのか? 動けないのか?】
彼の声から不満や嫌悪といったものはまったく感じなかった。
伝わってくるのは、不安と焦り。
今の彼はきっと、ローゼに対して何もできなくてもどかしく思っている。何も掴めないと分かっていても手を伸ばす、その様子さえローゼは見えるような気がした。
(……あたし、ちゃんとしなきゃ。レオンに心配かけちゃいけない)
レオンが「外の世界を選べ」と背中を押してくれた。そのおかげでローゼはここに居る。彼のことを考えるのなら、ローゼがするべきは後悔ではなく、しっかりと前を向いて進むことのはずだ。
「ごめんね、大丈夫よ。体が痛いなんて久しぶりの感覚だから、びっくりしちゃったの」
微笑って起き上がり、ローゼは薬を使った。綺麗になっていく傷を見て、レオンがほっとしたような声をくれるのが嬉しかった。
体の時が止まっている間は大精霊の時間も止まっていたようで、目覚めた彼女は何があったのかを知りたい様子ではあった。
ただ、周囲の時間が経過していたり、ローゼが山の精霊と気さくに話していたり、そして何より彼が大精霊に向けて「すまなかった」と謝ったりといった状況から何となく察することはあったようだ。安堵したらしい大精霊は今、以前のように奥底で静かに眠っている。
彼女に関して山の精霊は「無理に連れ戻さない」と約束したものの、黒く染まってしまう点についての懸念は消えていないらしい。
今のところは神降ろしさえしなければなんとかなるだろうということになり、大精霊はローゼの中で眠っていることになったが、もちろんずっとというわけにはいかない。
だが、彼女の処遇については山の精霊も考えてくれるということになった。今までの手づまりな状況とは違うのだから、きっと何か見つかるはずだ。
(神降ろしがなければ、あたしの中にいてくれていいんだけど……あたしがこの世にいなくなったらどうするのか、っていう問題だってあるもんね)
そんなことを思いながら芳暁花を見つめていると、風に乗って声が届いた。山の精霊は辺り一帯に轟くような声も出せるが、こうやって小さな範囲にだけ聞かせることもできるようだ。冬の間にローゼたちと話していたのと同じ方法らしい。
『気をつけよ。それには毒がある』
ローゼはぎょっとして後退った。
「毒!?」
『棘の先だ。触れぬが良かろう』
よく見ると、確かに茎には短く細い棘があった。先の方はどす黒く染まっているので、これが毒なのだろう。
「こんな綺麗な花なのに、毒があるのかぁ……なんかちょっともったいないな」
【綺麗だからこそ身を守るために毒があるのかもな。……そういえば、カーリナはお前をこの花に例えたっけ?】
「うん。覚えてたんだ」
あのときのレオンは、ローゼにすら無関心だった。
【……まあな】
レオンがきまり悪そうに呟いた時、どこか興味深い様子の声が聞こえる。
『我が友はこの花に似るのか?』
【そうですね。割と似てますよ。赤い色もそうですが、見た目は綺麗だけど毒を持ってる、って辺りが特に。何しろこいつは口が悪いし、おまけに意固地ですからね。黙ってれば美人なのに勿体ないことですよ】
「うるさいわね、馬鹿レオン」
『なるほど、毒。……いや、赤い花か。面白い』
「ええ? 何それ、どういう意味?」
眉を寄せたローゼの視界の端に、赤いものが見える。何だろうと思いながらそちらへ視線を移すと、一輪の花がこちらへふわふわと漂ってくるところだった。
「……芳暁花?」
どこから来たのだろう、と思うローゼの鼻先をかすめた芳暁花は、聖剣の刃の付け根――翼を模した鍔の中心へ吸い込まれるように近づくと、そこにぴたりと貼りついた。
* * *
メラニーは襟を鼻の辺りまで引き上げた。
顔の周囲を白くしていた息が内側に籠り、ほんの少しだけ暖かくなる。
メラニーの出身地であるシャルトス公爵領はアストラン王国の最北に位置している。寒さには慣れているつもりだったが、フィデル王国の冬はシャルトス領よりも厳しかった。しかも今年の冬はいつも以上に寒く、雪も多いそうだ。
「きっと、精霊が人を見限ったせいだ」
不安げな人々がそう語るのを、メラニーは何度耳にしただろうか。そのたびに皆の口から「術士」や「神殿」、そして「赤い髪と瞳の娘」という言葉が出てくるのも。
ローゼが空から落とされたあの日、打ちひしがれていたメラニーは自分に役割を課すことでなんとか前を見られた。
それが「セラータを助け出すこと」だった。
嫌がるセラータを何とか連れ出し、混乱する人々の中で自分の馬に騎乗して、メラニーはランドビックの先にある町まで移動した。
カーリナがローゼをどういった扱いにするのか分からない以上、ローゼの護衛を務める自分や、ローゼの馬であるセラータは近くにいない方が良いのではないかと判断したのだ。
その判断が正しかったかどうかは分からない。
分かっているのは、術士たちが今回の異変を、
「聖剣の主が山の精霊を怒らせた。彼女はそのために殺され、精霊は人に背を向けた」
とした上で、
「我々術士がなんとか交渉を続け、元の状態に戻すから安心するように」
とも付け加えたことだった。
だがしかし、これにはすぐ神殿が異を唱えた。
「精霊を怒らせたのは術士たちであり、聖剣の主は人々への見せしめとして殺されただけだ」
と。
以降は術士側と神殿側とで諍いがあったようだが、メラニーはもう、詳しいことを聞く気がなかった。どちらの陣営もローゼは死んだものと決めつけており、特に探すようなことはしていない。それが分かれば十分だ。政治的な駆け引きのためだけにローゼの死を扱う話など、好んで知りたくはなかった。
(誰も死の瞬間を見ていないのだから、ローゼ様は生きているかもしれない)
なんとか森に入る方法を見出してローゼの死を確認しなければ諦めがつかないとメラニーは思っていたし、それはセラータも同様のようだ。彼女は時折り山の方向――ローゼが居るはずの方向へと顔を向け、悲しそうに嘶くことがあった。
カーリナの下から離れる時に大半の荷は手放してしまったが、当面の路銀は手元にあった。
しばらくは町で息をひそめて過ごしていたが、術士側にメラニーやセラータをさがしている様子はない。おかげでメラニーは少しずつ宿から出て、時にはちょっとした仕事を受けて金を稼ぎながら、冬の期間を町の宿で過ごすことができた。
このところは雪の降る日も少なくなっている。どうやらもうじき冬は終わりを迎え、芳暁花と呼ばれる花が咲く日も近いようだ。そうなるとランドビックの術士たちが山の精霊へ挨拶に行くだろう。
あんなことがあった以上、本当に山へ行くのかどうか分からないが、人々の目もある以上は行く可能性の方が高いとメラニーは考えた。ローゼの痕跡を探したいのなら、術士たちより早く山へ向かった方がいい。
道の状況も良くなったということもあって決意を固めたメラニーは、一昨日、ようやくこのランドビックへ戻ってきたのだった。
(……森には入れないと思う。でも、ローゼ様に関する何かが見つかれば)
自身の馬とセラータとを連れて馬屋の扉を開けたメラニーは、雪を照り返す朝日の眩しさに目を細める。そのまま門へ向かおうとしたが、驚いて足が止まった。雪を踏み分ける音をさせながら数人の男が現れたからだ。
しかも、その中心には。
「やあ」
半年以上会わなかったダリュースがいて、まるで昨日別れたばかりのような気やすさで声をかけてきた。
彼は辺境伯の屋敷へローゼを送り届けた直後に姿を消していた。以降は、ローゼを訪ねて屋敷へ来ることも、山の精霊の下へ行く列が発つ時にも姿を見せなかったので、てっきりランドビックから離れたものだと思っていたのだが。
「……ずっと、ここにいたんですか」
「いいや。しばらくはフィデル国内をぶらぶらとしていたんだよ。ランドビックへ戻ってきたのは一昨日のことだ。――君と同じようにね」
相も変わらず人好きのする笑みを浮かべながら、ダリュースはあっさりと言い切る。どうやら彼はメラニーの動向をある程度把握していたらしい。
だが、メラニーは特に驚いたりしなかった。公爵ラディエイルの側近、ジャック・ダリュースの敏腕ぶりはよく知っている。彼ならメラニーひとりがどうしているか知るくらい苦も無くやってのけるだろう。
――もちろんそんな彼でも、ローゼがどうなったのかは知る由もないだろうが。
メラニーに近寄ってきたダリュースは軽く手を上げる。行く手を阻むつもりかと思ったが、よく見ると彼は指に1枚の紙を挟んでいた。
「私はこの宿にいるからね。ローゼ様が見つかったら来るといい。有益な情報を差し上げられるはずだよ」
メラニーはダリュースの顔を見つめる。彼は微笑んだまま、同じ姿勢で立っていた。
やがてメラニーが黙って紙を受け取ると、ダリュースはその手を小さく振って踵を返す。
来た時同様に雪を踏む音をさせながら去って行く男たちの後ろ姿を見つめながら、メラニーはふと思った。
今のダリュースは誰にも捕らわれることなく、自分の考えに従って動いているだろう。しかしその一方で、誰かの依頼も受けているのかもしれない。それはきっとフィデル側ではなく、アストラン側の人物。もしかすると、シャルトス家の――。
そこまで考えて小さく首を振り、メラニーは手にした紙を懐に入れる。
これをどうするかはローゼが考えること。一介の護衛に過ぎない自分ができるのは、主人の身の安全に気を配ることだけ。
だからまず、当の主人を見つけなくては。
メラニーは自身の馬に騎乗した。暁が照らす山へ顔を向け、セラータと共に進み始める。
――その背を、じきに開く赤い花の蕾が、そっと見送っていた。
* * *
「ああぁぁぁ、さむいぃぃぃぃ!」
森を出たローゼは叫び声をあげ、身を縮めながら道を歩き始めた。あまりの寒さに歯の根が合わない。
「山の精霊がランドビックまでの道から雪を払ってくれたりしないかな。あるいは森の中にいた時と同じように加護をくれてさ、寒さからあたしを守ってくれるんでもいいけど」
【お前……ずいぶん勝手な】
呆れた口調のレオンに小さく笑って、ローゼは視線を足元から左腰へ移動させる。そこには白い鞘に包まれた聖剣があった。すっかり見慣れた景色だが、一部に見慣れないものもある。
金の翼の中央で、朝日を受けて煌めく赤。
新たに聖剣に加わったこの赤いものは、花のように見えるが、花ではない。人によってはこの中に銀の輝きを見るはずだ。そしてきっと、力ある精霊に関わるものだと気づくだろう。
これは石だ。それも、山の精霊の一部である石。
『そなたは私に新たな世界を見せてくれるのだったな。ならばこれを通じて私は世を見ることができる。聞くことができる』
花に驚くローゼへ彼はそう言い、だが、と続ける。
『声を届けることはできない。いずれ必ずここへ来い』
彼の気持ちの変化が嬉しくて、山へ顔を向けるローゼの顔は自然にほころぶ。
「うん。絶対に来るわ。だってあたしたちは友達なんだもの。その時はまた、たくさん話そうね」
言って手を振ったローゼは森から出た途端、がらりと変化した気温に震えたのだった。
着ている薄紅の衣は、夏が終わる前に仕立てられたもの。正式な場での衣装ということもあって袖も丈も長いが、雪が残る季節の寒さを防いでくれるほど厚くはない。
せめて靴が歩きやすいものであればまだ良かったのだが、飾りのついた華奢な靴は雪道を歩くのにはまったくの不向きだった。それでも脱いでしまうわけにはいかず、ローゼは顔を盛大に顰めながらも着用し続けるより他に無かった。
ひとつ幸いだったのは、思った以上に雪がサラサラとしていることだ。そのため森から持ち出した枝を使って雪を払うことで、なんとか進んで行けていた。
「ランドビックに着いたら、やることが山積みだわ。メラニーさんとセラータの行方を聞くためにも、カーリナ様に会った方がいいのかもしれないけど……あの人には会いたくないなぁ……」
ため息を吐くローゼの声に続いて、思案するかのようなレオンの声が聞こえる。
【だがまずは、ランドビックにちゃんと着けるのかというところから考える必要があるぞ。このままだとお前が凍えてしまいそうだし、何より疲れるだろう? おまけに食べるものだってないんだ】
「まあね。でも、そのへんは何とかなると思うわ。来る途中で立ち寄った建物には物資がいろいろあったから、あれをちょっと拝借するつもりよ」
【その建物ってのは、侵入できそうなやつなのか?】
「うん。もう少し行ったところにある建物はね――」
【――待て、ローゼ。正面から誰か来る】
強張ったレオンの声を聞いてローゼはぎくりとする。足元から顔を上げると、確かに、こちらへ向かってくる2頭の馬が見えた。
カーリナの手の者か、と思ったローゼが森の方へ戻ろうとした時、馬の1頭が高く嘶く。その声に聞き覚えがあってローゼは目を見開いた。
――まさか。
嘶いた馬はもう1頭の馬から離れ、雪を舞い上げながらローゼに向けて力強く進み始める。レオンが大きく声を上げた。
【ローゼ! セラータだ!】
居ても立っても居られなくなってローゼは走りだし、すぐに足を取られて転ぶ。体中が雪まみれになったが冷たさは感じない。
顔を上げると、先ほどよりずっと近くなった場所に陽に透ける茜色が見えた。その色がまるで暁のようだと思いながら立ち上がり、ローゼは愛馬に向かってもう一度真っ直ぐに足を踏み出した。
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