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第6章
19.まこと
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「芳暁花?」
「ええ」
刺繍針を持つ手を止めてリュシーが問い返すと、正面で刺繍をしていたシグリも同じように手を止め、微笑む。
北の国から来た義妹は折を見てはリュシーの部屋を訪れ、こうして話し相手になってくれていた。友人や姉妹と一緒に穏やかな時を過ごしてみたいと思っていたリュシーは、彼女の心遣いがとても嬉しかった。
「初めて聞く名前だわ。どんな花なの?」
リュシーが問うと、シグリは机の上に自身の刺繍道具を置き、綺麗に手入れされた白い手を上向ける。
「私の手のひらと同じくらいの赤い花です。花弁が幾重にも重なっていて、とても存在感がありますのよ」
「素敵ね。ぜひ見てみたいわ」
「私もぜひリュシー義姉上に見ていただきたいのですけれど、残念ながら少し難しくて。芳暁花は『春を告げる』とも『春を運んでくる』とも言われる花ですので、咲く時期はまだ雪の残る頃になりますの」
「それは……確かに難しいわね」
シャルトス公爵領はアストラン王国の最北にあり、そのシャルトス領よりさらに北にあるのがフィデル王国だ。冬の旅の厳しさが分かっているリュシーは深くうなずいた。
「でも、白一色だった世界の中に、春を告げる赤い花が凛と立つ姿はきっと印象的でしょうね。フィデルの人々が芳暁花を好む気持ち、分かるような気がするわ」
言いながらリュシーの脳裏に浮かんだのはもうひとりの義妹、終わり行く運命だったこの北の地に、新たな季節をもたらしてくれた、赤い髪と瞳の娘だ。
彼女と、彼女に着いて行きたいと言った女騎士メラニーは今頃何をしているのだろうか。そう思いながらリュシーはわずかに身を乗り出す。
「ねえ、シグリ。芳暁花ってまるでローゼのようではないかしら?」
きっとうなずいてくれると思ったシグリはしかし、ゆっくりと首を横に振った。
「義姉上。実を申しますと、好ましい人を芳暁花に例えるのはあまり良くないとされていますの」
「どうして? だって、人気のある花なのでしょう?」
「ええ。見目も香りもとても良い花なのですけれど……毒があるんです」
「……毒……」
リュシーは自身の背筋がすっと冷えるのを感じた。
大半の人々にとって毒は忌むべきもの。
もちろん、リュシーにとっても同様だ。
父のクロードは毒によって命を落とした。それは余所者・シーラの手によるものだとされているが、実際には母のナターシャが犯人だとリュシーは知っている。
実を言えばリュシーは、母が使ったものと同じ毒を秘密裏に入手し、長いあいだ自分の部屋に隠していた。いつか祖父を、そして母を葬って、シャルトスの地に変革をもたらそうと考えていたのだ。
しかしそんな勇気を出せないまま時は過ぎ行き、美しい装飾の瓶に入った毒は昨年、処分された。結局あれは、震える手で持つリュシーが甘い未来を妄想する時の道具としてだけ使われた。
今思えばそれで良かった。もしも実際に毒を使っていたのなら、今頃リュシーは罪悪感で押しつぶされそうになっていただろう。民のため、弟のためと思いながらも、実行に踏み切るだけの気概を持たなかったリュシーは、毒を持っていただけでもいかに自分が落ち着かない日々を送っていたのか、嫌というほど思い知っていた。
こうして今、穏やかな気持ちで時を過ごせているのは、あれを持っていることに気付いて止めてくれたアーヴィンのおかげ。そしてもちろん、使わずにいさせてくれたローゼのおかげなのだ。
「……毒は、嫌ね」
冷たい瓶の手触りを思い出しながらリュシーが呟くと、シグリがうなずく。
「毒があるのは花ではなくて棘ですし、死に至るほど強い毒でもないのですけれど、でも――」
「――ひゃっ!」
話の途中で急に若い娘の悲鳴が上がった。何事かと顔を向けたリュシーの視線の先では、シグリの連れてきた侍女がへたり込み、指を見ながら青ざめている。
近くにいる年配の侍女が窘めようとしたのだろう、難しい顔で近寄ったものの、若い侍女の指を見ると声もないまま腰を抜かした。
(どうしたのかしら)
リュシーが首を傾げたその時、わずかに眉を寄せてシグリが立ち上がった。若い侍女へ近づいて指に目を落とし、途端に顔色を失う。崩れ落ちることはなかったが、今にも倒れてしまいそうだ。
フィデル側の侍女は全員が動揺しているが、シャルトス家で用意した侍女は問題がない。
万一の時のために対処できるよう目配せをしながら、立ち上がったリュシーはシグリの体をそっと支える。青紫の瞳を限界まで見開く義妹は、リュシーに気付かない様子で侍女の指を見つめ続ける。
「そんな……そんな。……母上、一体何がありましたの……?」
きつく手を握りながら呟くシグリの背をさすると、小さく息を吐いたシグリはようやくリュシーの方へ顔を向ける。
「ああ……義姉上……」
「大丈夫?」
「……ありがとうございます。少し、驚いてしまいました」
大丈夫とは思えないほど色のない顔に、シグリは強張った微笑みをのせる。
「この指輪の石は本来、壊れたりしないものですの。それが急に粉々になってしまったものですから、つい――」
そこまで言ってシグリは息をのんだ。続いてみるみるうちに顔を紅潮させ、眦を吊り上げる。
「……ローゼ義姉上」
「え? ローゼ?」
「もしかするとローゼ義姉上が」
言って、シグリは今しがたの様子が嘘だったかのようにしっかりとした足で立ち、ドレスの裾をつまんで優雅に頭を下げる。
「リュシー義姉上、申し訳ありませんが私はここで失礼いたします」
「待って。どうしたの? ローゼに何があったの?」
「分かりません。ですが、ジェーバー領で何か異常な事態が起きたのは間違いありません。それは間違いなく精霊に関すること」
キッと顔を上げ、シグリは北東を、ジェーバー領の方を睨みつける。
「おそらく母が何か失敗をしたのです。ローゼ義姉上の身にも何か災いが降りかかったやもしれません。急ぎ、ジェーバー領の状態と義姉上の安全を確かめるための者を手配します。場合によりましては、公爵閣下にもお力添えを願わなくてはいけませんから」
「では、私も行きます」
立ち上がり、リュシーも言う。
「私にも独自の伝手はあるのよ。もしかすると役に立つかもしれないもの。いいわね?」
「もちろん。とても心強いです――リュシー様」
シャルトス家の女性ふたりは為政者の顔で微笑みあうと、急ぎ足で部屋を後にした。
* * *
真っ白な空間で、ローゼはもうずっと膝を抱えていた。
肉体がないからだろう、眠りに落ちることはなく、空腹も感じない。
だというのに過去の記憶があるためだろうか、着ている旅装はいつもの触感で、目から涙は零れ落ちる。胸の奥にもずっと、刺すような痛みがあった。
(あたしはもう、アーヴィンに会えない)
同じ言葉を繰り返し心に刻む。同時に、それ以上の反発が生まれる。
(……絶対に、嫌)
例え死んだとしても、精霊になって戻れるのならまだ構わなかった。しかしこの場所にいる限りはそれすら叶わない。ローゼにできるのは、過去の彼を見ること。ただ、それだけ。
果たして過去を見ることに何の意味があるというのだろうか。ローゼが欲しいのは過去のアーヴィンではなく、現在の、未来の、アーヴィンだというのに。
「……ねえ、お願い。聖剣から出して」
近くいるはずの相手に向け、くぐもった声で今回も願う。
「魂を体に戻して」
【駄目だ】
背後からは、いつもと同じ言葉が返ってくる。
【お前の魂を体に戻したら、山のお方はきっとお前を殺す】
厳しさの中に案じる心を含ませた声は正面へ回り、座りこむローゼと同じ場所へ下がる。きっと今のレオンは正面で膝をついている。
【……これは俺の勝手かもしれないが……】
ぎこちなくローゼの頭を撫でながら彼は語る。自分の失敗でローゼを失いそうになったのは2回目だと。
1回目は昨年、シャルトス領の大樹へ銀狼を宿らせようとした際、大精霊の反発にあったときのこと。
そして2回目が今回。
【どっちも、俺がもっと気を付けていたら防げたんだ。俺はもう、あの絶望を味わいたくない】
「死ぬかどうかなんて分からないわ。それに死んだら死んだで、あたしは精霊になれる。グラス村へ帰れる。……だったら、ここにいるより、死んだ方がずっといい」
【馬鹿なことを言うな】
レオンが声を張る。
【帰れるわけないだろうが。山のお方の意思は強い。俺だって抵抗はできなかったんだ。小さな精霊に逆らえるようなもんじゃない】
しかも、と彼は付け加える。
【行きたい場所がフィデル国内やシャルトス領ならまだいい。精霊の力が満ちてるから瘴穴はほとんどできないもんな。だが、お前の行きたいグラス村は違う。行くまでの間に間違いなく魔物と遭遇する。精霊となったお前は魔物に倒されるか、黒く染まってしまうに決まってる】
「そんなの分からない」
【いいや、分かる】
「なんで言い切れるのよ。あたしの可能性を勝手に潰さないで」
【お前こそ簡単に考えすぎだ。――とにかく、俺はここからお前を出さないからな】
表面だけのことで判断をするのなら、レオンの冷たい口調と言葉はローゼの気持ちへ寄り添うつもりがまったくないように思える。
だが、この1年の間ローゼが共に過ごしてきたのは声だけのレオンだ。聞こえてくる厳しさのずっと奥の方には、優しさと懸念が隠すかのようにして含まれていると気付いていた。
だから、今の彼がどんな顔をしているのかなど見なくても分かる。
そう思いつつ視線を上げたローゼは、優しさの欠片もない、険しいばかりの顔を見て小さく首を傾げた。
「……あの、レオン……」
【なんだ】
名を呼んだものの、違和感をどう表現して良いか分からずにローゼは黙り込む。
一方のレオンは何も言わなくなったローゼに何か思うところがあったのだろう、立ち上がって腰に手を当てる。おかげで座っているローゼには、高い位置にあるレオンの顔がほぼ見えなくなった。
【本当に、お前はいつも勝手なことばかり言う。今までだってそうだ。例えば――】
続く彼の小言を、ローゼはしばらくのあいだは黙って聞いていた。
やがて、違和感の理由を思い付いて立ちあがる。頭ひとつ高い所にある顔を黙って見上げ、続いて下を向いた。足元を見ながら彼の声をしばらく聞いた後、もう一度レオンの顔を見つめる。
同じ行動を何度か繰り返し、ローゼは心の中で呟いた。
(……ああ、そっか……)
じんわりと胸が熱くなる。口元が緩んだ。
それを見とがめたらしいレオンが眉を寄せる。
【まったく。お前は俺の話を聞いてたのか?】
「聞いてた。だから、レオンの気持ちが嬉しくなったの」
【俺の気持ち?】
「うん。あたしのことを考えてくれて、ありがとう」
言うと、レオンは一呼吸置いてから無表情となって答える。
【何を今さら。俺はずっとお前のことを考えてきたんだ。……その、先日までは除くが】
「でも、レオンは戻ってきてくれたじゃない」
レオンはふいと横を向く。彼の表情は見えなくなった。
【だとしても、お前を危険に晒したことは間違いないんだ】
声だけとなっても、ローゼにはレオンの心が良く分かる。そう考えたところで、ローゼはくすりと笑った。
――声だけだからこそ、よく分かるのかもしれない。
「ねえ。レオンは今後も、あたしと一緒にいてくれるよね?」
【当たり前だ】
「だったら考えを改めるわ。――あたしもレオンと一緒にいる」
【何?】
背けていた顔を戻してレオンは目を丸くする。口を半ば開いて動きを止めた姿は、意外なことを聞いたためにどう返事をして良いのか分からないようにも見えた。
「あたし、レオンと一緒にいる」
もう一度言ったローゼは、馴染みの声を持つ見慣れない青年に向け、にこりと微笑ってみせた。
「ええ」
刺繍針を持つ手を止めてリュシーが問い返すと、正面で刺繍をしていたシグリも同じように手を止め、微笑む。
北の国から来た義妹は折を見てはリュシーの部屋を訪れ、こうして話し相手になってくれていた。友人や姉妹と一緒に穏やかな時を過ごしてみたいと思っていたリュシーは、彼女の心遣いがとても嬉しかった。
「初めて聞く名前だわ。どんな花なの?」
リュシーが問うと、シグリは机の上に自身の刺繍道具を置き、綺麗に手入れされた白い手を上向ける。
「私の手のひらと同じくらいの赤い花です。花弁が幾重にも重なっていて、とても存在感がありますのよ」
「素敵ね。ぜひ見てみたいわ」
「私もぜひリュシー義姉上に見ていただきたいのですけれど、残念ながら少し難しくて。芳暁花は『春を告げる』とも『春を運んでくる』とも言われる花ですので、咲く時期はまだ雪の残る頃になりますの」
「それは……確かに難しいわね」
シャルトス公爵領はアストラン王国の最北にあり、そのシャルトス領よりさらに北にあるのがフィデル王国だ。冬の旅の厳しさが分かっているリュシーは深くうなずいた。
「でも、白一色だった世界の中に、春を告げる赤い花が凛と立つ姿はきっと印象的でしょうね。フィデルの人々が芳暁花を好む気持ち、分かるような気がするわ」
言いながらリュシーの脳裏に浮かんだのはもうひとりの義妹、終わり行く運命だったこの北の地に、新たな季節をもたらしてくれた、赤い髪と瞳の娘だ。
彼女と、彼女に着いて行きたいと言った女騎士メラニーは今頃何をしているのだろうか。そう思いながらリュシーはわずかに身を乗り出す。
「ねえ、シグリ。芳暁花ってまるでローゼのようではないかしら?」
きっとうなずいてくれると思ったシグリはしかし、ゆっくりと首を横に振った。
「義姉上。実を申しますと、好ましい人を芳暁花に例えるのはあまり良くないとされていますの」
「どうして? だって、人気のある花なのでしょう?」
「ええ。見目も香りもとても良い花なのですけれど……毒があるんです」
「……毒……」
リュシーは自身の背筋がすっと冷えるのを感じた。
大半の人々にとって毒は忌むべきもの。
もちろん、リュシーにとっても同様だ。
父のクロードは毒によって命を落とした。それは余所者・シーラの手によるものだとされているが、実際には母のナターシャが犯人だとリュシーは知っている。
実を言えばリュシーは、母が使ったものと同じ毒を秘密裏に入手し、長いあいだ自分の部屋に隠していた。いつか祖父を、そして母を葬って、シャルトスの地に変革をもたらそうと考えていたのだ。
しかしそんな勇気を出せないまま時は過ぎ行き、美しい装飾の瓶に入った毒は昨年、処分された。結局あれは、震える手で持つリュシーが甘い未来を妄想する時の道具としてだけ使われた。
今思えばそれで良かった。もしも実際に毒を使っていたのなら、今頃リュシーは罪悪感で押しつぶされそうになっていただろう。民のため、弟のためと思いながらも、実行に踏み切るだけの気概を持たなかったリュシーは、毒を持っていただけでもいかに自分が落ち着かない日々を送っていたのか、嫌というほど思い知っていた。
こうして今、穏やかな気持ちで時を過ごせているのは、あれを持っていることに気付いて止めてくれたアーヴィンのおかげ。そしてもちろん、使わずにいさせてくれたローゼのおかげなのだ。
「……毒は、嫌ね」
冷たい瓶の手触りを思い出しながらリュシーが呟くと、シグリがうなずく。
「毒があるのは花ではなくて棘ですし、死に至るほど強い毒でもないのですけれど、でも――」
「――ひゃっ!」
話の途中で急に若い娘の悲鳴が上がった。何事かと顔を向けたリュシーの視線の先では、シグリの連れてきた侍女がへたり込み、指を見ながら青ざめている。
近くにいる年配の侍女が窘めようとしたのだろう、難しい顔で近寄ったものの、若い侍女の指を見ると声もないまま腰を抜かした。
(どうしたのかしら)
リュシーが首を傾げたその時、わずかに眉を寄せてシグリが立ち上がった。若い侍女へ近づいて指に目を落とし、途端に顔色を失う。崩れ落ちることはなかったが、今にも倒れてしまいそうだ。
フィデル側の侍女は全員が動揺しているが、シャルトス家で用意した侍女は問題がない。
万一の時のために対処できるよう目配せをしながら、立ち上がったリュシーはシグリの体をそっと支える。青紫の瞳を限界まで見開く義妹は、リュシーに気付かない様子で侍女の指を見つめ続ける。
「そんな……そんな。……母上、一体何がありましたの……?」
きつく手を握りながら呟くシグリの背をさすると、小さく息を吐いたシグリはようやくリュシーの方へ顔を向ける。
「ああ……義姉上……」
「大丈夫?」
「……ありがとうございます。少し、驚いてしまいました」
大丈夫とは思えないほど色のない顔に、シグリは強張った微笑みをのせる。
「この指輪の石は本来、壊れたりしないものですの。それが急に粉々になってしまったものですから、つい――」
そこまで言ってシグリは息をのんだ。続いてみるみるうちに顔を紅潮させ、眦を吊り上げる。
「……ローゼ義姉上」
「え? ローゼ?」
「もしかするとローゼ義姉上が」
言って、シグリは今しがたの様子が嘘だったかのようにしっかりとした足で立ち、ドレスの裾をつまんで優雅に頭を下げる。
「リュシー義姉上、申し訳ありませんが私はここで失礼いたします」
「待って。どうしたの? ローゼに何があったの?」
「分かりません。ですが、ジェーバー領で何か異常な事態が起きたのは間違いありません。それは間違いなく精霊に関すること」
キッと顔を上げ、シグリは北東を、ジェーバー領の方を睨みつける。
「おそらく母が何か失敗をしたのです。ローゼ義姉上の身にも何か災いが降りかかったやもしれません。急ぎ、ジェーバー領の状態と義姉上の安全を確かめるための者を手配します。場合によりましては、公爵閣下にもお力添えを願わなくてはいけませんから」
「では、私も行きます」
立ち上がり、リュシーも言う。
「私にも独自の伝手はあるのよ。もしかすると役に立つかもしれないもの。いいわね?」
「もちろん。とても心強いです――リュシー様」
シャルトス家の女性ふたりは為政者の顔で微笑みあうと、急ぎ足で部屋を後にした。
* * *
真っ白な空間で、ローゼはもうずっと膝を抱えていた。
肉体がないからだろう、眠りに落ちることはなく、空腹も感じない。
だというのに過去の記憶があるためだろうか、着ている旅装はいつもの触感で、目から涙は零れ落ちる。胸の奥にもずっと、刺すような痛みがあった。
(あたしはもう、アーヴィンに会えない)
同じ言葉を繰り返し心に刻む。同時に、それ以上の反発が生まれる。
(……絶対に、嫌)
例え死んだとしても、精霊になって戻れるのならまだ構わなかった。しかしこの場所にいる限りはそれすら叶わない。ローゼにできるのは、過去の彼を見ること。ただ、それだけ。
果たして過去を見ることに何の意味があるというのだろうか。ローゼが欲しいのは過去のアーヴィンではなく、現在の、未来の、アーヴィンだというのに。
「……ねえ、お願い。聖剣から出して」
近くいるはずの相手に向け、くぐもった声で今回も願う。
「魂を体に戻して」
【駄目だ】
背後からは、いつもと同じ言葉が返ってくる。
【お前の魂を体に戻したら、山のお方はきっとお前を殺す】
厳しさの中に案じる心を含ませた声は正面へ回り、座りこむローゼと同じ場所へ下がる。きっと今のレオンは正面で膝をついている。
【……これは俺の勝手かもしれないが……】
ぎこちなくローゼの頭を撫でながら彼は語る。自分の失敗でローゼを失いそうになったのは2回目だと。
1回目は昨年、シャルトス領の大樹へ銀狼を宿らせようとした際、大精霊の反発にあったときのこと。
そして2回目が今回。
【どっちも、俺がもっと気を付けていたら防げたんだ。俺はもう、あの絶望を味わいたくない】
「死ぬかどうかなんて分からないわ。それに死んだら死んだで、あたしは精霊になれる。グラス村へ帰れる。……だったら、ここにいるより、死んだ方がずっといい」
【馬鹿なことを言うな】
レオンが声を張る。
【帰れるわけないだろうが。山のお方の意思は強い。俺だって抵抗はできなかったんだ。小さな精霊に逆らえるようなもんじゃない】
しかも、と彼は付け加える。
【行きたい場所がフィデル国内やシャルトス領ならまだいい。精霊の力が満ちてるから瘴穴はほとんどできないもんな。だが、お前の行きたいグラス村は違う。行くまでの間に間違いなく魔物と遭遇する。精霊となったお前は魔物に倒されるか、黒く染まってしまうに決まってる】
「そんなの分からない」
【いいや、分かる】
「なんで言い切れるのよ。あたしの可能性を勝手に潰さないで」
【お前こそ簡単に考えすぎだ。――とにかく、俺はここからお前を出さないからな】
表面だけのことで判断をするのなら、レオンの冷たい口調と言葉はローゼの気持ちへ寄り添うつもりがまったくないように思える。
だが、この1年の間ローゼが共に過ごしてきたのは声だけのレオンだ。聞こえてくる厳しさのずっと奥の方には、優しさと懸念が隠すかのようにして含まれていると気付いていた。
だから、今の彼がどんな顔をしているのかなど見なくても分かる。
そう思いつつ視線を上げたローゼは、優しさの欠片もない、険しいばかりの顔を見て小さく首を傾げた。
「……あの、レオン……」
【なんだ】
名を呼んだものの、違和感をどう表現して良いか分からずにローゼは黙り込む。
一方のレオンは何も言わなくなったローゼに何か思うところがあったのだろう、立ち上がって腰に手を当てる。おかげで座っているローゼには、高い位置にあるレオンの顔がほぼ見えなくなった。
【本当に、お前はいつも勝手なことばかり言う。今までだってそうだ。例えば――】
続く彼の小言を、ローゼはしばらくのあいだは黙って聞いていた。
やがて、違和感の理由を思い付いて立ちあがる。頭ひとつ高い所にある顔を黙って見上げ、続いて下を向いた。足元を見ながら彼の声をしばらく聞いた後、もう一度レオンの顔を見つめる。
同じ行動を何度か繰り返し、ローゼは心の中で呟いた。
(……ああ、そっか……)
じんわりと胸が熱くなる。口元が緩んだ。
それを見とがめたらしいレオンが眉を寄せる。
【まったく。お前は俺の話を聞いてたのか?】
「聞いてた。だから、レオンの気持ちが嬉しくなったの」
【俺の気持ち?】
「うん。あたしのことを考えてくれて、ありがとう」
言うと、レオンは一呼吸置いてから無表情となって答える。
【何を今さら。俺はずっとお前のことを考えてきたんだ。……その、先日までは除くが】
「でも、レオンは戻ってきてくれたじゃない」
レオンはふいと横を向く。彼の表情は見えなくなった。
【だとしても、お前を危険に晒したことは間違いないんだ】
声だけとなっても、ローゼにはレオンの心が良く分かる。そう考えたところで、ローゼはくすりと笑った。
――声だけだからこそ、よく分かるのかもしれない。
「ねえ。レオンは今後も、あたしと一緒にいてくれるよね?」
【当たり前だ】
「だったら考えを改めるわ。――あたしもレオンと一緒にいる」
【何?】
背けていた顔を戻してレオンは目を丸くする。口を半ば開いて動きを止めた姿は、意外なことを聞いたためにどう返事をして良いのか分からないようにも見えた。
「あたし、レオンと一緒にいる」
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