上 下
240 / 262
第6章

15.「ごめんね」

しおりを挟む
 いずれにせよ、山の精霊はローゼの中にいる大精霊を手元へ戻したいらしい。
 これはローゼにとっては歓迎すべきことだ。シャルトスの城にいるときからずっと、大精霊に出て行ってもらう方法を考えていたのだから。

 山の精霊に協力を申し出る代わりに、レオンを元に戻すように頼む。
 レオンは精霊だが、聖剣の中にいる存在だ。この森の仲間として加わらないのだから、山の精霊はローゼの願いを聞いてくれるに違いない。

 交渉を終えた後は森を出て、労力に見合うだけの対価をカーリナからもらえばフィデルでの役目は終了だ。
 冷たかったレオンの態度を揶揄からかいながらアストラン大神殿へ行き、大神殿長に良い報告を終えてから悔しそうなアレン大神官をせせら笑うのはきっと気分が良いだろう。
 あとは故郷へ帰り、アーヴィンの腕の中で一連の頑張りを褒めてもらったところで、今回の長い出来事はやっと終わりを迎えるのだ。

 今ここで岩に向かって頷くのなら、そんな未来がやってくる。
 分かっているというのに、ローゼは動くことができない。

(……でも、あたしはアーヴィンに褒めてもらえるの? 本当に?)

 ローゼが夢の中で何度も見たのは、シャルトスの女王や、女王の子孫たちと楽しい時を過ごす大精霊の姿だ。
 なのにこの場所へ戻ってしまうと大精霊は一変する。きっと、今のレオンと同じように人を嫌悪し、過去のすべてを無かったものにしようとする。

 それが分かっているから、大精霊はここへ戻りたくないのだろう。
 あの方の言うことを聞かないでください、と彼女はローゼに懇願している。

(あたし……あたしは……)

 頭の中では答えがもう出ている。だが、心の迷いがローゼの動きを止める。
 どちらにすべきなのか、最後の一押しが得られないまま岩を見つめていると、抑揚のない声が聞こえてきた。

『この期に及んでもまだはかりごとを巡らせるか。人とは勝手なものだ』
「違うんです。あたしは――っ、ぐっ」

 持ち上げられたローゼの体は、強い力で岩へ押し付けられる。呼びかけるために大きく吸い込んだ息は言葉とならずに吐き出された。

『もう何も聞かぬ。人は了承したのだ。故にそなたはここにいる。――戻れ』

 声と共に更なる力が加わり、呼吸すら苦しくなってローゼは顔を歪める。
 岩は山の精霊の一部だ。聖剣が指輪の石に触れたせいで変わってしまったように、山の精霊はローゼを岩に触れさせることで大精霊の意思を曲げさせようとしているのだろう。

 しかし、強い意思によって外へ引き寄せられながらも、大精霊はローゼの中で必死に耐えていた。

 私は外の世界にいたいのです。人と関わりたいのです。
 どうか、どうか。お願いします、お願いします。

 哀切の声は空気を震わせてはいないが、山の精霊には届いている。体を岩に押し付けられるローゼには流れ込んでくる彼の心が理解できていた。――もちろん彼は、大精霊の頼みを聞くつもりなどまったく無いのだ。

 山の精霊はこの世界の誕生と同時に生まれたと言われるほど古く、その長い時間の中で強い力を得た精霊だ。彼の意思にはどんな精霊も逆らうことができない。大精霊が未だ拒むことができているのは彼女がローゼの中にいるためだ。ローゼの肉体が、魂が、彼の干渉を妨げているため。もっと強い力で呼びかけられれば大精霊は抗うことができない。

 だから、大精霊は「戻さないでほしい」と切に願いながらも、もう諦めている。
 一方で、山の精霊は力を緩めない。互いに、大精霊が戻るのは時間の問題だと分かっているのだ。

 それに気づいた瞬間、ローゼからは一切の迷いが消えた。

「やめてよ!」

 怒りに任せて腕と足に力を入れ、岩から体を少しずつ離しながらローゼは叫ぶ。

「人のことなんて言えない! やっぱりあなたも勝手だわ!」

 心によぎるのは、北の城の小さな暗い部屋で見た次期公爵エリオット。
 そして、南の明るい陽の下、翳りを帯びた表情でうつむく王女フェリシア。

 ふたりが見せた諦めの表情と、大精霊の感情が重なる。
 生まれが。環境が。選ぶことすら許さずに道を阻み、望む未来を閉ざした。

「あなたなんかに、大精霊は渡さない!」
【無駄だ】
「レオン!」

 聖剣からの声が耳に届く。久しぶりに彼の言葉を聞けて、ローゼは泣きたいほど嬉しい。

 ――だが。

【人間が偉大なかたに逆らうなど愚かな所業でしかない。諦めろ、我が娘よ】

 彼の声は、山の精霊の声を映したかのように抑揚がなかった。心に満ちた明るい気持ちは一瞬で消え去る。悔しくて悲しくて、ローゼは駄々をこねるように大きく首を横に振った。既に緩んでいた髪が完全にほどけ、床へ落ちた飾りがカシャカシャと音を立てる。

「嫌よ! あたしは諦めない! 諦めるのは向こうだわ!」
【諦めないのなら道はここで終わる。この後お前は絶望を知るだろう】

 なんてことを言うの、とローゼは抗議の声を上げた。――上げたはずだった。しかしそれは自分の耳にすら届かなかった。轟く低い声が辺り一帯の音すべてを飲み込み、かき消したせいだ。

『望みを叶えよう』

 体にかかっていた力が消える。床へ落ちて臀部をしたたかに打つが、ローゼは痛みを感じなかった。それよりも寒かった。体が芯から冷えた気がして両腕で体を抱く。合わなくなった歯の根がカチカチと音を立てた。

 もちろん、本当に気温が下がったわけではない。感じるこれは恐怖だ。

『我が仲間よ。お前はその人間の生が終わる時まで、人と共に居るが良い』

 言葉が終わると同時にローゼの体は持ち上げられた。銀の腕飾りからは今までの甲高い音ではなく、ギャリギャリという低く耳障りな音が響き始める。初めて聞くただならぬ音に本能的な危険を感じる中、体は今までと違ってただひたすら上へと押しやられて行く。

 大精霊がローゼの中で悲鳴を上げ、ごめんなさい、と叫んだ。

 ごめんなさい、戻ります。
 どうか、許してください。
 この人を、助けてください。

 彼女の声を受け、山の精霊から言葉が戻る。

おのが望みの行く末をそこで見よ』

 さらに声を大きくして大精霊は「ごめんなさい、この人を助けてください」と叫ぶ。

 ――山の精霊からも、聖剣からも、もう何の声も戻らなかった。

 ローゼも何かを言いたかったが、押しつぶされそうな圧力と恐怖のせいで体の中が掻きまわされるかのように気持ちが悪く、口を開くことなどできない。
 目をつぶったまま吐きそうになるのを必死で耐え、ごうごうと唸る風の音と腕飾りの立てる耳障りな音、そして大精霊の謝罪の叫びををどれほど聞いていただろうか。不意に体が自由になって、ローゼは瞼を開く。

 そこには、青だけがあった。

 他には何もない青い空間。
 どこまでも澄んで、遥かまで広がる。
 見つめるローゼの唇から、ああ、と息が漏れた。

 これは空だ。
 いつも地上から見上げている、青い青い空。

 こんなにも近い空は初めて見た。まるで触れることすらできそうなほどだ。
 そう思って右手を伸ばし――指先は何も掴むことなく空は離れ行く。

 当たり前だ。地を歩む人間は風を切る翼を持たない。空に居場所などない。この後、いつも歩いていた地上へ引き寄せられた自分の身がどうなるのか、考える必要すらなかった。
 後悔や悲しみが押し寄せるが、ローゼはそれらを脇へ押しやる。
 今さら過去を振り返っても仕方がない。

 すべてはもう終わるのだから。

 凪いだ湖のように静かになったローゼの心へ、ごめんなさい、という大精霊の叫びが届く。

 私の我が儘であなたを巻き込んでしまった。
 ごめんなさい、ごめんなさい。
 私のせいで、ごめんなさい。

 ローゼは答えた。

(違うわ)

 これは他の誰かのせいではない。

 レオンの態度に気を配れなかった。
 カーリナの話の裏を見抜けなかった。
 ヴァルグに対して上手く立ち回れなかった。
 そして対する態度を間違えて、山の精霊に言葉を届けられなかった。

 すべて、ローゼの失敗だ。

 ――だから。

「……レオン……」

 聖剣はローゼの死後、神のもとへ戻る。そこでレオンは山の精霊の支配下から離れて己を取り戻すのだろうか。自分のしたことを嘆き悲しむだろうか。
 だが、レオンのせいでもない。断じて違う。どうか自分を責めないで欲しい。そう伝えたいが、聖剣を握りたいが、すべての感覚はもう遠い。

 薄れゆく意識の中で、ローゼは遠ざかる青い空を見つめ続ける。

(……あたしは、ここで終わり……)

 シャルトスの城で初代公爵の絵を見ながら『その時』の話をしたが、まさかこんなにも早く自分の身に訪れるとは思ってもみなかった。

(……でも、あたしの魂は天へ戻らない……)

 アーヴィンは言った。精霊の力を受けたから、ローゼの魂は精霊になるはずだと。

 ならば、この場ではすぐに、小さな精霊が誕生するはずだ。
 新たに誕生した精霊にも山の精霊は「森に居ろ」と言い、「人間を好むな」と言うだろう。だが小さな精霊はその向こう気の強さで強大な意思を跳ねのけ、西を目指すのだ。
 頑張って、頑張って、とにかくグラス村までたどり着けばいい。
 そうすれば、アーヴィンがいる。ローゼがどんな姿になっていても分かってくれるアーヴィンが。

(……帰るっていう約束、したもんね)

 彼は小さくなったローゼも、そのあたたかい両腕で抱きしめてくれる。
 そして、遠くから戻ってきたことを、約束を守ったことを、きっときっと褒めてくれるだろう。

(だからあたしは、絶対に帰るの)

 涙が宙に舞う。

 ――本当は、精霊となってではなく、人の姿で帰りたかったけれど。

「……ごめんね……」

 澄んだ青い空に重なって、青い衣を纏った青年の姿が浮かぶ。
 最後に彼の名を呼ぼうとしたが、唇が動く前にローゼの視界は白に染まり、意識は遠くへと霞んで、消えた。
しおりを挟む
感想 17

あなたにおすすめの小説

〈完結〉妹に婚約者を獲られた私は実家に居ても何なので、帝都でドレスを作ります。

江戸川ばた散歩
ファンタジー
「私」テンダー・ウッドマンズ伯爵令嬢は両親から婚約者を妹に渡せ、と言われる。 了承した彼女は帝都でドレスメーカーの独立工房をやっている叔母のもとに行くことにする。 テンダーがあっさりと了承し、家を離れるのには理由があった。 それは三つ下の妹が生まれて以来の両親の扱いの差だった。 やがてテンダーは叔母のもとで服飾を学び、ついには? 100話まではヒロインのテンダー視点、幕間と101話以降は俯瞰視点となります。 200話で完結しました。 今回はあとがきは無しです。

記憶喪失になった嫌われ悪女は心を入れ替える事にした 

結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
ファンタジー
池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。

私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?

水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。 日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。 そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。 一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。 ◇小説家になろうにも掲載中です! ◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

転生して捨てられたけど日々是好日だね。【二章・完】

ぼん@ぼおやっじ
ファンタジー
おなじみ異世界に転生した主人公の物語。 転生はデフォです。 でもなぜか神様に見込まれて魔法とか魔力とか失ってしまったリウ君の物語。 リウ君は幼児ですが魔力がないので馬鹿にされます。でも周りの大人たちにもいい人はいて、愛されて成長していきます。 しかしリウ君の暮らす村の近くには『タタリ』という恐ろしいものを封じた祠があたのです。 この話は第一部ということでそこまでは完結しています。 第一部ではリウ君は自力で成長し、戦う力を得ます。 そして… リウ君のかっこいい活躍を見てください。

[完結] 邪魔をするなら潰すわよ?

シマ
ファンタジー
私はギルドが運営する治療院で働く治療師の一人、名前はルーシー。 クエストで大怪我したハンター達の治療に毎日、忙しい。そんなある日、騎士の格好をした一人の男が運び込まれた。 貴族のお偉いさんを魔物から護った騎士団の団長さんらしいけど、その場に置いていかれたの?でも、この傷は魔物にヤられたモノじゃないわよ? 魔法のある世界で亡くなった両親の代わりに兄妹を育てるルーシー。彼女は兄妹と静かに暮らしたいけど何やら回りが放ってくれない。 ルーシーが気になる団長さんに振り回されたり振り回したり。 私の生活を邪魔をするなら潰すわよ? 1月5日 誤字脱字修正 54話 ★━戦闘シーンや猟奇的発言あり 流血シーンあり。 魔法・魔物あり。 ざぁま薄め。 恋愛要素あり。

牢で死ぬはずだった公爵令嬢

鈴元 香奈
恋愛
婚約していた王子に裏切られ無実の罪で牢に入れられてしまった公爵令嬢リーゼは、牢番に助け出されて見知らぬ男に託された。 表紙女性イラストはしろ様(SKIMA)、背景はくらうど職人様(イラストAC)、馬上の人物はシルエットACさんよりお借りしています。 小説家になろうさんにも投稿しています。

魔導具士の落ちこぼれ〜前世を思い出したので、世界を救うことになりそうです〜

OSBP
ファンタジー
科学と魔導が織りなす世界。そんな世界で、アスカ・ニベリウムには一つだけ才能があった。それは、魔導具を作製できる魔導具士としての才だ。だが、『かつて魔導具士は恐怖で世界を支配した』という伝承により、現状、魔導具士は忌み嫌われる存在。肩身の狭い生活をしいられることになる‥‥‥。 そんなアスカの人生は、日本王国のお姫様との出会い、そして恋に落ちたことにより激動する。 ——ある日、アスカと姫様はサニーの丘で今年最大の夕陽を見に行く。夕日の壮大さに魅入られ甘い雰囲気になり、見つめ合う2人。2人の手が触れ合った時…… その瞬間、アスカの脳内に火花が飛び散るような閃光が走り、一瞬気を失ってしまう。 再び目を覚ました時、アスカは前世の記憶を思い出していた‥‥‥ 前世の記憶を思い出したアスカは、自分がなぜ転生したのかを思い出す。 そして、元の世界のような過ちをしないように、この世界を救うために立ち上がる。 この物語は、不遇な人生を送っていた少年が、前世を思い出し世界を救うまでの成り上がり英雄伝である。

処理中です...