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第6章

9.薄氷

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 見事な彫刻の扉を目に映しながら、ローゼは拳をぐっと握る。
 この部屋の中に入れば、ローゼをフィデルまで呼んだ本人、ジェーバー辺境伯夫人カーリナと遂に会うこととなる。

 カーリナは現フィデル国王の姉にあたる人物だ。
 王女という高い身分に生まれた彼女が持つ威厳や威圧感はかなりのものに違いない。更に目的のために強引な手を取ることまで鑑みると、非情さも兼ね備えているはずだ。

(背は高いんじゃないかしら。シグリのお母さんだから綺麗な人だけど……そうね。厳しい性格が見えてる分、きつい顔立ちなの。ちょっと怖い感じの人だと思うから、雰囲気に押されないようにしなきゃ)

 出迎えの女性ふたり――彼女たちはカーリナの侍女だった――がダリュースたちと別れたローゼをここまで案内してくれた。侍女が濃茶の扉を叩く後ろでローゼは改めて心に誓う。

(どんな人だって負けない。絶対、レオンを元に戻してもらうんだ)

 中から返答が戻る。
 扉を開いた侍女が「どうぞ」と促すのを聞き、ローゼは部屋の中へと進んだ。

 小さな窓しかなかった廊下は薄暗かった。対して大きな窓がある室内は光にあふれており、その差にローゼは眩んでしまう。思わずよろめき、1、2歩下がってしまったが、廊下まで戻る前に何とか足を踏みしめ、出鼻を挫かれてしまった心を奮起させて頭を下げた。

「お目にかかれて光栄です。ローゼ・ファラーと申します」

 部屋の中で人の立ちあがる気配がした。身構えるローゼの耳に、高く朗らかな声が届く。

「あらあらあら、まあまあまあ。そんなに畏まらないで。顔を上げてちょうだいな」

(……へ?)

 厳格な挨拶を想像していたローゼは、親しげな言葉に困惑する。

 それでも言われた通り顔を上げると、小走りに近寄って来ているのは、ふっくらとした小柄な女性だった。下がった目じりと、上げられた口元に刻まれている皺が笑みのように見え、とても温和な印象を受ける。

(……誰?)

 にこにこと微笑む彼女はローゼの前に立ち、優雅な礼をとった。

「遠い所をようこそ。私がジェーバー辺境伯家のカーリナよ」

 嬉しさを隠し切れない声は、シグリのものとよく似ている。それでローゼは、目の前にいるこの女性が本当にカーリナなのだと確信した。
 しかし、思っていた姿とはずいぶん違っている。怜悧な女性と相対する覚悟は出来ていたが、今のカーリナのように、頬を紅潮させてうっとりと見つめてくる相手への態度は考えていなかった。

 当惑したぶん口を開くのが遅れ、ローゼより先にカーリナが話し始める。

「聞いていたとおりね。凛とした姿に赤い髪と赤い瞳。まるで芳暁花ほうぎょうかのよう。秋も冬も通り越して、一気に春を迎えた気分だわ。――あら、もしかして芳暁花をご存じではないかしら? 赤い色の美しい花なのよ。この花が咲くと春が始まるから、雪の中に蕾を見つけたら誰もが大喜びをするの。私も芳暁花の蕾が見つかったと報告があったら心が浮き立ってね、花はいつ開くのかしら、今日かしら、明日かしらって毎日毎日――」

 困ったことに、相手の様子を気にすることなく話し続けるカーリナの姿は、故郷にいる母や祖母の姿とよく似ている。
 つい「こんな遠方の、こんな偉い人物の中に、自分の身内を見るとは思わなかった」と思ってくすりと笑ってしまった時、そのカーリナがふと話を止めた。
 失礼をしてしまったとローゼは慌てるが、カーリナはローゼの腰辺りを見つめて静かな笑みを浮かべており、気分を害した様子はない。

 一体何があったのだろうと思い、直後にローゼは気付く。
 カーリナは術士だ。

「……まあ。本当に」

 言ってカーリナは頭をぐっと低い位置まで下げての礼を行う。

「お初にお目にかかります。私は――」
【必要ない】

 その声を聞いた瞬間、ローゼは辺りを見回した。たったいま喋ったのが誰なのか、さっぱり分からなかったのだ。周囲の気温を下げるほど冷ややかで、相手に対しての思いやりを欠片も持たない。こんな声を出す者の顔を確かめてみたいと思った。

【俺は人を覚えるつもりなどない】
「……レオン……」

 だからこそ声を出したものが認識できたとき、ローゼの声はわずかに震えた。まさかレオンの声だとは思いもしなかった。いつの間に彼は、ここまで変わってしまったのだろうか。
 顔から血の気が引くのが分かったが、それでもあえていつものように話しかける。

「そういう言い方をするのって、良くないわ」

 苦言を聞いたレオンは不機嫌さを隠そうともせずに低く空気を震わせる。いつもと違う彼の態度に本能的な恐怖を覚えながらも、レオンはレオンなのだからと自分に言い聞かせてローゼは言葉を重ねる。

「初めてお会いする方なんだし、失礼のないように――」
【この際だから言っておく。俺に指図することは許さない】

 レオンの声に含まれる冷たさは、より鋭さを増してローゼに刺さる。
 温もりを求めるようにして思わず手を握り合わせるが、その手も冷え切っており、徒に冷たさを重ねただけだった。

「あ……あのね、レオン」
【それもだ】
「それ?」
【人の名だ】

 彼の意図が分からないローゼは黙る。ただ、彼の声色から、話の展開から、悪い予感はしていた。だから次の言葉を聞いた時、衝撃を受けると同時に納得もした。

【俺を人の名で呼ぶな】

 しかし、理解はできない。

「な、何言っているのよ、レオン」
【呼ぶな】
「呼ぶなって言われても……無理よ。だって、レオンはレオンだもの。今までずっと、そう呼んで」
【もうその呼び名はいらない】

 舌打ちでもしそうな、鬱陶しそうな声。聞こえてくるものを信じたくなくて、ローゼは必死に首を横に振る。

「だって最初に会った時にも名乗ってたでしょ? どうしちゃったの、レオン――」
【いい加減にしろ!】

 ――キィィィン

 レオンの声と同時に左腕の銀鎖から甲高い音がする。ごくわずかな遅れを伴って激しい風が吹き抜け、小さな悲鳴を上げてローゼは思わず目を閉じた。
 室内で突風が吹くという異常な現象を起こせる存在など滅多にいない。続く声を聞かなくても、誰が何をしたのかは明らかだった。

【人間風情が俺の言うことに逆らうな!】
「まあ、大変!」

 カーリナの焦り声に目を開けると、彼女は心配そうにローゼの顔を覗き込んでいる。

「頬に傷が」

 言われてローゼはようやく左頬の痛みに気付く。手を当ててみると、ぬるりとした感触が伝わった。血が出ているらしい。

「ダリュースは神官を連れていたわね。今、呼びに――」
「いえ、大丈夫です」

 カーリナを制し、腰の物入れから出した布を薬に浸して頬へ当てると、ビリビリとした痛みはすぐに遠のいた。アーヴィンの言った通り、普段のものとは違っても薬の効能は確かだった。

 頃合いを見計らって布を離すと、カーリナはほっと息を吐いてうなずく。

「綺麗よ。良かったわ」
「……お見苦しい所をお見せして申し訳ありません。お部屋は大丈夫ですか」
「平気よ。ほら」

 部屋の中は確かに、大きな問題があったようには見えなかった。どうやらレオンの怒りは、完全にローゼだけに向けられていたようだ。

「良かったです」

 呟いてローゼは下を向き、絨毯に血が落ちていないことを確認する。旅装にも血の汚れはなかったので、幸いなことに深い傷ではなかったようだ。
 しかしこれは、銀鎖の守護が発動したことが大きい。もしもレオンの怒りをそのまま受けていたら、傷はどの程度になったのだろうか。

 そう思いながらも、ローゼは安堵する。

(良かった。レオンの傷つけた人が、あたしだけで)

 元のレオンに戻った時、自分が誰かを傷つけたことを知った彼はきっと落ち込むはずだ。
 見知らぬ人になら何も言うことはできないが、ローゼはいつも傍にいる。彼が謝罪したいと思った時、いつでも受け取ることができる。

 それに何より、誰かがレオンを恐怖や怒りの目で見るなどと耐えられない。
 本当のレオンは優しい。ローゼはそれを誰よりもよく知っている。

 しかし。

「ローゼ様はやはり精霊の娘なのね。慣れていらっしゃるわ」

 励ますような声に顔を上げると、カーリナが優しい笑みで見ている。
 慣れている、の意味が分からずローゼが首を傾げていると、カーリナは横へ目配せをする。待機していた侍女がすいと進み出て、

「お手を失礼いたします」

 と言い、ローゼの汚れをあっという間に拭きとった。更に侍女はローゼの手から血の付いた布を受け取って扉の向こうへ消えて行く。おそらく洗ってくれるつもりだろう。

 恐縮するローゼがもういなくなった侍女への礼を述べると、カーリナはおっとりと微笑む。

「気にしないでちょうだいな。さあ、あちらへ座って」

 促され、ローゼはいつものように腰から聖剣を外して机に置き、椅子に座る。向かいの椅子にはカーリナが掛けた。

 彼女の背後には広い窓があり、薄いカーテン越しにはそびえる巨大な山が見えている。まるで彼女は山の、ひいては精霊の代弁者のようだ。

 ――いや、きっとそう思わせるような位置取りをしているに違いない。彼女こそがこのフィデルにおける精霊信仰の頂点に立つ者なのだから。

 そんな彼女はローゼではなく、まずは机に置いた白い鞘の聖剣に向けて丁寧に頭を下げる。

人間ひとがいたしました非礼を、どうかお許しください」

 レオンからの返事はない。

「……すみません」

 ローゼが謝ると、カーリナは屈託なく微笑う。

「私も術士ですもの。精霊のお取りになる態度には慣れているから平気よ」
「精霊の取る、態度?」
「ええ。先ほども、今も。……おられる場所は聖剣でも、態度はとても精霊らしくていらっしゃるわね」
「……精霊らしい……」

 聞いた言葉が信じられず、ローゼは唖然とする。

(あんな攻撃的な態度が精霊らしい……レオンらしい態度だって言ったわけ?)

 そんなはずはない。
 あれが彼の普段の姿だなどと、そんな馬鹿なことがあるはずがない。

 顔を上げ、ローゼはキッとカーリナを見据える。

「違います」
「あら、何がかしら?」
「レオ――いえ。精霊はみんな、人に対して好意的です」

 ローゼには精霊に関する力がほとんどない。せいぜい強い力を持つ主の姿を見聞きすることができる程度だが、今までレオンからたくさんの精霊を『見せて』もらった。声は聞こえないものの、人の傍にいても精霊たちは皆楽しそうにしていた。
 事実、アーヴィンも「精霊は陽気でおしゃべり」だと言っていたはずだ。こんな刺々しい態度が『精霊らしい』などとは到底思えない。

 しかし、シャルトス領よりもずっと長い時を精霊と共に暮らしてきたフィデル国、その筆頭術士は、ローゼの言いたいことなどお見通しのようだ。

「ローゼ様は、シャルトス領の精霊たちを先に知ったのですものね」

 慈愛に満ちた表情のカーリナは、幼子へ向けるような柔らかい口調でローゼに語る。

「あの地にいる精霊たちは例外なのよ。それはね、古の大精霊の――例外的に人を好んだ精霊の影響を、強く受けていたからなの。でもね、古の大精霊が消えてしまったから、シャルトス領の精霊たちも徐々に変わっていくことになるわ」
「で、でも」
「信じたくない気持ちは分かるのよ。誰だって、相手には好かれたいものね。だけど精霊は、仲間同士に向ける親しみを、人へ向けたりしないの」

 きっぱりとした彼女の言葉を聞いて、ローゼは決める。

(……まずは精霊に関しての話をしよう)

 今のレオンが精霊の標準的な態度だと信じているカーリナには、レオンの変化を訴えても無駄かもしれない。
 そう考え、腹に力を入れたローゼは、カーリナの瞳を見つめてもう一度言う。

「違います。精霊の本性は陽気でお喋りなんです。人に対しても親しんでくれるんです」

 だが、カーリナの態度は変わらない。あたたかな笑みを浮かべたまま彼女は唇を開く。

「シャルトス領の精霊はあなたの言う通りよね。だからあれが正しい姿だと思いたいのは分かるわ。……でもね。先ほども言ったように、シャルトス領の精霊たちが人を好むのは古の大精霊がいたからこそ。あくまで、彼女の意思のおかげなのよ」

 これは手ごわそうだと思いながら、ローゼは机の下でそっと銀の腕飾りを握った。
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