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第5章(後)

余話:そこには、ただ

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 風が木を騒めかせた音で、エリオットは我に返った。

 うつむかせていた顔を上げて見る空は、端がわずかに暖かい色を残しているものの、天頂は既に光が届かぬ暗い色になりつつある。
 なぜこんな時間まで誰も何も言わないのだろう、と思いながら立ち止まって背後を見ると、そこにいるのは長く伸びた自分の影だけで、いつも従っている護衛の姿はなかった。
 慌てて見回すと、木々に囲まれて立つ塔に見覚えはなく、人の気配もない。どうやら物思いにふけりながら歩いているうち、普段は足を踏み入れないような場所にまで来てしまったようだ。

「……どうしよう」

 外へ出て来たのは昼食を取って少ししてからだ。今日は午後の授業を完全にすっぽかしてしまった。
 もしかすると『きついお仕置き』があるだろうかと考えて身をすくませ、祖父である公爵や、公爵の側近ダリュース、そして教師といった何人もの大人に対して罪悪感を覚える。さらに授業の範囲を頭に浮かべ、そこだけは安堵した。

(何日か前、自主的に終えた部分だ。「きちんと学ぶように」とのお言いつけには背いていない……)

 そこまで考えたところで、エリオットはくすりと笑う。
 こんな時まで祖父の言葉に忠実であろうとする自分は、なんと滑稽なのだろうか。
 きっと祖父や、祖父の側近であるダリュースも、こんな風にエリオットのことを影で笑っていたはずだ。
 いつまで経っても何も気付かない、暗愚な子どもだ、と。

 ――いや、とエリオットは小さく首を横に振る。

 本当は自分だってもう、とうに気付いていた。
 気付いていたのに、気付かないふりをしていただけ。
 そもそも、すべては不自然だったのだから。

 どんなに耳を聳ててもこの3年ほどの間、母と妹の話は一度として漏れ聞こえてくることすらない。
 ならばふたりに関することを褒美をもらうため、必死で頑張った課題はどれほど見直そうとも必ず「失敗があった」と告げられる。
 ごく稀に会う大精霊も、妹について何も言わなかった。妹だってシャルトスの血脈、本来なら大精霊は彼女のことを把握しているはずなのに。

 ――もちろん大精霊は妹のことを把握していた。だからこそ黙っていたのだ。 

 知らず握り締めていた拳に視線を落とすと、服についた土埃や泥が目に入った。こんなに汚れているのだから、ずいぶん狭い場所も歩いたに違いない。そのせいで護衛とはぐれたのだ。
 消えゆく空の光を頼りに、エリオットは服についた汚れをぱたぱたと叩く。

 ついやってしまうこの行動は、小さい頃に母とふたり、街中で暮らしていた頃の名残のひとつだ。
 城に生まれていたのなら、汚れを叩いて落とす、などということをする必要も、覚える必要もない。ただ着替えれば良いだけ。汚れは洗濯をする者たちが落とすもの。服はいつの間にか綺麗になって部屋へ戻ってくる。

「エリオット様は公爵家の一員でいらっしゃるのです。相応しい振る舞いをなさって下さい」

 眉をひそめて言う教育係の顔を思い出し、エリオットは歯を食いしばる。

「相応しい振る舞い……」

 押し殺した声で呟いた後に大きめの汚れを見つけ、強めに叩き、叫ぶ。

「あれが、公爵家に相応しい振る舞いなんですね、閣下!」

 数か月前に10歳の誕生日を迎えたエリオットは、来週になれば都市イリオスを離れ、王都アストラにあるウォルス教の大神殿へ向かうことになっている。
 その前にどうしても話を聞きたくて、ここ数日の間、エリオットはずっと同じことを精霊たちに尋ねてきた。

 古の大精霊は精霊たちに口止めをしていたが、あまり強くは言い聞かせていなかったようだ。それはエリオットが訊くことはないと思っていたためかもしれないし、あるいは、いつか真実を知らせたいと思っていたためかもしれない。
 いずれにせよ、精霊たちのおかげで、エリオットはようやく知りたかったことを知ることができた。

 母と妹の消息を。
 ふたりは3年近く前に世を去っているということを。

「僕が言うことを聞くなら母上と妹の命は助ける、と約束したではありませんか! 公爵閣下の――!」

 嘘つき、と叫ぼうとした途端、エリオットの脳裏には閃くことがあった。

 4年前。父が死に、母が自分の目の前で連れ去られた後。
 執務室を訪ねて母を助けてくれるようにと懇願するエリオットへ、祖父は言った。

「ふむ。では、私は何も手を出さないと約束しよう。その代わり、お前はいずれ役に立て。――これで良いか?」

 きっと、祖父は約束を守った。エリオットに言った通り何も手を出していない。
 母と妹に手を出したのは祖父ではなく、その周囲に違いない。側近のダリュースを筆頭とした公爵の意を汲む者たち、そして母を嫌悪するナターシャ。

 つまり、汚れた服がいつの間にか綺麗になっている理屈と同じことだ。
 母と妹に何もして欲しくないのなら『祖父自身が手を出さない』との約束だけでは不十分だったのだ。

「……そっか……」

 振り上げた手を、エリオットはのろのろとした動きで下ろす。

「……僕は、失敗したんだ」

 4年前に、祖父の意図が理解できていれば。
 いや、そうでなくとも。

 あのとき、エリオットは精霊銀を作ろうと必死だった。

 精霊の言葉に文字はないため、精霊術も全て口承だ。
 中でも銀に精霊の力を籠める作業は難しい。これができると術士は一人前だと認められるほどなのに、精霊術をほとんど使えないエリオットが着手するには無理があった。

 それでも師匠のジュストに無理を承知で作り方を教えてもらったのは、精霊の力が籠められた銀に不思議な守りの力が宿るからだ。どうしても母に渡したかったのだが、結果はやはり惨憺たるものだった。

 ――あれが完成していれば、母と妹を守ることができたのだろうか。

 考え、エリオットは小さく首を横に振る。
 たとえ話など考えても意味が無い。目の前には現実だけがある。

 幼い自分は祖父の考えなど分からなかった。
 精霊銀は一度も完成しなかった。
 母には何も渡すことができなかった。

 知識も、経験も。
 何もかもが圧倒的に足らなかった自分は、ひたすらに無力だった。

 ――だから。

「……だから僕は、大事な人を、守れなかったんだ……」

 小さく小さく呟いた言葉はただ風だけが聞き、何も言わずそっと宙へ溶かした。
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