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第5章(前)
15.映し取った姿
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気持ちが落ち着いてきたところで、ローゼはふと空腹を覚えた。
アーヴィンは食事を部屋へ運んでもらう手はずを整えたと言っていた。もう良い時間になっているはずだが一体いつ頃届くのだろうか。
彼の腕の中でそんなことを思うと同時に、くうう、と腹が小さな音で主張する。
(えええええ!?)
顔に血をのぼらせたローゼは、アーヴィンが着ている服の胸元を握り締めてうつむき、叫ぶ。
「やだ、もう!」
つい今しがたまで真面目な話をしていたというのに格好悪い、と恥ずかしくなったローゼの背をアーヴィンが軽く叩く。
「良かった。安心したよ」
「……なんで?」
「ローゼが元気になってくれたからね」
声は揶揄する調子ではない。おずおずと顔を上げると、彼の表情から感じられるのも純粋な喜びだけだ。
安堵したローゼがほっと息をついた時、まるで室内の状況が見えていたかのように扉が叩かれ、夕食を持ってきたという侍女の声がした。
* * *
「……さて。次は私の番だね」
食器の片付けを終えた侍女は、ローゼの化粧も整えてくれた。彼女が退出した後、長椅子に座ってアーヴィンが言う。
隠し事を無くしておけ、との言葉を残したレオンは「アーヴィンだって北方へ来た理由のひとつをローゼに隠してた」とも言っていた。
確かに今までしたのはローゼの話のみ、アーヴィンの話はまだ聞いていない。
「フロランが私を結婚式に呼びたかったのには理由がある」
「それって、フロランがアーヴィンのことを……ええと、好きだからってことだけじゃなくて、他にも何かあるってこと?」
フロランはアーヴィンのことがとても好きなように見える。
だからこそフロランは自分の結婚式を本当の兄、アーヴィンに祝ってもらいたいのだと思っていた。
「好意を持って呼んでもらえたのならば、とても嬉しいね」
「絶対持ってるわ」
見上げたローゼの視線を受けてくすりと笑った後、アーヴィンは表情を引き締める。
「……今回重要だったのは、結婚式がシャルトス家当主のものである、ということなんだ」
首をかしげるローゼを見つめながら、アーヴィンは話を続ける。
「普通の人々の結婚式は術士が執り行う。だが、シャルトス家の人物が挙げる結婚式を執り行うのは公爵だ」
確かに、古の大精霊が愛してきたシャルトス家の人物が挙げる結婚式ならば、一介の術士が執り行うのは荷が重いだろう。
そもそもシャルトス家の当主となるためには精霊に関する力が必要となる。公爵というのは領主でもあるが、精霊信仰の頂点として北方の人々から尊崇される術士でもあるのだ。
「公爵自身の挙げる結婚式は先代の公爵が祭司となる。先代公爵がいなければ先々代の公爵が。――そして今までにそのような例はほぼないが、ふたりともいない時はシャルトスの血を持つ者や術士たちの力を借りて、古の大精霊が執り行った。だが……」
アーヴィンは先の言葉を躊躇う。
彼の背にそっと腕を回すローゼは、言いたいことが分かるような気がした。
その慣例で言うのならば、今のシャルトス家には公爵であるフロランの結婚式を執り行える人物がいない。
先代公爵であるフロランの祖父ラディエイルは既に亡く、精霊に関する力を持っていたはずの父クロードはもっと前に亡くなっている。そして古の大精霊もいないのだ。
「だったら、銀狼に頼んで……」
言いかけてローゼは口をつぐむ。
大精霊がシャルトスの婚礼を執り行ってくれていたのは、己が愛した女王の血筋の人物だったからこその好意だろう。
しかし銀狼はシャルトスの血筋に愛着はない。彼がするのはせいぜい、興味津々で式を眺める程度のような気がした。
ローゼの考えが伝わったのだろう。アーヴィンは小さく笑う。
「銀狼は結婚式など執り行っては下さらないだろうね」
「でも銀狼以外で結婚式の祭司ができそうな存在なんて――」
そこでローゼは気が付いた。
――ひとり、いる。
精霊に関する力を持ち、公爵になる予定もあった男性が。
(……ああ、それでなのね……)
ローゼはアーヴィンの言った「それよりも重要だったのは、今回の結婚式がシャルトス家当主のものだった」という意味を理解した。
ただ、アーヴィンが憂鬱そうなこと、さらに祭司として呼ばれたことをローゼに隠していた理由はよく分からない。
ウォルス教の結婚式は神殿で行われる。祭司を務めるのはもちろん神官だ。
アーヴィンはグラス村に来てから約7年の間、何件もの結婚式を執り行ってきた。結婚式の祭司として人の前に立つことは慣れているはずだ。
(北方の結婚式はやり方が違うからうまくできる自信がないってこと? それとも、余所者って言われてきた自分が結婚式をまとめられるか不安なの?)
しかし、どちらの理由もしっくりこない。
アーヴィンならば、形式は違えど結婚式をきちんと執り行うことができるとローゼは確信している。それに誰が文句を言おうと、公爵である当のフロランこそがアーヴィンの司る結婚式を大いに歓迎する。アーヴィンが憂いる必要などないように思えた。
(他に、何か問題があるの……?)
彼の心を慮りながら黙って見つめるローゼの前でアーヴィンはしばらく言葉を探していたようだが、やがて意を決したように立ち上がり、ローゼに手を差し伸べる。
「これ以上は話すより見てもらった方が早い。場所を移動しよう」
「移動? どこへ行くの?」
「フロランの執務室だ」
* * *
執務室に入るとフロランはローゼの頭の上から足元まで視線を何往復かさせる。
何かあったのかと不審に思いながらローゼは黙って彼の様子を見ていたが、少しの後にフロランはわざとらしい笑みを浮かべて芝居がかった調子で両手を広げた。
「ああ、可愛い我が義妹よ! 兄上から具合が悪いと聞いたが、もう大丈夫なのかい?」
どうやらローゼを見ていた件に関しては特に何か言うつもりがないらしい。
だとすれば自分も特に触れず流そうと決め、ローゼは姿勢を正して片足を引き、スカートを持ち上げて頭を下げる。
「おかげさまで良くなりました。ご心配をおかけしまして申し訳ございません、お義兄様」
この返しは予想していなかったのか、フロランは動きを止めた。
「……まったく。見事なまでの棒読み芝居だね」
「ありがとうございます。でも、あたし程度ではまだまだ。フロラン様の嘘くさいお芝居こそ、見事と言うのに相応しいと思います」
「かっわいくない! ねぇ兄上! なんでこんな奴を連れて来たんだよ!」
しかし、アーヴィンからの返答はない。
ローゼが横を見上げると、暗い表情のアーヴィンは心ここにあらずといった様子だ。
「兄上?」
怪訝そうなフロランの声を聞いてびくりと肩を震わせたアーヴィンは、威儀を正して礼をとる。
「すみません、少しぼんやりしていました。……実は、先ほど拝見した素晴らしい品を、もう一度お見せいただけないかと思って伺ったのです」
「なるほど。あれをローゼにも見せたいってわけか」
「仰る通りです」
ふうん、と呟いたフロランはしばらく思案する様子を見せていたが、やがてひとつうなずく。
「……ま、いいか。おいでよ」
フロランが向かったのはひとつの扉だ。近くで控えていた使用人がすいと近寄り、扉を開く。フロランに続いてローゼがアーヴィンと共に扉をくぐると、そこは、執務室よりも少し小さめの部屋だった。
広い大きな窓と緑と白を基調とした壁紙や床は、解放感を与えると同時に安らげる雰囲気を醸し出している。置いている家具もゆったりとした長椅子や優美な彫刻や絵画などで、質実な執務室とは一線を画していた。もしかするとここは、仕事の合間に息抜きをするための場所なのかもしれない。
そんな中、少し奥まった辺りに一際目立つものがあってローゼは目を奪われた。同時に、これこそがアーヴィンの見せたかったものだと確信する。
「近くに行ってもいいよ」
ローゼの態度に満足したのだろう、フロランは横柄に許可を出す。だが、ローゼは反発する気すら起きない。むしろ背中を押されてありがたいとさえ思いながら、雲を踏むような足取りで近くまで寄った。
そこに掛けられていたのはあまりに美しいマントだった。
前開きのマントは美しい光沢をもった厚めの布でできており、色は緑。
しかしローゼは今までこんな色の布を見たことがない。どうやってこんな色を出したのかと思うほど、深く、美しい色だ。
さらにマントの裾は想像以上に長い。少し背の高めなフロランが着ても、後ろには長く引くことだろう。そんな裾や前開きの部分を含むすべての縁には銀色の幾何学模様が隙間なく刺繍され、つなぎ目を感じさせないままぐるりと一周している。
それだけでもすごいと言うのに、圧巻なのは背面に施された大きな木の刺繍だ。
裾部の根から伸びた木は肩へ向かうにつれて枝を増やし、葉を茂らせ、花を咲かせる。周囲には、舞い散る葉。
これらが銀の糸で巧みに刺繍され、光沢のある布地の緑色と合わさって幻想的な光景を醸し出す。
本当に人が作り出したのだろうかと思えるほどの品で、ローゼはただため息を漏らすことしかできない。
これはきっと、地位と権威と栄光の象徴。
間違いなく、公爵が纏うためのものだ。
「……すごいね」
ようやく出るようになった声で呟くが、どこからも返答はない。
腰に聖剣は佩いているが、アーヴィンの話が終わっていないためレオンはまだ内に籠っている。彼からの返事がないのは道理だ。
しかしアーヴィンからの返事はあって良いはずだ。彼はローゼと共に部屋へ来たのだから。
不審に思いながら左右を見るが、近くにいると思っていたアーヴィンの姿はない。
慌てて振り返ると、扉の近くにはローゼの様子をニヤニヤとしながら窺っていたらしいフロランの姿がある。その後ろには、眉間に力を入れてマントから視線を逸らす、アーヴィンの姿が。
彼の様子を見た瞬間、ローゼは冷水を浴びせられたような気分になる。
アーヴィンとしてはまず、マントの持つ意味を知って欲しかっただけなのだろう。そのあと部屋へ戻ってから、自分の背景を説明しようと考えていたに違いない。
「これ以上は話すより見てもらった方が早い。場所を移動しよう」
先程のアーヴィンの判断は確かに正しい。マントと、アーヴィンの姿とを見たローゼは、彼の伝えたかったことが分かったように思う。
マントに心奪われたことを後悔しながらローゼはフロランに向き直り、にっこりと笑った。
「こんなにも素晴らしいマントが地上に存在するなんて、嘘みたいです」
「だろ?」
思っていることは嘘ではない。おかげで棒読みにはならなかった。
ローゼの言葉を聞いたフロランは満足げな表情で腕を組む。
「アストランの国王ですら、ここまでの品は持ってないはずさ」
「本当にそう思います。これは公爵のためのマントなんですよね?」
フロランがうなずくのを見て、ローゼはマントの方へ顔を戻す。
施された木の刺繍はもちろん、大精霊の木を模したものだろう。
見事で豪華なこのマントは、大精霊に愛されたシャルトス家、その頂点である当主が纏うに相応しい品だとつくづくローゼは思う。
――だからこそ。
「フロラン様、このマントは新しいものなんですか?」
「まあね。先代公爵がご使用だったマントはその前の代から引き継いだものだったからさ、せっかくなんで今回新しくしたってわけ」
「でも、刺繍は同じもの?」
「もちろん。この意匠は『シャルトス家が国王だった時代から使われてる』と伝わるものさ」
尊大な声にローゼはただ、ふうん、と気の無い返事をする。
「……アーヴィンはもうこのマントを着ましたか?」
「兄上? いや、まだだ」
「フロラン様は着てますよね?」
「当たり前だろ」
ローゼはもう一度扉の方を振り返る。
目に映るのは腕を組んだままのフロランと、その後ろで翳りの濃い表情を見せているアーヴィン。
ローゼの心は決まった。
アーヴィンは食事を部屋へ運んでもらう手はずを整えたと言っていた。もう良い時間になっているはずだが一体いつ頃届くのだろうか。
彼の腕の中でそんなことを思うと同時に、くうう、と腹が小さな音で主張する。
(えええええ!?)
顔に血をのぼらせたローゼは、アーヴィンが着ている服の胸元を握り締めてうつむき、叫ぶ。
「やだ、もう!」
つい今しがたまで真面目な話をしていたというのに格好悪い、と恥ずかしくなったローゼの背をアーヴィンが軽く叩く。
「良かった。安心したよ」
「……なんで?」
「ローゼが元気になってくれたからね」
声は揶揄する調子ではない。おずおずと顔を上げると、彼の表情から感じられるのも純粋な喜びだけだ。
安堵したローゼがほっと息をついた時、まるで室内の状況が見えていたかのように扉が叩かれ、夕食を持ってきたという侍女の声がした。
* * *
「……さて。次は私の番だね」
食器の片付けを終えた侍女は、ローゼの化粧も整えてくれた。彼女が退出した後、長椅子に座ってアーヴィンが言う。
隠し事を無くしておけ、との言葉を残したレオンは「アーヴィンだって北方へ来た理由のひとつをローゼに隠してた」とも言っていた。
確かに今までしたのはローゼの話のみ、アーヴィンの話はまだ聞いていない。
「フロランが私を結婚式に呼びたかったのには理由がある」
「それって、フロランがアーヴィンのことを……ええと、好きだからってことだけじゃなくて、他にも何かあるってこと?」
フロランはアーヴィンのことがとても好きなように見える。
だからこそフロランは自分の結婚式を本当の兄、アーヴィンに祝ってもらいたいのだと思っていた。
「好意を持って呼んでもらえたのならば、とても嬉しいね」
「絶対持ってるわ」
見上げたローゼの視線を受けてくすりと笑った後、アーヴィンは表情を引き締める。
「……今回重要だったのは、結婚式がシャルトス家当主のものである、ということなんだ」
首をかしげるローゼを見つめながら、アーヴィンは話を続ける。
「普通の人々の結婚式は術士が執り行う。だが、シャルトス家の人物が挙げる結婚式を執り行うのは公爵だ」
確かに、古の大精霊が愛してきたシャルトス家の人物が挙げる結婚式ならば、一介の術士が執り行うのは荷が重いだろう。
そもそもシャルトス家の当主となるためには精霊に関する力が必要となる。公爵というのは領主でもあるが、精霊信仰の頂点として北方の人々から尊崇される術士でもあるのだ。
「公爵自身の挙げる結婚式は先代の公爵が祭司となる。先代公爵がいなければ先々代の公爵が。――そして今までにそのような例はほぼないが、ふたりともいない時はシャルトスの血を持つ者や術士たちの力を借りて、古の大精霊が執り行った。だが……」
アーヴィンは先の言葉を躊躇う。
彼の背にそっと腕を回すローゼは、言いたいことが分かるような気がした。
その慣例で言うのならば、今のシャルトス家には公爵であるフロランの結婚式を執り行える人物がいない。
先代公爵であるフロランの祖父ラディエイルは既に亡く、精霊に関する力を持っていたはずの父クロードはもっと前に亡くなっている。そして古の大精霊もいないのだ。
「だったら、銀狼に頼んで……」
言いかけてローゼは口をつぐむ。
大精霊がシャルトスの婚礼を執り行ってくれていたのは、己が愛した女王の血筋の人物だったからこその好意だろう。
しかし銀狼はシャルトスの血筋に愛着はない。彼がするのはせいぜい、興味津々で式を眺める程度のような気がした。
ローゼの考えが伝わったのだろう。アーヴィンは小さく笑う。
「銀狼は結婚式など執り行っては下さらないだろうね」
「でも銀狼以外で結婚式の祭司ができそうな存在なんて――」
そこでローゼは気が付いた。
――ひとり、いる。
精霊に関する力を持ち、公爵になる予定もあった男性が。
(……ああ、それでなのね……)
ローゼはアーヴィンの言った「それよりも重要だったのは、今回の結婚式がシャルトス家当主のものだった」という意味を理解した。
ただ、アーヴィンが憂鬱そうなこと、さらに祭司として呼ばれたことをローゼに隠していた理由はよく分からない。
ウォルス教の結婚式は神殿で行われる。祭司を務めるのはもちろん神官だ。
アーヴィンはグラス村に来てから約7年の間、何件もの結婚式を執り行ってきた。結婚式の祭司として人の前に立つことは慣れているはずだ。
(北方の結婚式はやり方が違うからうまくできる自信がないってこと? それとも、余所者って言われてきた自分が結婚式をまとめられるか不安なの?)
しかし、どちらの理由もしっくりこない。
アーヴィンならば、形式は違えど結婚式をきちんと執り行うことができるとローゼは確信している。それに誰が文句を言おうと、公爵である当のフロランこそがアーヴィンの司る結婚式を大いに歓迎する。アーヴィンが憂いる必要などないように思えた。
(他に、何か問題があるの……?)
彼の心を慮りながら黙って見つめるローゼの前でアーヴィンはしばらく言葉を探していたようだが、やがて意を決したように立ち上がり、ローゼに手を差し伸べる。
「これ以上は話すより見てもらった方が早い。場所を移動しよう」
「移動? どこへ行くの?」
「フロランの執務室だ」
* * *
執務室に入るとフロランはローゼの頭の上から足元まで視線を何往復かさせる。
何かあったのかと不審に思いながらローゼは黙って彼の様子を見ていたが、少しの後にフロランはわざとらしい笑みを浮かべて芝居がかった調子で両手を広げた。
「ああ、可愛い我が義妹よ! 兄上から具合が悪いと聞いたが、もう大丈夫なのかい?」
どうやらローゼを見ていた件に関しては特に何か言うつもりがないらしい。
だとすれば自分も特に触れず流そうと決め、ローゼは姿勢を正して片足を引き、スカートを持ち上げて頭を下げる。
「おかげさまで良くなりました。ご心配をおかけしまして申し訳ございません、お義兄様」
この返しは予想していなかったのか、フロランは動きを止めた。
「……まったく。見事なまでの棒読み芝居だね」
「ありがとうございます。でも、あたし程度ではまだまだ。フロラン様の嘘くさいお芝居こそ、見事と言うのに相応しいと思います」
「かっわいくない! ねぇ兄上! なんでこんな奴を連れて来たんだよ!」
しかし、アーヴィンからの返答はない。
ローゼが横を見上げると、暗い表情のアーヴィンは心ここにあらずといった様子だ。
「兄上?」
怪訝そうなフロランの声を聞いてびくりと肩を震わせたアーヴィンは、威儀を正して礼をとる。
「すみません、少しぼんやりしていました。……実は、先ほど拝見した素晴らしい品を、もう一度お見せいただけないかと思って伺ったのです」
「なるほど。あれをローゼにも見せたいってわけか」
「仰る通りです」
ふうん、と呟いたフロランはしばらく思案する様子を見せていたが、やがてひとつうなずく。
「……ま、いいか。おいでよ」
フロランが向かったのはひとつの扉だ。近くで控えていた使用人がすいと近寄り、扉を開く。フロランに続いてローゼがアーヴィンと共に扉をくぐると、そこは、執務室よりも少し小さめの部屋だった。
広い大きな窓と緑と白を基調とした壁紙や床は、解放感を与えると同時に安らげる雰囲気を醸し出している。置いている家具もゆったりとした長椅子や優美な彫刻や絵画などで、質実な執務室とは一線を画していた。もしかするとここは、仕事の合間に息抜きをするための場所なのかもしれない。
そんな中、少し奥まった辺りに一際目立つものがあってローゼは目を奪われた。同時に、これこそがアーヴィンの見せたかったものだと確信する。
「近くに行ってもいいよ」
ローゼの態度に満足したのだろう、フロランは横柄に許可を出す。だが、ローゼは反発する気すら起きない。むしろ背中を押されてありがたいとさえ思いながら、雲を踏むような足取りで近くまで寄った。
そこに掛けられていたのはあまりに美しいマントだった。
前開きのマントは美しい光沢をもった厚めの布でできており、色は緑。
しかしローゼは今までこんな色の布を見たことがない。どうやってこんな色を出したのかと思うほど、深く、美しい色だ。
さらにマントの裾は想像以上に長い。少し背の高めなフロランが着ても、後ろには長く引くことだろう。そんな裾や前開きの部分を含むすべての縁には銀色の幾何学模様が隙間なく刺繍され、つなぎ目を感じさせないままぐるりと一周している。
それだけでもすごいと言うのに、圧巻なのは背面に施された大きな木の刺繍だ。
裾部の根から伸びた木は肩へ向かうにつれて枝を増やし、葉を茂らせ、花を咲かせる。周囲には、舞い散る葉。
これらが銀の糸で巧みに刺繍され、光沢のある布地の緑色と合わさって幻想的な光景を醸し出す。
本当に人が作り出したのだろうかと思えるほどの品で、ローゼはただため息を漏らすことしかできない。
これはきっと、地位と権威と栄光の象徴。
間違いなく、公爵が纏うためのものだ。
「……すごいね」
ようやく出るようになった声で呟くが、どこからも返答はない。
腰に聖剣は佩いているが、アーヴィンの話が終わっていないためレオンはまだ内に籠っている。彼からの返事がないのは道理だ。
しかしアーヴィンからの返事はあって良いはずだ。彼はローゼと共に部屋へ来たのだから。
不審に思いながら左右を見るが、近くにいると思っていたアーヴィンの姿はない。
慌てて振り返ると、扉の近くにはローゼの様子をニヤニヤとしながら窺っていたらしいフロランの姿がある。その後ろには、眉間に力を入れてマントから視線を逸らす、アーヴィンの姿が。
彼の様子を見た瞬間、ローゼは冷水を浴びせられたような気分になる。
アーヴィンとしてはまず、マントの持つ意味を知って欲しかっただけなのだろう。そのあと部屋へ戻ってから、自分の背景を説明しようと考えていたに違いない。
「これ以上は話すより見てもらった方が早い。場所を移動しよう」
先程のアーヴィンの判断は確かに正しい。マントと、アーヴィンの姿とを見たローゼは、彼の伝えたかったことが分かったように思う。
マントに心奪われたことを後悔しながらローゼはフロランに向き直り、にっこりと笑った。
「こんなにも素晴らしいマントが地上に存在するなんて、嘘みたいです」
「だろ?」
思っていることは嘘ではない。おかげで棒読みにはならなかった。
ローゼの言葉を聞いたフロランは満足げな表情で腕を組む。
「アストランの国王ですら、ここまでの品は持ってないはずさ」
「本当にそう思います。これは公爵のためのマントなんですよね?」
フロランがうなずくのを見て、ローゼはマントの方へ顔を戻す。
施された木の刺繍はもちろん、大精霊の木を模したものだろう。
見事で豪華なこのマントは、大精霊に愛されたシャルトス家、その頂点である当主が纏うに相応しい品だとつくづくローゼは思う。
――だからこそ。
「フロラン様、このマントは新しいものなんですか?」
「まあね。先代公爵がご使用だったマントはその前の代から引き継いだものだったからさ、せっかくなんで今回新しくしたってわけ」
「でも、刺繍は同じもの?」
「もちろん。この意匠は『シャルトス家が国王だった時代から使われてる』と伝わるものさ」
尊大な声にローゼはただ、ふうん、と気の無い返事をする。
「……アーヴィンはもうこのマントを着ましたか?」
「兄上? いや、まだだ」
「フロラン様は着てますよね?」
「当たり前だろ」
ローゼはもう一度扉の方を振り返る。
目に映るのは腕を組んだままのフロランと、その後ろで翳りの濃い表情を見せているアーヴィン。
ローゼの心は決まった。
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