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第4章(前)
20.繁吹き
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赤い花が咲いているのは瘴穴の跡だと聞いたローゼは、もう一度戻ってよく見たい気分になる。
だがどう考えても、また妙なことになってしまいそうだ。
しばらくの間悩んだローゼは、結局畑を背にして歩き出した。
「……薬草を世話してるパウラはもちろん香りを嗅いでも平気よね。フェリシアもあの薬草を持ったって何の変化もなかった。なのになんであたしだけ」
文句を言うローゼはちらりと視線を聖剣に投げる。
「……レオンのせいでしょ」
【せいとか言うな】
「やっぱりそうなのね。なのに当のレオンは平気なんだからズルい」
恨みがましい声を聞いたレオンは自慢げに笑う。
【聖剣だからな】
ローゼが妙なことになるのは、レオンから分け与えられた精霊の力が関係しているのだろう。事実、レオンは否定をしない。
「レオンはいい匂いって思わないの?」
【思わないな。香りが強すぎるから臭くてたまらん】
「そうなの? うーん、なんであたしはいい匂いだって思うんだろう」
【元は人が好む香りを放つ薬草だし、そもそもお前の精霊の力は弱すぎる。好ましい気持ちの方が勝るんだろう】
そういうものかな、と思いつつ小さくため息をつき、ローゼは再び口を開いた。
「……ねえ、レオン」
【なんだ?】
傾きつつある陽の下、石畳に長く伸びる影を見つめてローゼは歩く。
「精霊って、何?」
北にいる時からローゼは不思議だった。
精霊という、瘴気や瘴穴が見え、魔物と戦ってくれる存在。
『ほかのばしょでは、もうだれも、せいれいを信じていません。だれにも知られず、まものとたたかい、消えていくのです』
北方の老術士ジュストがくれた絵本の中にはそんな一文もあった。
「精霊は何のためにいるの?」
周囲には靴音だけが響く。
おそらく何の答えもないだろうと思っていたので、ローゼは彼が無言でも気にするつもりがなかった。
だからこそ、しばらく歩いた後にごく小さな声がしたとき、ローゼは本当に驚いた。
【すまん】
どうして謝っているのだろうとローゼは思う。
しかしレオンの声は泣きそうだったので、あえて聞こえないふりをすることにした。
* * *
翌朝、桶を持ったローゼはいつもより少し早めに家を出る。
予想通り井戸の横には既にヘルムートが立っていた。
「おはよう、ヘルムート」
ローゼが声をかけると、渋い顔をしたヘルムートは無言で手を差し出す。彼は最近、ローゼの分も水汲みをしてくれることが多かった。
「いらない、自分でやるわ」
見ればヘルムートが持ってきた桶は既に水がいっぱいだ。
一体どのくらい前に来たのだろうと思いながらローゼが水桶を持つと、不機嫌そうな声がした。
「一度は侯爵閣下の屋敷に行くと決めたフェリシア様が、すぐ撤回なされたそうだな」
やはりこの話のせいかと思いつつ、ローゼは水を汲むのをやめてヘルムートに向き合う。
「そうよ。あたしが引き留めたもの」
「なんてことをするんだ」
ヘルムートは眉間の皺を深くした。
「フェリシア様は村から出して差し上げるべきだった。お前だって知ってるだろう? 神殿騎士たちがフェリシア様にどんな態度を取ってるのか」
「もちろん知ってるわ」
「だったらどうして」
赤みがかった金の髪を風に揺らすヘルムートは、非難がましい目でローゼを見る。
「ザレッタ様なんか、昨日は酷い荒れようだったんだぞ」
荒れるルシオの様子が想像できて、ローゼは小さく笑った。
「そうかもね」
「ローゼ」
「あんたもフェリシアにいなくなって欲しいの、ヘルムート?」
逆にローゼが問うと、神殿騎士見習いは答えに悩んだように見えた。
「……いなくなって欲しいとは思わない。ただ、この村にいることはフェリシア様にとって良くないだろう。ならば侯爵閣下の屋敷に行った方がいいと思っている」
答えを告げるヘルムートの表情はとても真摯だった。彼がフェリシアを案じているのだと分かって、ローゼは温かい気持ちになる。
「そっか、良かった。あんたがフェリシアを嫌ってるんじゃなくて」
言って水を汲み始めるローゼの背後からヘルムートの声が聞こえる。
「嫌っているはず……ないだろう」
彼の声に抑揚はなかったが、何らかの感情が乗っていた気がする。しかし小さめな声は水音のせいで聞き取りにくく、どんな感情かまでは良く分からなかった。
「それよりもローゼとフェリシア様のことだ。本当にどうするつもりなんだよ」
ローゼの横に来たヘルムートが水桶を奪って井戸の縁に乗せる。
水桶から手を放さない様子から察するに、片手間では話をして欲しくないのだろう。
仕方ないなと思いながら大きく息を吐き、ローゼは琥珀色の瞳を見上げた。
「あんたはどこまで話を聞いてるの?」
「侯爵閣下の屋敷へ行くはずだったフェリシア様が断りを入れ、その返事を持って騎士殿が帰還したことは聞いた。あとはお前たちが10日以内に引き上げる予定だからそれまでは我慢してくれと、村の正神官殿から言われたな」
「その通りよ。あたしとフェリシアは10日の内に帰るつもり」
【成功しても失敗してもな】
余計な茶々が入るが、もちろん聞こえているのはローゼだけだ。
難しい顔をしたヘルムートは、左の指で桶を神経質に叩く。
「10日以内に引き上げるなら、昨日去っても良かったじゃないか」
「それはできないわ。あたしにだって考えてることがあるの。それに、来るまで3日かかるらしいし」
伝言を頼んだ際に正神官には口止めをしておいたので、ヘルムートはこの話を知らないはずだった。事実、彼は怪訝そうにローゼへ問いかけてくる。
「来る? 誰が?」
「呼んだ人が、よ」
「……俺は真面目な話をしてるんだ」
「あたしだって真面目な話をしてるのよ。そもそもあたしが呼んだ人なんだから、あんたたちには関係ないでしょ」
言い切ったローゼが腕を腰に当てると、手首の腕飾りがしゃららと涼やかな音をたてる。
ヘルムートは下へと顔を向け、少し間をおいてから口を開いた。
「……来るのは迎えか?」
「は?」
首をかしげたローゼはヘルムートの視線を追い、ああ、と呟いて左腕を胸元へ上げる。朝日を受けた銀鎖が精霊とよく似た色に輝いた。
「……違うわ。これをくれた人はうちの村にいるもの」
この時間だと神殿はもう開いている。訪れる村人に穏やかな笑みを浮かべて挨拶をする神官を思い出し、ローゼは表情を緩めた。
「へえ、村人がそれを。じゃあずいぶんと無理したんだろうな」
しかし聞こえた皮肉まじりの声に、ローゼはすぐ顔をしかめる。
「どういうこと?」
「言った通りだよ。村の男程度がそんな高価そうなものを買うんだ、ローゼの気を引きたくて必死だったんだろうと思ってさ」
ヘルムートはせせら笑う。
「まあでも、その男の作戦は成功してるみたいだな」
「はぁ?」
「今の顔はどう見ても、恋する乙女って感じだったからな。……こんな腕飾りひとつで聖剣の主を買えるんだ、その男も奮発した甲斐があったろうよ」
聖剣の主が神殿からもらえる月々の支給金はかなり高い。ヘルムートが言っているのはそのことだと気づき、ローゼはカッとする。
「あの人にはそんなつもりなんてない! 勝手なこと言わないで!」
本来ならアーヴィンは公爵家の一員だ。彼の祖父である前公爵ラディエイルならいざ知らず、現公爵フロランはエリオットを冷遇するつもりがないように見えた。
もしアーヴィンがエリオットとして城へ残っていたのなら、彼はローゼの支給金など比べ物にならないほどの莫大な金額を手にすることができたのだ。
そんなことを知らないヘルムートは、ローゼの抗議を聞いて馬鹿にしたように右手を振る。
「そうか、そうか、悪かった。……じゃあそいつは、ローゼの何が良かったんだろうな」
「え?」
「金じゃないんだろ? だけどローゼ自身が好きなんだと言っても、一緒にいられる時間はほとんどない。だったら金以外の得ってなんだ?」
ニヤニヤとするヘルムートは、どうやらローゼに「相手は金目当て」と認めさせたいようだ。腕飾りをくれたのが単なる村人だと信じているせいだろう。
しかしヘルムートの言葉は、彼の意図と違うところでローゼの心を深くえぐった。
(……得……? アーヴィンに……?)
「……な、何言ってるの。得とかそういうので、人との繋がりは、作るわけじゃ……」
「そうか? 人なんて、お互い利点があるから一緒にいるもんだろ?」
「違うわ……」
ローゼの言葉が弱くなるのに合わせ、ヘルムートの口調は強くなる。
「そいつにとっての利点がなきゃ、ローゼなんて厄介な相手を選ぶはずがないだろ? それともその男は、離れてたまにしか会えない女ってやつを望んでたのか?」
ずっと悩んでいたことを他人に突かれてローゼは狼狽える。
望んでるはずなどない。アーヴィンが真に望んでいるのは、いつも近くにいてくれる相手なのだ。
それでもなんとか反論しようと、ローゼは口を開く。
「……で、でも。アーヴィンは」
「アーヴィン?」
ヘルムートは左手を桶に置いたまま、右手を顎に当てる。
「もしかしてアーヴィン・レスターか? グラス村神官の」
ローゼは何も言わなかったが、沈黙が答えになったのだろう。
「……そうか、なるほど……」
深く息を吐いたヘルムートは、納得したようにうなずいた。
新たな聖剣の主とグラス村神官に関しての噂が大神殿内にあることはローゼも知っている。不本意ではあるが、今までのことを考えれば仕方がなかった。
水桶から手を外したヘルムートは意味深な笑みを浮かべる。
「……おっと、そろそろ時間だ。余計なこと言って悪かったな。じゃあ」
自身が持ってきた桶を取ってヘルムートは立ち去る。残されたローゼはうつむき、袖から零れた銀の腕飾りを暗い気持ちで見つめていた。
(……他の人からも、あたしにしか得がないように見えるんだ。確かにこの状況はアーヴィンにとっていいことが何もないもんね)
やがて銀の輝きが滲む。同時に気遣うような声がした。
【気にするな、ローゼ。あいつはすべてを分かった上で西へ来てるんだ】
「……うん……」
レオンに返事をしたローゼは潤む瞳をごしごしとこすり、水桶を井戸の中へ入れる。
(アーヴィン……出かける前は待つって言ってくれたけど、実際に離れて過ごしてみて、どう思ったかな……)
のろのろと水を汲みながらローゼは唇を噛む。
(本当は、誰かと離れて暮らすことを望まない人だし……)
いつもよりも大きな不安を感じているローゼの視界は、再びじわりと滲んできた。
* * *
次の日、ローゼは水汲みの時間をかなり遅らせた。
ヘルムートに朝の井戸で会わないというのは、エンフェスに来てから初めてだった。
また、この日は瘴穴が2つ見つかる。特に朝見つけた瘴穴はかなり大きかった。
周囲に魔物はいなかったので村へ戻って正神官に報告すると、どうやら魔物は別の場所にいたらしい。すでに神殿騎士たちが倒していたようだ。
フェリシアを伴って村の外へ出たことを聞いたのだろう。後ほどすれ違ったとき、ローゼはルシオにものすごい形相で睨まれた。
待っていた人物が来たとの連絡があったのはそんな日の夕方だ。
気を利かせたらしく「夕食を作って待っていますわね」と言ってくれたフェリシアを残し、ローゼは神殿へ向かう。
【3日かかると聞いたのに、思ったより早かったな】
レオンの声にうなずいたローゼが応接室へ入ると、真っ先に聞こえたのは少年の声だった。
「わあ、本当にローゼだ!」
嬉しそうに叫んだ鎧姿の少年は顔を輝かせて入り口まで来ると、しまったと言いたげな様子で頭を下げる。
「こんにちは、聖剣の主ローゼ・ファラー様」
「ご丁寧にありがとうございます、ラザレス・ブレインフォード様。……って、今更取り繕っても遅いんじゃない?」
「やっぱり?」
朗らかに笑うラザレスに笑みを向けた後、ローゼは室内に歩を進める。
長椅子にいる人物こそ、ローゼの待っていた相手だ。
「お越しいただきましてありがとうございます」
「構いませんよ。……お座りなさい。話を伺いましょう」
頭を下げるローゼに、ブレインフォード家当主のマティアスは声をかける。
促され、ローゼは彼の正面にある椅子へ腰をおろした。
だがどう考えても、また妙なことになってしまいそうだ。
しばらくの間悩んだローゼは、結局畑を背にして歩き出した。
「……薬草を世話してるパウラはもちろん香りを嗅いでも平気よね。フェリシアもあの薬草を持ったって何の変化もなかった。なのになんであたしだけ」
文句を言うローゼはちらりと視線を聖剣に投げる。
「……レオンのせいでしょ」
【せいとか言うな】
「やっぱりそうなのね。なのに当のレオンは平気なんだからズルい」
恨みがましい声を聞いたレオンは自慢げに笑う。
【聖剣だからな】
ローゼが妙なことになるのは、レオンから分け与えられた精霊の力が関係しているのだろう。事実、レオンは否定をしない。
「レオンはいい匂いって思わないの?」
【思わないな。香りが強すぎるから臭くてたまらん】
「そうなの? うーん、なんであたしはいい匂いだって思うんだろう」
【元は人が好む香りを放つ薬草だし、そもそもお前の精霊の力は弱すぎる。好ましい気持ちの方が勝るんだろう】
そういうものかな、と思いつつ小さくため息をつき、ローゼは再び口を開いた。
「……ねえ、レオン」
【なんだ?】
傾きつつある陽の下、石畳に長く伸びる影を見つめてローゼは歩く。
「精霊って、何?」
北にいる時からローゼは不思議だった。
精霊という、瘴気や瘴穴が見え、魔物と戦ってくれる存在。
『ほかのばしょでは、もうだれも、せいれいを信じていません。だれにも知られず、まものとたたかい、消えていくのです』
北方の老術士ジュストがくれた絵本の中にはそんな一文もあった。
「精霊は何のためにいるの?」
周囲には靴音だけが響く。
おそらく何の答えもないだろうと思っていたので、ローゼは彼が無言でも気にするつもりがなかった。
だからこそ、しばらく歩いた後にごく小さな声がしたとき、ローゼは本当に驚いた。
【すまん】
どうして謝っているのだろうとローゼは思う。
しかしレオンの声は泣きそうだったので、あえて聞こえないふりをすることにした。
* * *
翌朝、桶を持ったローゼはいつもより少し早めに家を出る。
予想通り井戸の横には既にヘルムートが立っていた。
「おはよう、ヘルムート」
ローゼが声をかけると、渋い顔をしたヘルムートは無言で手を差し出す。彼は最近、ローゼの分も水汲みをしてくれることが多かった。
「いらない、自分でやるわ」
見ればヘルムートが持ってきた桶は既に水がいっぱいだ。
一体どのくらい前に来たのだろうと思いながらローゼが水桶を持つと、不機嫌そうな声がした。
「一度は侯爵閣下の屋敷に行くと決めたフェリシア様が、すぐ撤回なされたそうだな」
やはりこの話のせいかと思いつつ、ローゼは水を汲むのをやめてヘルムートに向き合う。
「そうよ。あたしが引き留めたもの」
「なんてことをするんだ」
ヘルムートは眉間の皺を深くした。
「フェリシア様は村から出して差し上げるべきだった。お前だって知ってるだろう? 神殿騎士たちがフェリシア様にどんな態度を取ってるのか」
「もちろん知ってるわ」
「だったらどうして」
赤みがかった金の髪を風に揺らすヘルムートは、非難がましい目でローゼを見る。
「ザレッタ様なんか、昨日は酷い荒れようだったんだぞ」
荒れるルシオの様子が想像できて、ローゼは小さく笑った。
「そうかもね」
「ローゼ」
「あんたもフェリシアにいなくなって欲しいの、ヘルムート?」
逆にローゼが問うと、神殿騎士見習いは答えに悩んだように見えた。
「……いなくなって欲しいとは思わない。ただ、この村にいることはフェリシア様にとって良くないだろう。ならば侯爵閣下の屋敷に行った方がいいと思っている」
答えを告げるヘルムートの表情はとても真摯だった。彼がフェリシアを案じているのだと分かって、ローゼは温かい気持ちになる。
「そっか、良かった。あんたがフェリシアを嫌ってるんじゃなくて」
言って水を汲み始めるローゼの背後からヘルムートの声が聞こえる。
「嫌っているはず……ないだろう」
彼の声に抑揚はなかったが、何らかの感情が乗っていた気がする。しかし小さめな声は水音のせいで聞き取りにくく、どんな感情かまでは良く分からなかった。
「それよりもローゼとフェリシア様のことだ。本当にどうするつもりなんだよ」
ローゼの横に来たヘルムートが水桶を奪って井戸の縁に乗せる。
水桶から手を放さない様子から察するに、片手間では話をして欲しくないのだろう。
仕方ないなと思いながら大きく息を吐き、ローゼは琥珀色の瞳を見上げた。
「あんたはどこまで話を聞いてるの?」
「侯爵閣下の屋敷へ行くはずだったフェリシア様が断りを入れ、その返事を持って騎士殿が帰還したことは聞いた。あとはお前たちが10日以内に引き上げる予定だからそれまでは我慢してくれと、村の正神官殿から言われたな」
「その通りよ。あたしとフェリシアは10日の内に帰るつもり」
【成功しても失敗してもな】
余計な茶々が入るが、もちろん聞こえているのはローゼだけだ。
難しい顔をしたヘルムートは、左の指で桶を神経質に叩く。
「10日以内に引き上げるなら、昨日去っても良かったじゃないか」
「それはできないわ。あたしにだって考えてることがあるの。それに、来るまで3日かかるらしいし」
伝言を頼んだ際に正神官には口止めをしておいたので、ヘルムートはこの話を知らないはずだった。事実、彼は怪訝そうにローゼへ問いかけてくる。
「来る? 誰が?」
「呼んだ人が、よ」
「……俺は真面目な話をしてるんだ」
「あたしだって真面目な話をしてるのよ。そもそもあたしが呼んだ人なんだから、あんたたちには関係ないでしょ」
言い切ったローゼが腕を腰に当てると、手首の腕飾りがしゃららと涼やかな音をたてる。
ヘルムートは下へと顔を向け、少し間をおいてから口を開いた。
「……来るのは迎えか?」
「は?」
首をかしげたローゼはヘルムートの視線を追い、ああ、と呟いて左腕を胸元へ上げる。朝日を受けた銀鎖が精霊とよく似た色に輝いた。
「……違うわ。これをくれた人はうちの村にいるもの」
この時間だと神殿はもう開いている。訪れる村人に穏やかな笑みを浮かべて挨拶をする神官を思い出し、ローゼは表情を緩めた。
「へえ、村人がそれを。じゃあずいぶんと無理したんだろうな」
しかし聞こえた皮肉まじりの声に、ローゼはすぐ顔をしかめる。
「どういうこと?」
「言った通りだよ。村の男程度がそんな高価そうなものを買うんだ、ローゼの気を引きたくて必死だったんだろうと思ってさ」
ヘルムートはせせら笑う。
「まあでも、その男の作戦は成功してるみたいだな」
「はぁ?」
「今の顔はどう見ても、恋する乙女って感じだったからな。……こんな腕飾りひとつで聖剣の主を買えるんだ、その男も奮発した甲斐があったろうよ」
聖剣の主が神殿からもらえる月々の支給金はかなり高い。ヘルムートが言っているのはそのことだと気づき、ローゼはカッとする。
「あの人にはそんなつもりなんてない! 勝手なこと言わないで!」
本来ならアーヴィンは公爵家の一員だ。彼の祖父である前公爵ラディエイルならいざ知らず、現公爵フロランはエリオットを冷遇するつもりがないように見えた。
もしアーヴィンがエリオットとして城へ残っていたのなら、彼はローゼの支給金など比べ物にならないほどの莫大な金額を手にすることができたのだ。
そんなことを知らないヘルムートは、ローゼの抗議を聞いて馬鹿にしたように右手を振る。
「そうか、そうか、悪かった。……じゃあそいつは、ローゼの何が良かったんだろうな」
「え?」
「金じゃないんだろ? だけどローゼ自身が好きなんだと言っても、一緒にいられる時間はほとんどない。だったら金以外の得ってなんだ?」
ニヤニヤとするヘルムートは、どうやらローゼに「相手は金目当て」と認めさせたいようだ。腕飾りをくれたのが単なる村人だと信じているせいだろう。
しかしヘルムートの言葉は、彼の意図と違うところでローゼの心を深くえぐった。
(……得……? アーヴィンに……?)
「……な、何言ってるの。得とかそういうので、人との繋がりは、作るわけじゃ……」
「そうか? 人なんて、お互い利点があるから一緒にいるもんだろ?」
「違うわ……」
ローゼの言葉が弱くなるのに合わせ、ヘルムートの口調は強くなる。
「そいつにとっての利点がなきゃ、ローゼなんて厄介な相手を選ぶはずがないだろ? それともその男は、離れてたまにしか会えない女ってやつを望んでたのか?」
ずっと悩んでいたことを他人に突かれてローゼは狼狽える。
望んでるはずなどない。アーヴィンが真に望んでいるのは、いつも近くにいてくれる相手なのだ。
それでもなんとか反論しようと、ローゼは口を開く。
「……で、でも。アーヴィンは」
「アーヴィン?」
ヘルムートは左手を桶に置いたまま、右手を顎に当てる。
「もしかしてアーヴィン・レスターか? グラス村神官の」
ローゼは何も言わなかったが、沈黙が答えになったのだろう。
「……そうか、なるほど……」
深く息を吐いたヘルムートは、納得したようにうなずいた。
新たな聖剣の主とグラス村神官に関しての噂が大神殿内にあることはローゼも知っている。不本意ではあるが、今までのことを考えれば仕方がなかった。
水桶から手を外したヘルムートは意味深な笑みを浮かべる。
「……おっと、そろそろ時間だ。余計なこと言って悪かったな。じゃあ」
自身が持ってきた桶を取ってヘルムートは立ち去る。残されたローゼはうつむき、袖から零れた銀の腕飾りを暗い気持ちで見つめていた。
(……他の人からも、あたしにしか得がないように見えるんだ。確かにこの状況はアーヴィンにとっていいことが何もないもんね)
やがて銀の輝きが滲む。同時に気遣うような声がした。
【気にするな、ローゼ。あいつはすべてを分かった上で西へ来てるんだ】
「……うん……」
レオンに返事をしたローゼは潤む瞳をごしごしとこすり、水桶を井戸の中へ入れる。
(アーヴィン……出かける前は待つって言ってくれたけど、実際に離れて過ごしてみて、どう思ったかな……)
のろのろと水を汲みながらローゼは唇を噛む。
(本当は、誰かと離れて暮らすことを望まない人だし……)
いつもよりも大きな不安を感じているローゼの視界は、再びじわりと滲んできた。
* * *
次の日、ローゼは水汲みの時間をかなり遅らせた。
ヘルムートに朝の井戸で会わないというのは、エンフェスに来てから初めてだった。
また、この日は瘴穴が2つ見つかる。特に朝見つけた瘴穴はかなり大きかった。
周囲に魔物はいなかったので村へ戻って正神官に報告すると、どうやら魔物は別の場所にいたらしい。すでに神殿騎士たちが倒していたようだ。
フェリシアを伴って村の外へ出たことを聞いたのだろう。後ほどすれ違ったとき、ローゼはルシオにものすごい形相で睨まれた。
待っていた人物が来たとの連絡があったのはそんな日の夕方だ。
気を利かせたらしく「夕食を作って待っていますわね」と言ってくれたフェリシアを残し、ローゼは神殿へ向かう。
【3日かかると聞いたのに、思ったより早かったな】
レオンの声にうなずいたローゼが応接室へ入ると、真っ先に聞こえたのは少年の声だった。
「わあ、本当にローゼだ!」
嬉しそうに叫んだ鎧姿の少年は顔を輝かせて入り口まで来ると、しまったと言いたげな様子で頭を下げる。
「こんにちは、聖剣の主ローゼ・ファラー様」
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「やっぱり?」
朗らかに笑うラザレスに笑みを向けた後、ローゼは室内に歩を進める。
長椅子にいる人物こそ、ローゼの待っていた相手だ。
「お越しいただきましてありがとうございます」
「構いませんよ。……お座りなさい。話を伺いましょう」
頭を下げるローゼに、ブレインフォード家当主のマティアスは声をかける。
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水谷繭
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◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
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