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第3章(後)

42.古の大精霊

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 ローゼが……ローゼの体を借りた銀狼が聖剣の刃を大精霊の木に刺すと、まずはレオンが悲鳴を上げた。

【狼! もっと力を寄越せ!】

 次いで銀狼が叫ぶ

「これ以上は無理だ! お前の力を使え!」
【とっくに使ってる!】

 木からの抵抗はすさまじかった。
 まだ消えたくない、と古の大精霊は叫んでいる。

 銀狼の力を注ごうにも、木からの抵抗が強すぎて注ぎ込むことができない。
 聖剣を抜いてしまおうにも、抜くことができない。大精霊が逃亡を許さないのだ。

 どうやら大精霊の思念は、自分を消滅させようとするレオンたちを敵だと見なし、二度と邪魔できないよう完全に叩き潰すつもりでいるようだった。

 早く木を銀狼の支配下に置かなくてはいけないのに、この段階でも圧倒的に大精霊の方が強く、銀狼の力はじりじりと押し負けつつある。
 ローゼに大精霊の力が流れ込んでしまえば、力に耐え切れず体が壊れてしまうだろう。そうでなくとも、神降ろしが長引いてしまえばローゼの体力が尽きて死に至る。

 焦燥と絶望から、レオンが魂の底から絞り出すような絶叫をあげた。

 一方のローゼは、動かない体の中で苛立ちを覚える。

 レオンも銀狼も必死だというのに、自分だけが何もできない。ただ体を提供しているのみだ。

 何かできることはないだろうかと思いを巡らせるうち、大精霊の思念を覗いてみるのはどうだろうかと考えつく。
 現在の大精霊は同じ精霊である銀狼とレオンに注意を払っているが、人であるローゼのことは気に留めていないようだ。もし思念を覗いて大精霊の気持ちが分かれば、何らかの糸口になるかもしれない。

 先ほどは銀狼を通じ、肉体が触れた場所から大精霊の意思を見ることができた。
 今回は握っている聖剣が、自分と木の橋渡しをしてくれるだろう。

 試しに、少しだけ意識を伸ばしてみる。
 暗い思念は感じたが、ほんの表層部分でしかないようだ。

 もう少し深くみてみようと考え、意識を体から聖剣、更に木の近くへと移動させてみるが、まだ良く分からない。彼女の意思を探るには、もっと奥へ行く必要がありそうだ。
 ローゼの意図に気付いたレオンが何事か言った気もする。しかしローゼは彼の言葉を問い返すこともなく、するりと木の中へ入り込んだ。


   *   *   *


 木の中でローゼが見たのは、一片の光も見えない真っ暗な空間だった。その中に残された大精霊の思念は、ただひたすらに絶望している。
 歪んだ生き方をしなくてはいけなかった子のことを心配し、大事な子をなくしたことを嘆き、無用な争いを生んだことを悲しみ、うまく立ち回れなかったことを悔いていた。

 古の大精霊はもういない。ここに残されたものはただの感情、過去の残像でしかないはずなのに、確かに何らかの意思を持っている。これも古の大精霊と呼ばれた、数千年の精霊が持つ絶大な力の一端なのだろうか。

 いずれにせよ、闇色のどろどろとした形をとった大精霊の思念は内にのみ意識を向け、ローゼが呼びかけても答える気配はなかった。

(あたしたちに任せてくれれば木は残せる。大精霊の暗い気持ちだって全てではないけど解消されるのに……。どうすればいい? どうしたら抵抗をやめてくれるの?)

 とにかく大精霊に気付いてもらおうと、ローゼはそっと左手を伸ばす。すると闇色に触れる直前、どこかで聞いた覚えのあるキィィンという甲高い音が響いた。

 音を聞いた闇色の形が振り返り、ローゼのことを認識する。これはなんだ、とばかりに大精霊の念がローゼの方へ向かってきた。肉体がないのだから、感触などあるはずがない。しかしローゼは、自分の体をねっとりとしたものがはい回るような感じを覚え、思わず顔をしかめた。

 やがて自分の近くにいるものが人であることを理解した大精霊は、可哀想に、という意思と共にローゼを包みこむ。
 古の大精霊にとって人というものは、敵意を向けるものではなく、慈しみ守る弱いものという認識であるようだ。事実、ローゼをくるむ感触は優しかった。

 しかし向けられる感情はすべて暗い。悲しいでしょう、悔しいでしょう、つらいでしょう、と周囲から囁かれている気がする。
 どうやら大精霊の暗い思念は、ローゼが北へ来る間に受けた暗い気持ちの記憶に共鳴しているようだった。

 大精霊に包まれたローゼはうなずく。

 悲しかった。悔しかった。つらかった。
 大精霊のように年数を重ねているわけでも、深いわけでもないが、それでも自分の中は何度も真っ暗になってしまいそうだった。

 そうでしょう、可哀想に、と囁く大精霊に、ローゼは笑いかけた。

(でもね、あたしはもう平気なの)

 助けてくれた存在。
 そして、朝日の差す庭で抱きしめてくれた腕を思い出す。

 今のローゼは肉体が無いから、記憶も感情もむき出しのままだ。
 その分、思いはすべてまっすぐに伝わった。

 ローゼから受け取ったものを記憶と照らし合わせた大精霊は困惑したようだ。こごった思念はローゼに語り掛ける。

 自分の知っている子がいる。しかし自分の知っている子とは印象が違う。自分の知っている子の中にあったのは、悲しみと悔しさとつらさばかりだったはずだ、と。

 迷う彼女からはわずかに敵意が薄れる。
 レオンと銀狼への力が少しだけゆるまったのをローゼは感じた。

 このまま説得を続けてみよう、とローゼが重ねて何か伝えようとしたとき、今は離れている体に、あたたかい何かが触れたように思う。

 このぬくもりは知っている、とローゼは嬉しくて微笑んだ。

(今日は2回も会えたわ)

 一方で、ローゼの感情を受けた大精霊はさらに戸惑っている。

 やはり自分の知っている子だ。しかし、あの子はこんな気配をしていなかった。もっと悲しかった、悔しかった、つらかった、と彼女は告げている。

 ローゼは黙って大精霊の思念と向き合った。

 やがて彼女は理解をしたらしい。
 真っ暗でしかなかった彼女の心の中に、ほんのわずかに明かりがさした。

 もちろん古の大精霊が抱く絶望は深い。そんなことで消えたりはしない。
 しかし彼女の懸念のひとつが安堵に変わったことだけは間違いなかった。

 ああ、と大精霊は身の内に灯った小さな光を見る。
 今までの絶望とは確実に違う声で、彼女は呟いた。

『あの子は幸せを見つけられたのですね』

 やがて一点の光は震えたかと思うと、基点となって亀裂が入る。
 次の瞬間破裂し、銀色の狼が現れて駆け巡る。彼が通った場所からは闇が消え、銀の光で道ができた。

 続いて、聞きなれた声が響く。

【ローゼ! 戻れ!】

 見れば、精悍な顔立ちの男性が手を差し伸べていた。

 がっしりとした体躯は、さすがに旅をしながら魔物を倒し続けただけある。
 ややクセのある茶色の髪は後ろで結ばれており、釣り気味の水色の瞳からはどこかきつい印象も受けた。

 へえ、と思いながらローゼは手をつかむ。

「レオンって人相悪いのね」
【うるさい。置いて行くぞ】

 笑いながら振り向くと、ねばつく闇の姿でしかなかった大精霊は人の形をしていた。銀狼の力を受けたためだろうか、それともただの照り返しのせいか。いずれにせよ彼女の姿は銀色に見える。

 ローゼが去る直前、もう一度彼女の声が聞こえた。

『どうかあとをお願いします』

 任せろ、と銀狼とレオンが請け合った。
 

   *   *   *


 周囲が眩しくてローゼは思わず目を細める。足に力が入らず倒れそうになるが、背中に回されていた手が支えてくれた。

【聖剣から手を離すなよ】

 レオンに言われて確認してみれば、銀狼は両手で聖剣を刺したはずなのに、今は右手でしか聖剣を握っていない。
 今しがた倒れそうになった時、左手は離してしまったのかもしれなかった。

【銀狼が木に力を満たすまでもう少しだ。頑張れ】

 ローゼは力の入らない足で地面を踏みしめ、わずかにうなずいて木を見上げた。

 先ほどまで触れあっていた大精霊はもうすぐ消えてしまう。

 木の枝には、たくさんの精霊たちがとまっている。
 大精霊が完全にいなくなることを察しているのだろう、いつも跳ね回っている彼らが枝にとまって震えている姿は、まるで泣いているようだった。

 確かに本来の彼女はとうに消えている。とはいえ最後に残された力は、ゆっくり惜しまれながら、自然に任せて消滅しても良かったのではないだろうか。

 申し訳なさを抱えながら見上げていると、ローゼの気持ちを察したらしいレオンが穏やかな口ぶりで言う。

【大精霊は俺たちに託してくれた。自分はもう消えてもいいと言ってくれたんだ】
「……うん」

 感謝の念とともに流れる涙を感じ、ローゼはゆっくりと瞬きした。視線を正面の木から左側に移すと、同じように木を見上げていた青年が、ローゼが動く気配を感じて目を合わせてくれる。

 大精霊は、彼のことも案じていた。

「……何か言ってあげて」

 ローゼが言うと彼はうなずく。灰青の瞳を木に移し、揺れる木の葉を眺めた。
 やがて息を吸うと、朗々たる声で吟じ始める。

 彼の声を聞き、ああ、とローゼはため息まじりに呟いた。

 彼がうたっている詩は、今までいてくれたことに感謝をし、去り行くことの寂しさを伝え、残されたものが前をむくことを約束するもの。

 ローゼもよく知っている。これは、死者を弔う際に神官がうたう聖詩だった。

 なぜ彼がこれをうたおうと思ったのかは分からない。しかし西で育ったローゼには、今の気分にとても合っているように思えた。

 黙って彼の声に耳を傾けていると、やがて聖剣からずしりと重い気配が伝わる。かすかに『終わったぞ』という銀狼の声が聞こえた。

 レオンから許可が出たのでローゼは聖剣を抜いた。

 同時に気が抜けて体が崩れ落ちそうになるが、支え続けてくれた腕が抱き留め、ゆっくり地面に座らせてくれる。

 様々な感情とともにうつむいていると、感極まったような彼の声が聞こえた。

「ローゼ、空を見てごらん」

 のろのろと顔を上げたローゼは、目に映る光景が信じられず、重く感じる腕を上げて目をこする。それでも変わらない景色が、これは本当に見えていると告げていた。

 空には、うすい幕が一面に広がっている。
 色は銀だ。

 きらきらと輝く銀の幕は、時には薄い色に、時には濃い色に、時には空の青を透かして青銀の色に、そして日の光をあびて金色にも見えながら揺らめいていた。

 座った彼が抱き寄せてくれたので、ローゼは力を抜き、彼の胸に背をもたせかける。
 空を見渡し、ああ、と胸の内で呟いた。

 ――なんと幻想的な光景なのだろう。

 銀の幕はしばらく空で揺らめいていたが、大きく一度波打つと細かい銀の粉になり、さらさらと地上におちてきた。

 白い雪よりも、さらに輝く銀の粉だ。

 光を受けながら銀が降り注ぐさまは、まるで神の世界の光景を見ているようだった。
 美しい銀色は積もることなく、建物に、木に、地面に、人に触れるとあっという間に溶けてしまう。

 その麗しく儚い光景に、ローゼは胸が熱くなる。

 きっとこれは、大精霊の最後の思念が残したものに違いない。
 しかし今見ているものの中に、ローゼが木の中で感じた暗さは全くなかった。

 空にあった銀色はすべて降り注ぐと、普段と変わらない景色に戻る。
 確実に起きたはずのことなのに、見える範囲では何も残っていない。

 野原にいる人々は皆、呆然としている。今しがた起きたことが果たして現実なのか、判断がつかないのかもしれない。

 ローゼも、見ていたものが夢でも幻でもなかったことを確認したくて、彼を見つめて囁いた。

「……綺麗だったね」

 潤んだ灰青の瞳を空からローゼへ向けた彼は、褐色の髪を風に揺らしながら微笑む。

「そうだね」

 返事を聞いたローゼは安堵の笑みを浮かべ、もう一度空へ視線を移す。

 銀色はもうどこにも見えないが、心には確実に残ったものがある。ため息をついてローゼは目を閉じた。

 ――今の光景は、きっと一生忘れない。
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