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第3章(後)

余話:エリオット 7

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 豪奢な寝台に座り、暗い部屋の中でエリオットは外の音をじっと聞いていた。


   *   *   *


 グラス村にいた6年というもの、北へ帰ろうという気にならなかったわけではない。しかし、村でしなくてはいけないこと、そして村の人たちのことを考えれば帰りたい気持ちはたやすく治まってくれた。

 結果的に帰ることになったきっかけは、ローゼが聖剣の主に選ばれたと大神殿から連絡が来たことだった。

 鳥文を読んだ時エリオットは、ローゼの顔を思い浮かべて小さく笑う。きっと彼女は聖剣を受け取るだろう。

 しかしすぐ、この件を受け持つのがアレン大神官だと知って眉をひそめた。

 ――アレン大神官はローゼに旅用の品を準備するのだろうか?

 自分にとってどうでも良い人物に対してはぞんざいな扱いをすると、彼は大神殿でも有名だ。平民であるローゼには安価な品どころか、最悪何の用意もしないのではないかという気がした。

 そこでエリオットは、アレン大神官を最初から当てにせず、代わりに自分ができる範囲で最大限良いものを準備しようと決める。
 もちろんこれは自分が担当している村人に対する好意であって、それ以上の感情は何ひとつない。

 そのように言い聞かせながら各種の手配をする中で、馬をどうしようかと思った際、エリオットの頭にひとつの考えがよぎる。

 ――北方は良馬の産地だ。公爵家に頼めば、ローゼに良い馬を用意できる。

 それは本当にローゼのためだったのか、あるいは戻らなくてはいけないという気持ちがさせたのかはもう分からない。
 ただ分かっているのは、エリオットがリュシーに宛てて約6年ぶりに手紙を書いたということだ。

 ぎりぎりまで連絡はなかったが、ようやくハイドルフ大神官から「馬が届いた」という連絡が来た。
 混雑しそうなグラス村を避けて近くの町の神殿へ送ってもらい、ローゼが出発するだろうと思うころに馬を取りに行く。そして。

「いやあ、珍しいたてがみですね。こんな馬は初めて見ました」

 中年の男性神官がにこにこしながら連れてきた馬を見て、エリオットは愕然とした。 

「……茜馬あかねうま……」

 届いていたのは夕焼け色のたてがみをした馬、北方以外には絶対出さないと言われている名馬中の名馬だった。

 シャルトス公爵領以外にいる茜馬は、この一頭だけに違いない。

 もし今後シャルトス家がエリオットを探したければ、まず茜馬を探し、その持ち主や人間関係を洗い出せば良いことになる。

 おそらく祖父は、いずれエリオットがリュシーと連絡を取るとふんで、ずっと彼女の身辺を見張っていたのだろう。ということは、今回の手紙はリュシーの元へ届いていない。手紙を受け取ったのは、姉ではなく、祖父だ。

 茜馬を見ながらエリオットは、祖父であるラディエイルの声が聞こえた気がした。

『遊びは終わりだ。早く戻れ』

 同時にエリオットは悟る。
 もうひとりの母と慕っていた古の大精霊はいなくなったのだ。


   *   *   *


 北の城へ戻ると、自分の想像よりも城は落ち着いている。もっと大きな騒ぎになっているのかと思っていたので、そこは意外だった。

 しかしエリオットが帰ったと知るや、フロランは怒気もあらわにやってきて、真っ赤な顔で詰め寄った。

「6年も気ままな田舎暮らしをしてたんだってね! 役目を無視して遊び惚ける日々はさぞ楽しかっただろうなぁ、兄上!」

 襟元を掴まれながら、すみません、と謝ると、フロランは拳を振り上げる。
 その様子を他人事のような気分でエリオットが見つめ続けていると、フロランは何かを堪えるかのような表情を見せた後に小さく息を吐き、のろのろと腕を下げた。

「……古の大精霊は兄上の話を一度もしなかったんだ。でも彼女がずっと兄上を心配していたということは、私にだって痛いくらい伝わってきたのに……」

 そのまま手を離し、フロランは顔を背ける。

「……私の兄がこんな情けない男だったなんて、失望したよ」

 吐き捨てるように呟き、彼はエリオットの前から立ち去った。

 代わりにリュシーが来る。

 青い顔をして胸元で手を握り合わせた姉は、別れの時と同じように、何度も口を開きかけては閉じ、震える声でようやく言葉を押し出した。

「どうして戻ってきてしまったの……」

 灰青の瞳に涙を浮かべたリュシーは、続けて述べる。

「この家の最後はあなたじゃなくていいのよ。その役目を果たすのは本来、ずっとここで――」
「姉上、どうかそれ以上は言わないでください」

 エリオットは姉に近づいて囁く。

「今までだって、隙も機会もなかったのでしょう? あの人に知られる前に、正妃様が使ったものは、早く処分なさってください」

 息をのむリュシーに微笑んで、エリオットは14年ぶりの祖父の部屋へ向かう。

 記憶にあるより年を取った姿ではあるものの、窓際に佇むラディエイルの眼光に全く変わりはない。しかしその表情から怒りは見えなかった。

「時間がない。急げ」

 祖父からどのような恐ろしい顔で叱責をもらうのかと思っていたエリオットは意外に思う。

「……それだけですか」
「何が言いたい。子どもの頃のように罰でも欲しいのか」

 公爵は道端の石でも見るかのような視線をエリオットに送る。

「お前が戻ってくることは分かっていた。なんのために統治者として学ばせ、役目の話を繰り返し聞かせていたと思う。性根の甘いお前が、この地を捨てられなくするためだ」

 ラディエイルの言葉を聞いたエリオットは歯噛みする。結局すべては、祖父の手の内だったということか。

「……そうだな、想定よりも少しばかり戻りが遅いし、茜馬を一頭外へ出すことになったが……大きな問題ではない」

 しかしその言葉を聞いた途端、エリオットは自分のことなど、どうでも良くなった。

「馬の持ち主には手を出さないでください」

 反射的に口にした孫の言葉を聞いて、祖父は嘲るように言う。

「馬を渡した相手は女か」

 エリオットが答えずにいると、ラディエイルは口の端をゆがめる。

「そんなところも父に似たのか。まったく、親子そろって愚かなものだ。……まあ、いい。では、私は何も手を出さないと約束しよう。これで良いか?」

「いいえ」

 エリオットは即座に答える。

「いいえ。公爵閣下だけでなく、周囲の者たちや、周囲の者が使う者、そのほか誰ひとりとして決して手を出さない、出させないとお約束ください」

「……なるほど、成長したようだ。18年前ならばこれで済んだものを。……良かろう。お前の命に免じて約束する」

 公爵の言葉の後に、側近が退出を告げる。礼を取り、黙って部屋から出たエリオットの姿を見て、近くで待機していたらしい使用人が近寄ってきた。

「公爵閣下より、今後お使いいただくお部屋へご案内するよう承っております」

 案内されて到着したのは、忘れもしない、父の部屋だった。


   *   *   *


 外で兵士が立ち去る音が聞こえ、エリオットはそっと寝台から立ち上がる。

 城へ戻ってきてからエリオットはおとなしくしていた。

 見張りの兵士たちも昼間はともかく、夜はエリオットも眠っているという考えがあるため、少しばかり気を抜いている。
 しかも現在は公爵がいない。ほんのわずかではあるが、規律はいつもより緩んでいた。

 確かに交代のための部屋は近い。目を離すのは少しの間なのだから、普通ならば何の問題もないだろう。

 しかし、今日は晴れていた。エリオットは小さな庭から、一体の精霊を連れて来ている。

 精霊に呼びかけて力を借りると、エリオットは扉の外へ出た。

 ごく簡単な術だ。影を濃くして少しばかり周囲から見にくくする程度、明るい光の下ではすぐに見つかってしまう。
 だが今は夜で、明かりがついているとはいえ城内は暗めだ。この程度の術でも周囲からは見つからなかった。

 なんだかわくわくするね、と話しかけてくる精霊に小さな声で言葉を返し、静かに廊下を進む。
 特に好奇心が旺盛な精霊は屋内をふらふらすることもあるが、本来精霊は自然の中にいるものだ。目的の部屋へつく前に窓を開け、礼を言って外に出す。ここからなら元いた庭までは近い。あの精霊はこの後、花の上へ行って眠るだろう。

 実はエリオットが小さな庭に出て精霊と語らうことを望んだのはフロランだ。

「兄上さー、昔あの場所の精霊たちと遊んでたんだって? 兄上が帰ってきたのを知ってから、外に出るたび彼らが私の周りで訴えるんだよ。あの子はいつ遊びに来るんだーってさ。まったく、うるさくて敵わない」

 うんざりした顔の弟が掛け合ってくれたおかげで、「晴れた日の朝だけは庭に行っても良い」と公爵から約束をもらったエリオットは、久しぶりに晴れたこの朝、護衛と言う名の見張りと共に庭へ向かう。

 エリオットの姿を見かけた精霊たちはいつものように寄ってきたのだが、中でも数体が「聞いて聞いて」と大変な興奮状態で話しかけてきた。

『さっきまでね、すごいの!』
『すごい精霊がいたの!』
『人と一緒にいたの! だから人と一緒にいなくなっちゃった!』
『強かったよね! 私たちよりずっと強かったよね!』
『でも精霊の言葉はあんまりうまくなかったね!』
『なかったなかった!』

 きゃらきゃらと笑う精霊たちの言葉を聞きながら、エリオットは数日前の光景を思い出す。

 ――では、姉と一緒に庭園にいた娘の赤い髪は、見間違いではなかった。

 深く息をして自分を落ち着かせ、強い精霊はどこへ行ったのか尋ねると、すぐ近くの建物に入ったと答えがあった。この庭から一番近い場所にあるのは、昔、エリオットの母であるシーラが使っていた小さな部屋だ。

 赤い髪の彼女は、そこにいるのだろうか。確かめに行きたい衝動をエリオットはなんとか抑える。この場には3名の兵士がいる。今は迂闊な行動ができない。

 そこで精霊たちに、誰か一緒に来て夜まで室内にいてくれないかと尋ねると、興味をひかれたらしい1体が名乗り出た。

 何食わぬ顔で兵士に部屋へ戻ることを告げ、精霊と共に城内へ戻り、いつも通りを装って夜を待つ。

 ……そして。

 質素な扉の前に立ったエリオットはそっと手をかけた。

 この扉は少し立てつけが悪い。うまい具合に揺らせば鍵が開くことを、小さいころに何度も来たことがあるエリオットは知っていた。

 なるべく静かに扉を揺らしているうちに、小さくカチリと音がする。扉を開こうとして……しかしそこで、エリオットはためらった。

 果たして今の自分を見た彼女はどんな顔で何と言うのだろうか。

 夢の中に出てくる赤い髪をした娘が浮かべているのは、いつも嫌悪の表情だ。そしてエリオットに向かい、怒りをあらわにしてこう言う。

「ずっとだましてたのね。嘘つきの――――なんて、大嫌い」

 もちろんこれは自分の中にある罪悪感が見せるものだと分かっている。
 しかし実際の彼女が同じ気持ちでいないと、どうして言えるだろうか。

 ため息をついたエリオットは自嘲の笑みを漏らす。

 ――ここまで来てまだ悩むのか。彼女に会いたかったのではないのか?

 顔を上げ、意を決したエリオットは、ゆっくり扉を開いた。
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