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第3章(後)
余話:エリオット 4
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エリオットは城を見上げる。
別れに際しての感傷はない。
かといって、清々するという思いもない。
あるとすれば、別の住まいへ移るという淡々とした気分だけだった。
結局あの日から一度も母に、そして産まれたという妹にも会うことはなく、10歳になったエリオットは王都の大神殿へ行く日を迎えている。見送りは、何年か世話をしてくれた侍女の内2人と、姉のリュシーだけだった。
最初は冷たい態度だった侍女の中で、この2人だけはエリオットに心を寄せてくれたのだ。ありがたく思いながらも、彼女たちが城内で孤立しなければ良いなと思いつつ別れの言葉を述べる。
次いで姉に向き直った。
城に来た頃から親しくしてくれたリュシーに、エリオットは心から感謝していた。何かを言わなくてはいけない、と思うのだが、何を言って良いのか分からない。
リュシーも同じ気持ちなのだろう。何か言いたげな様子で何度も口を開いては閉じ、結局
「……寂しくなるわ」
とだけ言って、父やエリオットと同じ、灰青の瞳に涙を浮かべる。
「僕もです。……姉上、どうかお元気で」
エリオットはリュシーに頭を下げると、決して豪華とは言えない馬車へ乗り込む。動き出してから振り向くと、泣いているリュシーを2人の侍女が慰めていた。その姿を目にしてエリオットも涙が出そうになったが、ぐっとこらえる。まだ自分には寄るところがあるのだ。
エリオットは最後に北方神殿へ向かう。出発する日は大精霊が起きている日にすると、ずっと前から決めていた。
「大精霊、お別れです」
もしかすると、会えるのはこれが最後になるかもしれない。
木を見上げたエリオットが幹に手を沿えて囁くと、大精霊は悲しそうに身を震わせた。
『エリオット、ごめんなさい。私は結局何もできませんでした』
彼女の声を耳にしたエリオットは切なく笑う。身を裂くような感情を乗せて言う謝罪の言葉を、エリオットは大精霊から何度も受けてきた。
「謝らないで下さいっていつも言ってるじゃないですか。あなたが謝ることなど、何もありません……それに、最後の時まで謝られるのは寂しいです」
目が覚めて、クロードが死んだことを知った大精霊の嘆きは、大層深かったと聞いた。愛する女王の血脈の者が惨い死に方をし、実行したものを罰するどころか許したのも同じ血脈の者だったのだから、当然かもれない。
エリオットは後に知ったのだが、公爵であるラディエイルと、その息子クロードの不仲は有名な話だった。
『……エリオット、最後にもう一度聞きます。私の息子になりませんか』
「なりません」
銀の花が揺れるのを見ながら、エリオットは何度目かの拒否をする。
「あなたの力は、この地のためのものです。僕に与えてはいけません。どうしてもと言うのなら、フロランにお願いします。公爵家で術が使えるのは、僕がいなくなったらフロランだけになりますから」
古の大精霊がラディエイルへの罰として、今後は彼の言葉を一切聞かぬよう精霊たちへ命じていたのをエリオットは知っていた。
精霊術とは結局、人が精霊に頼んで力を貸してもらって行うもの。精霊が耳を貸してくれないのであれば、どんなに人が呼びかけても術は使えないのだ。
『エリオット……』
大精霊は何かを言いかけ、そしてやめる。
『……私のことは気にしないで、あなたはあなたの道を進んで下さい。どうか幸せを見つけることができますように』
彼女の言葉になんと答えて良いか分からず、エリオットは額を幹に当てる。
「……話ができて、とても楽しかったです。今までありがとうございました」
少しの間そのまま黙って目をつぶっていたエリオットは、大精霊に背を向けると、振り返ることなく馬車に乗り込んだ。
* * *
王都に到着したエリオットは、あまりの大きさに圧倒された。
話には聞いていたものの、まさか本当にイリオスより大きな都市があるとは思ってもみなかった。
そして認めたくはないが、確かに大神殿は大きい。イリオスの北方神殿がまるでただの小屋のように思えるほどだ。
しばし茫然と周囲を眺めていたが、ようやく我に返ったエリオットは大神殿に続く坂の下で大きく呼吸すると、参拝の人々と共に歩き、門で手紙を差し出した。
シャルトスの家名を出すわけにはいかないので、エリオットは祖父の側近であるダリュース家の人物として大神殿に来ている。
この手紙の中では『ジャック・ダリュース』という人物が大神殿に宛てて、「息子のエリオットが神官になりたいと言っているので、よろしくお願いします」といった文章を書いてくれているはずだった。
手紙を読んだ門番は奥へ連絡する。ほどなくして、案内の神官がやってきた。
挨拶をした後に名乗ろうとするエリオットを神官は止める。
「必要ありません」
壮年の男性神官は微笑んで言う。
「大神殿での名乗りは、大神官様にお会いしてから行うよう言付かっております」
エリオットは首をかしげ、それからうなずく。
もしかしたら大神殿でも城のように変な決まりがあるのかもしれない。きっとそのひとつに「大神官に会う前は他の人に名乗るな」というのがあるのだろう。
どうぞ、と神官に促されたエリオットは、白い石造りの建物へ入る。
いくつも道を折れた先には木製の立派な扉があり、中へ呼びかけた神官はエリオットひとりで入るよう指示する。
言われた通りに入ると、部屋では60歳前後と思しき背の高い男性が柔和な笑みを浮かべていた。
「ようこそ大神殿へいらっしゃいました。私はダスティ・ハイドルフと申します」
大神官は胸に手を当て、丁寧に頭を下げる。
エリオットも礼を返すが、名乗って良いのかどうかが分からなかったので、挨拶の言葉だけを口にした。
ハイドルフ大神官は椅子へとエリオットを誘う。
お互いに腰かけて向かい合うと、大神官はさっそくですが、と話し出す。
「お名前はどのようになさいますか?」
いきなり名前のことを言われて、エリオットは背筋がひやりとした。
「どういうことですか。……私は、エリオット・ダリュースと申します。それ以外の名はありません」
落ち着け、と自分に言い聞かせながら、エリオットは素知らぬ顔で大神官へと答える。しかしハイドルフ大神官は、真っすぐにエリオットを見ながら続けた。
「せっかく大神殿へいらしたのです。今までとは関係のない名前を名乗ってみてはいかがでしょうか」
エリオットの背を冷や汗が伝う。なぜかこの大神官は、エリオットの素性を知っているような気がした。
「……そのようなご提案をなさる理由を、お聞きしたいのですが。もしかして大神殿に入るときは、全員が今までとは違う名をつける決まりになっているのでしょうか?」
「いいえ、そんなことはございませんよ。……ただ、私はあなたの事情を少しばかり存じているのです」
「……事情? 私になんの事情があるとおっしゃるのでしょうか」
「私の従兄弟にジュスト・ブレイルという人物がおります。ご存じでいらっしゃいますよね」
エリオットは目を見開く。
「ジュストと私は親交がございます。と申し上げれば、大体のことは察していただけるでしょうか」
言いながら、ハイドルフ大神官は一通の手紙を取り出した。
差出人はジュスト・ブレイル。その昔、エリオットに精霊術を教えてくれていた人物だ。そういえばジュストの父は北方の人ではないと聞いていた。
大神官の許可を得て手紙を開き、エリオットは目を通す。
ジュストからの手紙には、急に元の町に帰ったまま連絡が取れなくなった詫びと、ハイドルフ大神官は信用しても大丈夫だという話、そして、もしエリオットさえよければ彼の提案に乗ってみてはどうか、という内容が書かれていた。
読み終わったエリオットは、なぜジュストとハイドルフ大神官がこのような話を持ち出したのか疑問に思う。
そしてすぐにひとつの考えに思い至り、思わず息をのんだ。
――もしもここで違う名をつけた場合、公爵家は今後、エリオットの足跡を追えるのだろうか?
祖父は「エリオット・ダリュース」の名しか知らないはずだ。だがもし、別の名で行動したらどうなる。
エリオット・ダリュースという神官は存在しない。エリオットとハイドルフ大神官さえ黙っていれば、大神殿に問い合わせても「エリオット・ダリュースという人物はいない」との返事しか戻らないはずだ。
――だとすれば、この後に行方をくらませても、公爵家は分からない。
そんなことを考えてしまった自分が恐ろしくてエリオットは慌てて首を振る。
行方をくらませるなど、できるはずがない。相手はアストラン国で最大の力を誇るシャルトス公爵家だ。城で育ってきたエリオットは、現公爵ラディエイルのことも分かっている。
そうでなくとも、自分に他の道は許されない。役目がある。神官となって、領地へ戻らなくてはいけないのだ。
改めて大神官の申し出を断ろうとして口を開き、
(精霊は、お喋りだ……)
「……別の名を、考えていただけますか」
視線を落としたエリオットは呟くように口に出す。
以降、大神殿でエリオットは「アーヴィン・レスター」と呼ばれることになった。
別れに際しての感傷はない。
かといって、清々するという思いもない。
あるとすれば、別の住まいへ移るという淡々とした気分だけだった。
結局あの日から一度も母に、そして産まれたという妹にも会うことはなく、10歳になったエリオットは王都の大神殿へ行く日を迎えている。見送りは、何年か世話をしてくれた侍女の内2人と、姉のリュシーだけだった。
最初は冷たい態度だった侍女の中で、この2人だけはエリオットに心を寄せてくれたのだ。ありがたく思いながらも、彼女たちが城内で孤立しなければ良いなと思いつつ別れの言葉を述べる。
次いで姉に向き直った。
城に来た頃から親しくしてくれたリュシーに、エリオットは心から感謝していた。何かを言わなくてはいけない、と思うのだが、何を言って良いのか分からない。
リュシーも同じ気持ちなのだろう。何か言いたげな様子で何度も口を開いては閉じ、結局
「……寂しくなるわ」
とだけ言って、父やエリオットと同じ、灰青の瞳に涙を浮かべる。
「僕もです。……姉上、どうかお元気で」
エリオットはリュシーに頭を下げると、決して豪華とは言えない馬車へ乗り込む。動き出してから振り向くと、泣いているリュシーを2人の侍女が慰めていた。その姿を目にしてエリオットも涙が出そうになったが、ぐっとこらえる。まだ自分には寄るところがあるのだ。
エリオットは最後に北方神殿へ向かう。出発する日は大精霊が起きている日にすると、ずっと前から決めていた。
「大精霊、お別れです」
もしかすると、会えるのはこれが最後になるかもしれない。
木を見上げたエリオットが幹に手を沿えて囁くと、大精霊は悲しそうに身を震わせた。
『エリオット、ごめんなさい。私は結局何もできませんでした』
彼女の声を耳にしたエリオットは切なく笑う。身を裂くような感情を乗せて言う謝罪の言葉を、エリオットは大精霊から何度も受けてきた。
「謝らないで下さいっていつも言ってるじゃないですか。あなたが謝ることなど、何もありません……それに、最後の時まで謝られるのは寂しいです」
目が覚めて、クロードが死んだことを知った大精霊の嘆きは、大層深かったと聞いた。愛する女王の血脈の者が惨い死に方をし、実行したものを罰するどころか許したのも同じ血脈の者だったのだから、当然かもれない。
エリオットは後に知ったのだが、公爵であるラディエイルと、その息子クロードの不仲は有名な話だった。
『……エリオット、最後にもう一度聞きます。私の息子になりませんか』
「なりません」
銀の花が揺れるのを見ながら、エリオットは何度目かの拒否をする。
「あなたの力は、この地のためのものです。僕に与えてはいけません。どうしてもと言うのなら、フロランにお願いします。公爵家で術が使えるのは、僕がいなくなったらフロランだけになりますから」
古の大精霊がラディエイルへの罰として、今後は彼の言葉を一切聞かぬよう精霊たちへ命じていたのをエリオットは知っていた。
精霊術とは結局、人が精霊に頼んで力を貸してもらって行うもの。精霊が耳を貸してくれないのであれば、どんなに人が呼びかけても術は使えないのだ。
『エリオット……』
大精霊は何かを言いかけ、そしてやめる。
『……私のことは気にしないで、あなたはあなたの道を進んで下さい。どうか幸せを見つけることができますように』
彼女の言葉になんと答えて良いか分からず、エリオットは額を幹に当てる。
「……話ができて、とても楽しかったです。今までありがとうございました」
少しの間そのまま黙って目をつぶっていたエリオットは、大精霊に背を向けると、振り返ることなく馬車に乗り込んだ。
* * *
王都に到着したエリオットは、あまりの大きさに圧倒された。
話には聞いていたものの、まさか本当にイリオスより大きな都市があるとは思ってもみなかった。
そして認めたくはないが、確かに大神殿は大きい。イリオスの北方神殿がまるでただの小屋のように思えるほどだ。
しばし茫然と周囲を眺めていたが、ようやく我に返ったエリオットは大神殿に続く坂の下で大きく呼吸すると、参拝の人々と共に歩き、門で手紙を差し出した。
シャルトスの家名を出すわけにはいかないので、エリオットは祖父の側近であるダリュース家の人物として大神殿に来ている。
この手紙の中では『ジャック・ダリュース』という人物が大神殿に宛てて、「息子のエリオットが神官になりたいと言っているので、よろしくお願いします」といった文章を書いてくれているはずだった。
手紙を読んだ門番は奥へ連絡する。ほどなくして、案内の神官がやってきた。
挨拶をした後に名乗ろうとするエリオットを神官は止める。
「必要ありません」
壮年の男性神官は微笑んで言う。
「大神殿での名乗りは、大神官様にお会いしてから行うよう言付かっております」
エリオットは首をかしげ、それからうなずく。
もしかしたら大神殿でも城のように変な決まりがあるのかもしれない。きっとそのひとつに「大神官に会う前は他の人に名乗るな」というのがあるのだろう。
どうぞ、と神官に促されたエリオットは、白い石造りの建物へ入る。
いくつも道を折れた先には木製の立派な扉があり、中へ呼びかけた神官はエリオットひとりで入るよう指示する。
言われた通りに入ると、部屋では60歳前後と思しき背の高い男性が柔和な笑みを浮かべていた。
「ようこそ大神殿へいらっしゃいました。私はダスティ・ハイドルフと申します」
大神官は胸に手を当て、丁寧に頭を下げる。
エリオットも礼を返すが、名乗って良いのかどうかが分からなかったので、挨拶の言葉だけを口にした。
ハイドルフ大神官は椅子へとエリオットを誘う。
お互いに腰かけて向かい合うと、大神官はさっそくですが、と話し出す。
「お名前はどのようになさいますか?」
いきなり名前のことを言われて、エリオットは背筋がひやりとした。
「どういうことですか。……私は、エリオット・ダリュースと申します。それ以外の名はありません」
落ち着け、と自分に言い聞かせながら、エリオットは素知らぬ顔で大神官へと答える。しかしハイドルフ大神官は、真っすぐにエリオットを見ながら続けた。
「せっかく大神殿へいらしたのです。今までとは関係のない名前を名乗ってみてはいかがでしょうか」
エリオットの背を冷や汗が伝う。なぜかこの大神官は、エリオットの素性を知っているような気がした。
「……そのようなご提案をなさる理由を、お聞きしたいのですが。もしかして大神殿に入るときは、全員が今までとは違う名をつける決まりになっているのでしょうか?」
「いいえ、そんなことはございませんよ。……ただ、私はあなたの事情を少しばかり存じているのです」
「……事情? 私になんの事情があるとおっしゃるのでしょうか」
「私の従兄弟にジュスト・ブレイルという人物がおります。ご存じでいらっしゃいますよね」
エリオットは目を見開く。
「ジュストと私は親交がございます。と申し上げれば、大体のことは察していただけるでしょうか」
言いながら、ハイドルフ大神官は一通の手紙を取り出した。
差出人はジュスト・ブレイル。その昔、エリオットに精霊術を教えてくれていた人物だ。そういえばジュストの父は北方の人ではないと聞いていた。
大神官の許可を得て手紙を開き、エリオットは目を通す。
ジュストからの手紙には、急に元の町に帰ったまま連絡が取れなくなった詫びと、ハイドルフ大神官は信用しても大丈夫だという話、そして、もしエリオットさえよければ彼の提案に乗ってみてはどうか、という内容が書かれていた。
読み終わったエリオットは、なぜジュストとハイドルフ大神官がこのような話を持ち出したのか疑問に思う。
そしてすぐにひとつの考えに思い至り、思わず息をのんだ。
――もしもここで違う名をつけた場合、公爵家は今後、エリオットの足跡を追えるのだろうか?
祖父は「エリオット・ダリュース」の名しか知らないはずだ。だがもし、別の名で行動したらどうなる。
エリオット・ダリュースという神官は存在しない。エリオットとハイドルフ大神官さえ黙っていれば、大神殿に問い合わせても「エリオット・ダリュースという人物はいない」との返事しか戻らないはずだ。
――だとすれば、この後に行方をくらませても、公爵家は分からない。
そんなことを考えてしまった自分が恐ろしくてエリオットは慌てて首を振る。
行方をくらませるなど、できるはずがない。相手はアストラン国で最大の力を誇るシャルトス公爵家だ。城で育ってきたエリオットは、現公爵ラディエイルのことも分かっている。
そうでなくとも、自分に他の道は許されない。役目がある。神官となって、領地へ戻らなくてはいけないのだ。
改めて大神官の申し出を断ろうとして口を開き、
(精霊は、お喋りだ……)
「……別の名を、考えていただけますか」
視線を落としたエリオットは呟くように口に出す。
以降、大神殿でエリオットは「アーヴィン・レスター」と呼ばれることになった。
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