冬に鳴く蝉

橋本洋一

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蝶次郎と蛾虫

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 上役の鍬之介に連れられて、蝶次郎は謁見の間に通された。
 そこには家老の光原蛍雪が蝶次郎の左側、上座に近いところに座っていた。光原は鍬之介に下がるように命じて、二人きりとなった。

 蛾虫が来るまで二人の間に会話は無かった。時折、光原がじっと蝶次郎を見つめるのだけど、言葉を一切発しない。蝶次郎は内心、変な人だなと思ったが口に出すような愚かな真似はしなかった。

 がらりと上座近くの襖が開く。光原がすっと頭を下げた。慌てて蝶次郎も倣う。
 誰かが上座にどしりと座る音がして「苦しゅうない、面を上げよ」と甲高い声がした。

 蝶次郎が顔を上げると、そこには小ばかにするように蛾虫がにやにや笑っている。
 色白で、太っていて、端正だった顔を醜く歪ませて。
 不摂生な生活をしていると一目で分かる姿かたちをしていた。

 だけど――

「どうした? 私の顔を穴が開くほど見て」
「あ……無礼をいたしました」

 蝶次郎は視線を外して、慌てて頭を下げた。
 理由は分からないが、どこか懐かしい人を会った気がした。
 そんな訳がない。蛾虫と対面するのは初めてなのだから。

「ふん。貴様さては衆道者か?」
「そういうわけでは……」
「ふはは。冗談だ。本気にとらえるな」

 初対面の主君の冗談など笑えない。
 蝶次郎は額に汗をかきながら「ははっ」とだけ答えた。

「貴様を呼び出したのは他でもない。コドク町の住人の恩赦を嘆願書にしたため、上役の……誰だったか……」
「殿。勘定方の吉瀬鍬之介です」

 光原が捕捉すると「ああ、そうだった。思い出した」と手を打つ蛾虫。
 そして嫌らしい笑みを浮かべながら「その者から光原へと渡り、私が読んだというわけだ」と経緯を述べた。

「なかなか字が綺麗だな。そして文章も整っている」
「……ありがたき幸せに存じます」
「私が訊きたいのは、何故今更コドク町の恩赦を申し出たのかということだ。仕えて数年経つが、貴様は目立った活躍をしていない……いや、最近、燭中橋の改築を行なったか。もしかして、それで調子に乗って分を弁えない真似をした……」

 蝶次郎は「恐れながら申し上げます」と平伏したまま答えた。

「燭中橋の件は己の活躍ではありません」
「仔細は聞いている。蟷螂とかいうやくざ者が手助けしたのだろう」
「ご承知のとおりです」
「ふん。所詮は他人の手を借りただけか」

 蝶次郎は何故、そこまで厳しいことを言われなければならないのか、判然としなかった。
 まるで含むところがあるようだ――そんなわけがない。蝶次郎は自身と蛾虫の間に主従以上のつながりがないと思っていた。
 しかし――

「その物言い……逃げてはならぬと教えられたと聞いていたが、とんだ腰抜けだな」
「――っ!? 何故それを!?」

 反射的に顔を上げてしまった蝶次郎。
 彼自身、血の気の引いた蒼白な顔色になっていると分かっていた。
 揺れる視線が蛾虫に定まる。彼は――不気味に笑っていた。

「貴様のことは何でも知っている。優柔不断で、怠惰で、情熱に欠けていて――どうしようもない男だとな」
「……一家臣をそこまでお調べになったのですか?」
「調べたのではない。先ほども言ったとおり、私は知っていた。そして聞いていた」

 曖昧で煙に巻くような言葉遣いに、蝶次郎の心中は渦巻きのようにかき乱された。
 知りたいのと同時に、知ってはならぬと一方で警告する思考。
 一体、目の前の主君は何を――

「不明瞭という顔だな。しかし、私も同じ気持ちだ」
「どういう意味ですか?」
「貴様があの者と姉弟であることだ」

 蛾虫は蝶次郎が気づく寸前で、彼を更なる混乱に巻き込む、決定的な一言を言い放った――

「あの強くて美しかったさなぎと、軟弱者なお前が姉弟だったとは、本当に考えられない。何かの間違いではないか?」


◆◇◆◇


「蝶次郎。少し――話せますか?」

 八年前のことだった。
 姉のさなぎはいつも通り、能面のように無表情だった――しかし蝶次郎は違和感を覚えた。
 泣きそうでありながら、泣き疲れたような雰囲気を、姉は醸し出していた。

 だが蝶次郎は気のせいだと思った。
 姉が泣くわけがない。
 それどころか、泣く理由がない。

「いえ、姉上。これから道場に行くので、帰ってからでもよろしいでしょうか?」

 彼は一年前から道場に通っていた。
 剣の腕がさほど達者ではない蝶次郎は、道場主や師範代に怒鳴られるのが常なので、できることなら稽古をしたくないのだが、この頃は姉との会話を避けていた。いわゆる反抗期だったのかもしれない。

 姉は無表情のまま「今日は稽古を休みなさい」と弟に告げた。

「大切なことなのです」
「……姉上。あなたはいつもそうだ」

 蝶次郎はここで初めて――姉に逆らった。
 生まれて初めて、歯向かった。

「俺がやりたくないことをやらせて、俺のやるべきことを妨げて。いつだって嫌なことを強いてくる。俺は――あなたの操り人形じゃないし、飼い犬でもない!」

 さなぎは弟の怒りを冷静に見つめていた。
 受け止めるのではなく、かといって受け流すわけでもなく。
 ただそうであるように――

「俺は道場なんて通いたくなかった! 全部、姉上が強いたことだ! それなのに、今更休めだなんて! ふざけないでくださいよ!」

 最後はほとんど怒鳴るように言い捨てた。
 それでもさなぎは動かない。
 心――動かされない。

「散々、逃げてはならぬと教えてきたくせに、いい加減なことを言わないでください!」

 後ろを向きながら蝶次郎は言ったので、さなぎの表情は見えなかった。
 きっと無表情のままだと決めつけていた。
 蝶次郎は「御免!」と言って屋敷から出た。

 それから数刻後。
 屋敷は紅蓮の炎で焼かれることになる。
 あのとき、姉が言いたかったことはなんだろうか。
 もしも話を聞いていれば、姉は死ななかったのだろうか。

 姉から逃げたことで、姉を失ってしまった。
 結局、姉の言ったことは正しかったのだろう。
 逃げたことで、大事なものを――


◆◇◆◇


「ど、どうして、姉上のことを――」

 蝶次郎は声を震わせて、蛾虫に問う。
 姉を知っている理由を、主君に問う。

「知っているとも。そこの家老――光原もよく知っている。そうだな」
「ええ。八年前に亡くなった、さなぎ殿のことはよく存じております」
「なっ――」

 蛾虫だけではなく、家老の光原も知っているのに驚愕した蝶次郎。
 光原は続けて「そもそも、私が殿とさなぎ殿を引き合わせたのだ」と告げた。

「殿が一目で気に入った女性は、さなぎ殿が初めてだった」
「まあな。それくらい魅力的だった。どこか懐かしさすら感じるほどに、亡き母上を思い出した」

 蝶次郎は心落ち着かせて「しかし、何も知らされていませんでした」と言う。

「姉は一切、殿のことを……」
「弟だからと言って、何でも話すような人だったか?」

 確かにさなぎは弟である蝶次郎に、自身の話をしなかった。
 いつも、さなぎは蝶次郎の話を聞いていた。
 いつでも、さなぎは蝶次郎の教育を優先した。
 いつだって、さなぎは蝶次郎に何も語らなかった。
 亡くなった日を除いて――

「私は城主であるから、忍んで会う必要があった。時には貴様の屋敷で話したこともあったな」
「……そんなの、気づくはずです」
「いいや。貴様が道場に通っているときに会っていた。そのためにさなぎを通じて、道場に通わせたんだよ」
「…………」
「いろいろ知ったところで――本題に入ろう」

 蛾虫はにやにや笑っていた顔を引き締めて、さなぎのように無表情で問う。

「さなぎを殺したのは、貴様か?」
「何を、言っているのですか……?」
「さなぎを殺す理由があるのは、貴様だけだ。酷い教育を受けていたらしいではないか。さなぎも可哀想なことをしたと言っていた」

 蛾虫は「さっさと答えろ」と詰問する。

「殺したのか、殺していないのか。どっちだ?」
「……その前に、質問いいですか?」

 蝶次郎は分かり切っていることを訊ねた。

「殿と姉上は……恋仲だったのですか……?」
「……ああ。私はさなぎを愛している。今でも愛しているさ」
「……俺は殺していません」

 蝶次郎の否定に蛾虫は黙り込んだ。傍の光原も黙して語らなかった。

「俺だって、姉上が死んだ理由を知りたいのです。逃げてはならぬと教えてきた姉が、どうして死んだのか、あるいは殺されたのか、知りたいのです」

 蝶次郎は頭を下げて「殿! 教えてください!」と懇願した。

「俺の知らない姉のさなぎのことを。どうか、どうか教えてください!」

 蛾虫はこの様子を見て、蝶次郎は殺していないのかと感じた。
 演技には思えない。
 真実を知りたがっていると分かる。

「いいだろう。教えてやる」

 蛾虫は頷いた。
 渋々ではなく、かといって進んで頷いたわけではない。
 彼自身、真実を知りたかった。
 だから話すことにした。

「私が知っている、私が愛した、さなぎのことを――」
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