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白拍子、鍛冶屋と邂逅する
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時は元禄。五代将軍綱吉の治世の下、八百八町と呼ばれるほど多くの町が立ち並ぶ江戸。
その中心にある江戸城から北東に位置する職人町。そこまでの家路を急いでいるのは興江というしがない鍛冶屋の男だ。歳は三十半ばで背丈は高くも低くもない。特徴なのは左頬に大きな刀傷があることだ。色黒の身体に体格以上の太い腕。余程鍛冶屋の仕事に打ち込んでいるのだと分かる。頭に捻り鉢巻きをして作務衣のまま急ぎ足で家に帰ろうとしているのには理由があった――人斬りの噂だ。
既に五人殺されている。今や江戸中の話題となっていて、普段は親の言うことを聞かない悪ガキでさえ、夕暮れ時には家の中でおとなしくしているほどだった。
そして今。とっくに日が暮れている。季節は夏で火が伸びているのにも関わらず、こんなにも遅くなってしまったのは、得意先の主人と奥さんに茶の一杯でもどうだと引き留められたからだ。元々、そういう申し出を断るのが下手な興江。ささ、もう一杯。この菓子はどうですか? 良かったら夕飯でもいかがですか? と言った感じであれよあれよと誘われ続けてしまった。流石に泊まるのは申し訳ないとようやく断れて、彼は帰ることができた。
「ひゃあ。すっかり遅くなっちまった。危ねえ人斬りと出くわす前に帰らねえと」
愚痴を言っても応じる者は周りにはいない。それどころか独り言を言えば言うほど独りきりの小道が物淋しく思える。背筋が寒くなるのを感じながら、件の人斬りと遭遇しませんようにとおっかなびっくり帰りを急ぐと、内容は分からないが幼い女の声がした。何やら諍いでもあるのかと、興江は面倒半分でため息をついて曲がり角の先をこっそり覗いた。
「何度も言っているではありませんか! 私はそのようなところには行きません!」
歳は十四か十五。見慣れない恰好――興江でなくとも江戸の者なら同様の感想を抱くだろう。上方、京の都の公家たちが着ているような服装。狩衣を簡略化した着物、水干を身に纏っていて、頭には烏帽子を被っている。水干は白い生地と水色の帯で統一されている。現在の夏の蒸し暑い夜に涼しげな印象を与えるだろう。また着物には家紋は刻まれていない。
初め興江は奇妙な恰好をしたその者を『少年』だと錯覚してしまった。それも上に『美』が修飾されてもおかしくないほどの美貌の持ち主だった。しかし先ほどの女の声の主がその少年――つまり少女だ――のものであることは間違いなかった。何故なら少女を囲んでいたのは三人のごろつきで、他に女らしき姿が無かったからだ。
「へへ。そんなふざけた格好をしていやがるのに、一丁前に言うじゃあねえか」
「もう傾奇者は流行ってねえぜ?」
「いいから来いよ。俺たちと楽しくて気持ちのいいことをしようぜ!」
なんとも安い誘い文句――脅しだ。興江は彼らが『銀蔵一家』の者だと一目で気づいた。いつだったか蕎麦屋の女中に奴らが絡んでいたことを思い出す。かの極道は職人町を含めた辺り一帯を縄張りにしていて、数ある同業の者の中でも好戦的だ。なおかつカタギでも意に反せば手を出すという噂があった。また職人町をシマにしていることから、かくいう興江も少なくないみかじめを払っている。
「やめてください! 私には探している人がいるのです!」
「おお、そりゃあいい! 俺たちそいつと知り合いなんだ。紹介してやるよ」
「そんな噓、子供でも騙されませんよ!」
抵抗しているものの、あの様子だと力づくで連れ去られてしまうだろう。それはいくらなんでも見過ごすことはできない。二度目のため息をついて、興江は「ちょいとお兄さん方」と声をかけた。
「一人の女の子相手に、大人三人がかりで連れ込もうだなんて、情けねえと思わないか?」
「あぁん? 何だぁてめえ?」
ドスを利かせた声で睨みつける三人のごろつき。興江は少々怯んだが「み、みっともねえ真似は止しなせえ」と続けた。
「天下の銀蔵一家の名が泣きますぜ」
「俺らのこと知っているのか?」
「……あ、見たことあるぜ。鍛冶屋の興江だ」
どうやら向こうも興江のことを知っているらしい。舌打ちしたい気持ちで一杯になったが「そのとおりでございます」と興江は認めた。
「これでもみかじめをきっちり納めています。ですからここは勘弁願いたい」
「はん! 引き下がるわけが――」
ごろつきの一人が言いかけたとき、するりと彼らの輪から抜け出た奇妙な少女。ゆっくりと興江に近づいていく。戸惑っている彼の前で少女はにっこりと微笑んだ。まるで失くした物が見つかったように。
「……えっと、何か?」
「私はあなたに会いに、江戸まで来たんです」
「はあ? どういうこった?」
意味が分からない興江。少女は笑みを絶やさずに自身の目的を告げた。
「私のために――刀を打ってもらえませんか?」
「な、何を突然……!」
唐突に言われた衝撃的な一言。彼が心の奥に封じていたことをあっさりと言われた。思わず二、三歩後ずさってしまう。顔も強張っていると自覚する。
「ぎゃはは! 何を言ってやがる!」
「そいつに刀なんて打てるわけがねえ!」
「包丁ぐらいしかそいつの店にはねえぞ!」
からかうごろつきたちを余所に、興江と少女は見つめ合う。
全てを諦めてしまったような顔の興江。
ひたすら期待しているような顔の少女。
二人の気持ちは違うけど、それでも――
「なぁに無視してんだ……こら!」
反応のない二人に焦れたごろつきが興江の胸倉を掴もうとする。はっとしたがもう遅い。目を瞑ってしまった――
「…………?」
しかしいつになっても暴力が襲ってこない。恐る恐る目を開けると――ごろつきが宙を舞っていた。
あんぐりと口を開ける興江と残りのごろつきたち。
呆然とした表情のまま、地面に叩きつけられたごろつき。そのまま伸びてしまった。
「ご無礼。舞わせていただきました」
したり顔でそう言ったのは――少女だった。
興江に差し向けられた腕を左手で脇を跳ね上げて、右手で手首を叩き落とす。たったそれだけの動作で――華奢な少女が大の男を言葉通り舞わせたのだ。
「てめえ……! この野郎!」
「ぶっ飛ばしてやる!」
いきり立ったごろつきが二人同時に迫る。
少女はあくまでも冷静に、それでいて笑みを残して応じる。
「水のすぐれて、覚ゆるは――」
まるで歌うように、舞うように。
ごろつきたちのそれぞれの胸、やや左寄りに両手を添える。
「西天竺の白鷺池――」
軽く押しただけなのに、二人は後方へ勢いよく吹き飛んだ。
「――しむしやう許由に澄みわたる」
どたんと板壁に背中をぶつけたごろつきたちは呻き声を上げる。気絶してはいないがしばらく歩けなさそうだった。
「あら。まだ一曲終えていませんが」
拗ねた様子で動きを止める少女。それから立ったままの興江に「話の続きをしましょう!」と笑いかける。
「私の刀を――」
「悪いが断る!」
興江はこの場から逃走する。少女が何者か分からないが、関わるのは良くないと判断したのだ。異常な強さを見せつけられたのだから当然だった。それにあれだけ強ければごろつきが何人いても撃退できるだろう。当初の目的である少女の救出は達成できた。もう心配要らない。
心の中でそんな言い訳をしているのは、自己弁護だけではない。もっと弱い気持ちからだ。実のところ逃げ出したかったのだ。刀を打つという依頼から。
「……逃げられてしまいましたね」
首をかしげる仕草は可愛らしいものだった――周りの地べたにごろつきが三人も倒れていなければ。
「な、何者だ……お前は……」
かろうじて意識を保っていたごろつきが少女に訊ねる。
「私ですか? 私の名は――」
少女は無邪気な表情のまま答えた。
「――まつりと申します。ちなみに最後の白拍子です」
その中心にある江戸城から北東に位置する職人町。そこまでの家路を急いでいるのは興江というしがない鍛冶屋の男だ。歳は三十半ばで背丈は高くも低くもない。特徴なのは左頬に大きな刀傷があることだ。色黒の身体に体格以上の太い腕。余程鍛冶屋の仕事に打ち込んでいるのだと分かる。頭に捻り鉢巻きをして作務衣のまま急ぎ足で家に帰ろうとしているのには理由があった――人斬りの噂だ。
既に五人殺されている。今や江戸中の話題となっていて、普段は親の言うことを聞かない悪ガキでさえ、夕暮れ時には家の中でおとなしくしているほどだった。
そして今。とっくに日が暮れている。季節は夏で火が伸びているのにも関わらず、こんなにも遅くなってしまったのは、得意先の主人と奥さんに茶の一杯でもどうだと引き留められたからだ。元々、そういう申し出を断るのが下手な興江。ささ、もう一杯。この菓子はどうですか? 良かったら夕飯でもいかがですか? と言った感じであれよあれよと誘われ続けてしまった。流石に泊まるのは申し訳ないとようやく断れて、彼は帰ることができた。
「ひゃあ。すっかり遅くなっちまった。危ねえ人斬りと出くわす前に帰らねえと」
愚痴を言っても応じる者は周りにはいない。それどころか独り言を言えば言うほど独りきりの小道が物淋しく思える。背筋が寒くなるのを感じながら、件の人斬りと遭遇しませんようにとおっかなびっくり帰りを急ぐと、内容は分からないが幼い女の声がした。何やら諍いでもあるのかと、興江は面倒半分でため息をついて曲がり角の先をこっそり覗いた。
「何度も言っているではありませんか! 私はそのようなところには行きません!」
歳は十四か十五。見慣れない恰好――興江でなくとも江戸の者なら同様の感想を抱くだろう。上方、京の都の公家たちが着ているような服装。狩衣を簡略化した着物、水干を身に纏っていて、頭には烏帽子を被っている。水干は白い生地と水色の帯で統一されている。現在の夏の蒸し暑い夜に涼しげな印象を与えるだろう。また着物には家紋は刻まれていない。
初め興江は奇妙な恰好をしたその者を『少年』だと錯覚してしまった。それも上に『美』が修飾されてもおかしくないほどの美貌の持ち主だった。しかし先ほどの女の声の主がその少年――つまり少女だ――のものであることは間違いなかった。何故なら少女を囲んでいたのは三人のごろつきで、他に女らしき姿が無かったからだ。
「へへ。そんなふざけた格好をしていやがるのに、一丁前に言うじゃあねえか」
「もう傾奇者は流行ってねえぜ?」
「いいから来いよ。俺たちと楽しくて気持ちのいいことをしようぜ!」
なんとも安い誘い文句――脅しだ。興江は彼らが『銀蔵一家』の者だと一目で気づいた。いつだったか蕎麦屋の女中に奴らが絡んでいたことを思い出す。かの極道は職人町を含めた辺り一帯を縄張りにしていて、数ある同業の者の中でも好戦的だ。なおかつカタギでも意に反せば手を出すという噂があった。また職人町をシマにしていることから、かくいう興江も少なくないみかじめを払っている。
「やめてください! 私には探している人がいるのです!」
「おお、そりゃあいい! 俺たちそいつと知り合いなんだ。紹介してやるよ」
「そんな噓、子供でも騙されませんよ!」
抵抗しているものの、あの様子だと力づくで連れ去られてしまうだろう。それはいくらなんでも見過ごすことはできない。二度目のため息をついて、興江は「ちょいとお兄さん方」と声をかけた。
「一人の女の子相手に、大人三人がかりで連れ込もうだなんて、情けねえと思わないか?」
「あぁん? 何だぁてめえ?」
ドスを利かせた声で睨みつける三人のごろつき。興江は少々怯んだが「み、みっともねえ真似は止しなせえ」と続けた。
「天下の銀蔵一家の名が泣きますぜ」
「俺らのこと知っているのか?」
「……あ、見たことあるぜ。鍛冶屋の興江だ」
どうやら向こうも興江のことを知っているらしい。舌打ちしたい気持ちで一杯になったが「そのとおりでございます」と興江は認めた。
「これでもみかじめをきっちり納めています。ですからここは勘弁願いたい」
「はん! 引き下がるわけが――」
ごろつきの一人が言いかけたとき、するりと彼らの輪から抜け出た奇妙な少女。ゆっくりと興江に近づいていく。戸惑っている彼の前で少女はにっこりと微笑んだ。まるで失くした物が見つかったように。
「……えっと、何か?」
「私はあなたに会いに、江戸まで来たんです」
「はあ? どういうこった?」
意味が分からない興江。少女は笑みを絶やさずに自身の目的を告げた。
「私のために――刀を打ってもらえませんか?」
「な、何を突然……!」
唐突に言われた衝撃的な一言。彼が心の奥に封じていたことをあっさりと言われた。思わず二、三歩後ずさってしまう。顔も強張っていると自覚する。
「ぎゃはは! 何を言ってやがる!」
「そいつに刀なんて打てるわけがねえ!」
「包丁ぐらいしかそいつの店にはねえぞ!」
からかうごろつきたちを余所に、興江と少女は見つめ合う。
全てを諦めてしまったような顔の興江。
ひたすら期待しているような顔の少女。
二人の気持ちは違うけど、それでも――
「なぁに無視してんだ……こら!」
反応のない二人に焦れたごろつきが興江の胸倉を掴もうとする。はっとしたがもう遅い。目を瞑ってしまった――
「…………?」
しかしいつになっても暴力が襲ってこない。恐る恐る目を開けると――ごろつきが宙を舞っていた。
あんぐりと口を開ける興江と残りのごろつきたち。
呆然とした表情のまま、地面に叩きつけられたごろつき。そのまま伸びてしまった。
「ご無礼。舞わせていただきました」
したり顔でそう言ったのは――少女だった。
興江に差し向けられた腕を左手で脇を跳ね上げて、右手で手首を叩き落とす。たったそれだけの動作で――華奢な少女が大の男を言葉通り舞わせたのだ。
「てめえ……! この野郎!」
「ぶっ飛ばしてやる!」
いきり立ったごろつきが二人同時に迫る。
少女はあくまでも冷静に、それでいて笑みを残して応じる。
「水のすぐれて、覚ゆるは――」
まるで歌うように、舞うように。
ごろつきたちのそれぞれの胸、やや左寄りに両手を添える。
「西天竺の白鷺池――」
軽く押しただけなのに、二人は後方へ勢いよく吹き飛んだ。
「――しむしやう許由に澄みわたる」
どたんと板壁に背中をぶつけたごろつきたちは呻き声を上げる。気絶してはいないがしばらく歩けなさそうだった。
「あら。まだ一曲終えていませんが」
拗ねた様子で動きを止める少女。それから立ったままの興江に「話の続きをしましょう!」と笑いかける。
「私の刀を――」
「悪いが断る!」
興江はこの場から逃走する。少女が何者か分からないが、関わるのは良くないと判断したのだ。異常な強さを見せつけられたのだから当然だった。それにあれだけ強ければごろつきが何人いても撃退できるだろう。当初の目的である少女の救出は達成できた。もう心配要らない。
心の中でそんな言い訳をしているのは、自己弁護だけではない。もっと弱い気持ちからだ。実のところ逃げ出したかったのだ。刀を打つという依頼から。
「……逃げられてしまいましたね」
首をかしげる仕草は可愛らしいものだった――周りの地べたにごろつきが三人も倒れていなければ。
「な、何者だ……お前は……」
かろうじて意識を保っていたごろつきが少女に訊ねる。
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