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火消しの根性 其ノ壱
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それはからりと晴れた日のことだった。
「お父さんもお母さんも、万屋に行くことを許可してくれたわ」
「へえ、そいつは良かったな」
さくらは万屋の戸を開けて、店番をしていた弥助に晴れやかな顔で言う。
弥助のほうもこれで一安心だなと笑っていた。
「でも桐野に知恵を借りちゃったのは、個人的に残念ね」
「どういうことだい? 旦那みたいな変人に知恵を借りるのは恥ずかしいのか?」
「ううん。できれば自分の力で解決したかった。あたしもまだまだね」
弥助は「話は聞かせてもらっている」と言いつつ、新しく茶を淹れた。
さくらは息を吹きかけて冷ます。そして一口飲んで「美味しいわ」と湯飲みを置いた。
「あんな解決方法、旦那しか思い浮かばねえよ。そんながっかりするほどじゃねえ」
「それはそうだけど。ここで勉強した成果を出せなかった……」
「成果なら出てるぜ。あのお嬢ちゃんを外に出させたのは、さくらの手柄だよ」
自分の茶を啜る弥助。
さくらは「あたしの手柄?」と懐疑的になる。
「そうだよ。あんたの言葉じゃなきゃ、外に出ようって思わねえ。そのくらい気持ちが入っていたんだと、あっしは思うぜ」
「そうだったら……ちょっと嬉しいかも」
にこにこするさくらに、弥助は「自信持ちなよ」と笑って言った。
「心の籠った言葉は教えられて出るもんじゃあねえ。自然と出るもんだ」
「ふうん……ところで桐野は?」
ようやく店の主の所在を訊ねるさくら。
弥助は「ちょうど昼時だな」と腰を上げた。
「旦那を探しに行くか。さくら、あんたも行くだろ?」
「行くけど。目星はついているの?」
「この近辺の目立つところだと思うぜ」
◆◇◆◇
「ククク……疾風よ……貴様も分かるか……」
風と対話している男――桐野政明は火の見やぐらの上に立っていた。
下の道を行き交う住民は一瞬驚くが、桐野だと分かると視線を逸らして去っていく。
悪ガキたちが指さして大笑いするが、桐野は全く意に返さない。
「だが安心しろ……この我が支配してやる……」
「あ。いたいた。旦那あ。下りてくだせえ」
邪気眼侍を探すのは簡単だ。子供の笑い声を追えばいい。
弥助とさくらは火の見やぐらの真下から桐野を呼ぶ。
「旦那、下りてきてくださいよ。恥ずかしったらありゃしない」
「そうよ! 人の迷惑になるでしょう!」
さくらが軽くやぐらを揺すると、桐野は「ひゃあ!?」と悲鳴を上げた。
気のせいかと思ったさくらはもう一度揺らしてみる。
「うおおお!? やめろ、さくら!」
「……ねえ弥助。もしかして」
「旦那は高いところが苦手だ。それなのに高いところに登りたがる」
「……馬鹿なの?」
呆れ果てたさくら。弥助が「もう下りてきてください」と言ったが、桐野は「……下りられぬ」と首を振った。
「まさか……怖くて下りられないの!?」
「そそそっそそんな馬鹿なことを! 我に畏れなどの感情は……!」
「じゃあ下りてください。そうでないと揺らしますよ」
「我が相棒よ……無茶を言うな……」
さくらはこんな人に教えを請いているって分かったら、お母さんは必死で止めるでしょうねとくすりと笑った。
弥助が「もう揺らして落とそう」と言って火の見やぐらを揺らし始める。
「やめろ! 我の本気を出すぞ! いいのか!?」
「出せるもんなら出してくださいよ」
「くっ! 我が邪気眼、いや、本当、無理だから!」
桐野の素が出そうになった瞬間、突然大声で「何しているんだ!」と怒鳴った男がいた。
見ると火消しの恰好をした背の高い男だった。火消しの羽織を着ていて、髪は箒のようにつんつん尖っている。面長な顔で目が小さい。歳は三十後半ぐらいだ。
「火の見やぐらで遊んでいるんじゃあない! これが大事なもんだって分からねえのか!」
「あ、いや。実は上っている人を下ろしたくて」
気落とされた弥助が思わず桐野を指さす。
腕まくりした火消しの男が「あの野郎か!」と怒って火の見やぐらの梯子を上る。
そして桐野のところまでやってきた男は「てめえこの野郎!」と胸ぐらを掴んできた。
「てめえが遊んでやぐらが壊れたらどうするんだ! 火事が見つかんなくなるだろが!」
「し、しかし、邪気眼が――」
「はあ!? ふざけたこと言ってんじゃあねえぞ馬鹿野郎!」
ぼこん! と一発拳骨を桐野に食らわせる火消しの男。
「うぎぎぎぎ……うん? おい、あれはなんだ?」
痛みに耐えながら桐野が指さす――黒い煙がもくもくと上がっていた。
火消しの男は焦って「火事だ!」と叫んだ。
「急いで現場に行かねえと!」
手慣れた様子で梯子を下りた火消しの男は、真っすぐ火事の現場へと走っていった。
弥助とさくらは顔を見合わせた。そして桐野がゆっくりと下りてくる。
「ククク……紅蓮の炎に焼かれし住処……気になるな……」
桐野は不気味に微笑んで――火消しの男を追った。
「ちょっと旦那! 危ないですって!」
弥助も急いで後を追う。さくらもよく分からないなりに二人の後を追った。
◆◇◆◇
轟々と燃える商家。
江戸で評判の呉服問屋だ。
既に火消しが数人いるが、火の手が回り過ぎて、隣の建物に燃え移らないようにするのが精一杯だった。
「くそ! なんだってんだ! 馬鹿野郎!」
先ほどの火消しの男が消火活動をしているのを、野次馬に混じって見ている桐野。
そのとき、店の中から男が飛び出してきた。
ところどころ燃えていて、火傷も多い。
「おい! 水だ、水をかけろ!」
火消したちが水をかける――あの怪我では助からないなと桐野は思った。
火消しの男が怪我を負った男を抱える。
「大丈夫か、おい! しっかりしろ!」
「む、娘が……中に……助けられなかった……」
「娘!? お前の娘か!?」
「頼む……娘を……」
そう言い残して事切れる男。
焼けているが身なりからこの店の主人だと分かる。
火消しの男は迷った挙句「ええい、行くしかねえか!」と決断した。
桶に入った水を被って――店の中に入っていく。
「おい! 喜平治さん! 無茶するな!」
どうやら火消しの男の名は喜平治らしい。
桐野は見ず知らずの他人のために命を懸ける彼のことを凄いと思った。
「旦那、野次馬なんかしてないで帰りましょうぜ!」
「そうよ。建物が倒れたりしたら危ないわ!」
やっと追いついた弥助とさくら。
しかし桐野は首を横に振った。
「いや、見届けよう……男の覚悟を」
その様子がいつもと違っていたので、弥助とさくらは顔を見合わす。
しばらくして喜平治が女の子を抱えて出てきた。
ぐったりとしている娘だが、息はあるらしい。
喜平治も火傷を負っているが無事のようだ。
「喜平治さん! その子は?」
「そっちの仏さんの形見だよ……」
喜平治は悲しげに言ってその場に座り込んだ。
娘を助けられた喜びはなく、ただただ同情している。
そんな表情だった。
「素晴らしいな、男の覚悟というのは。ここまで美しいものは見たことがない」
弥助は桐野から出てきた称賛の言葉を珍しいなと思った。
普段、不気味で危ういことを言うのだが、ここまで真っすぐに褒め称えるのはめったにない。
そしてそれが羨望から来るものであるのも希少だった。
桐野は喜平治という男に敬意を払っていたのだ。
それからしばらくして商家は燃え尽きた。
中からは数十人の遺体が見つかったらしい。
生き残ったのは店の用事で出ていた数人のみ。
桐野はしばらく無言のままだった。
万屋に帰ってからもそうだった。
何かを考えているようで、弥助とさくらは何も言えなかった。
長い付き合いである弥助にはなんとなく分かっていた。
桐野はこの出来事に関わっていくと。
どんな風に関わるか分からないが、一応覚悟を決めておこうと弥助は考えた。
しかし桐野が関わろうとする前に、万屋の面々はこの出来事に巻き込まれることとなる。
「お父さんもお母さんも、万屋に行くことを許可してくれたわ」
「へえ、そいつは良かったな」
さくらは万屋の戸を開けて、店番をしていた弥助に晴れやかな顔で言う。
弥助のほうもこれで一安心だなと笑っていた。
「でも桐野に知恵を借りちゃったのは、個人的に残念ね」
「どういうことだい? 旦那みたいな変人に知恵を借りるのは恥ずかしいのか?」
「ううん。できれば自分の力で解決したかった。あたしもまだまだね」
弥助は「話は聞かせてもらっている」と言いつつ、新しく茶を淹れた。
さくらは息を吹きかけて冷ます。そして一口飲んで「美味しいわ」と湯飲みを置いた。
「あんな解決方法、旦那しか思い浮かばねえよ。そんながっかりするほどじゃねえ」
「それはそうだけど。ここで勉強した成果を出せなかった……」
「成果なら出てるぜ。あのお嬢ちゃんを外に出させたのは、さくらの手柄だよ」
自分の茶を啜る弥助。
さくらは「あたしの手柄?」と懐疑的になる。
「そうだよ。あんたの言葉じゃなきゃ、外に出ようって思わねえ。そのくらい気持ちが入っていたんだと、あっしは思うぜ」
「そうだったら……ちょっと嬉しいかも」
にこにこするさくらに、弥助は「自信持ちなよ」と笑って言った。
「心の籠った言葉は教えられて出るもんじゃあねえ。自然と出るもんだ」
「ふうん……ところで桐野は?」
ようやく店の主の所在を訊ねるさくら。
弥助は「ちょうど昼時だな」と腰を上げた。
「旦那を探しに行くか。さくら、あんたも行くだろ?」
「行くけど。目星はついているの?」
「この近辺の目立つところだと思うぜ」
◆◇◆◇
「ククク……疾風よ……貴様も分かるか……」
風と対話している男――桐野政明は火の見やぐらの上に立っていた。
下の道を行き交う住民は一瞬驚くが、桐野だと分かると視線を逸らして去っていく。
悪ガキたちが指さして大笑いするが、桐野は全く意に返さない。
「だが安心しろ……この我が支配してやる……」
「あ。いたいた。旦那あ。下りてくだせえ」
邪気眼侍を探すのは簡単だ。子供の笑い声を追えばいい。
弥助とさくらは火の見やぐらの真下から桐野を呼ぶ。
「旦那、下りてきてくださいよ。恥ずかしったらありゃしない」
「そうよ! 人の迷惑になるでしょう!」
さくらが軽くやぐらを揺すると、桐野は「ひゃあ!?」と悲鳴を上げた。
気のせいかと思ったさくらはもう一度揺らしてみる。
「うおおお!? やめろ、さくら!」
「……ねえ弥助。もしかして」
「旦那は高いところが苦手だ。それなのに高いところに登りたがる」
「……馬鹿なの?」
呆れ果てたさくら。弥助が「もう下りてきてください」と言ったが、桐野は「……下りられぬ」と首を振った。
「まさか……怖くて下りられないの!?」
「そそそっそそんな馬鹿なことを! 我に畏れなどの感情は……!」
「じゃあ下りてください。そうでないと揺らしますよ」
「我が相棒よ……無茶を言うな……」
さくらはこんな人に教えを請いているって分かったら、お母さんは必死で止めるでしょうねとくすりと笑った。
弥助が「もう揺らして落とそう」と言って火の見やぐらを揺らし始める。
「やめろ! 我の本気を出すぞ! いいのか!?」
「出せるもんなら出してくださいよ」
「くっ! 我が邪気眼、いや、本当、無理だから!」
桐野の素が出そうになった瞬間、突然大声で「何しているんだ!」と怒鳴った男がいた。
見ると火消しの恰好をした背の高い男だった。火消しの羽織を着ていて、髪は箒のようにつんつん尖っている。面長な顔で目が小さい。歳は三十後半ぐらいだ。
「火の見やぐらで遊んでいるんじゃあない! これが大事なもんだって分からねえのか!」
「あ、いや。実は上っている人を下ろしたくて」
気落とされた弥助が思わず桐野を指さす。
腕まくりした火消しの男が「あの野郎か!」と怒って火の見やぐらの梯子を上る。
そして桐野のところまでやってきた男は「てめえこの野郎!」と胸ぐらを掴んできた。
「てめえが遊んでやぐらが壊れたらどうするんだ! 火事が見つかんなくなるだろが!」
「し、しかし、邪気眼が――」
「はあ!? ふざけたこと言ってんじゃあねえぞ馬鹿野郎!」
ぼこん! と一発拳骨を桐野に食らわせる火消しの男。
「うぎぎぎぎ……うん? おい、あれはなんだ?」
痛みに耐えながら桐野が指さす――黒い煙がもくもくと上がっていた。
火消しの男は焦って「火事だ!」と叫んだ。
「急いで現場に行かねえと!」
手慣れた様子で梯子を下りた火消しの男は、真っすぐ火事の現場へと走っていった。
弥助とさくらは顔を見合わせた。そして桐野がゆっくりと下りてくる。
「ククク……紅蓮の炎に焼かれし住処……気になるな……」
桐野は不気味に微笑んで――火消しの男を追った。
「ちょっと旦那! 危ないですって!」
弥助も急いで後を追う。さくらもよく分からないなりに二人の後を追った。
◆◇◆◇
轟々と燃える商家。
江戸で評判の呉服問屋だ。
既に火消しが数人いるが、火の手が回り過ぎて、隣の建物に燃え移らないようにするのが精一杯だった。
「くそ! なんだってんだ! 馬鹿野郎!」
先ほどの火消しの男が消火活動をしているのを、野次馬に混じって見ている桐野。
そのとき、店の中から男が飛び出してきた。
ところどころ燃えていて、火傷も多い。
「おい! 水だ、水をかけろ!」
火消したちが水をかける――あの怪我では助からないなと桐野は思った。
火消しの男が怪我を負った男を抱える。
「大丈夫か、おい! しっかりしろ!」
「む、娘が……中に……助けられなかった……」
「娘!? お前の娘か!?」
「頼む……娘を……」
そう言い残して事切れる男。
焼けているが身なりからこの店の主人だと分かる。
火消しの男は迷った挙句「ええい、行くしかねえか!」と決断した。
桶に入った水を被って――店の中に入っていく。
「おい! 喜平治さん! 無茶するな!」
どうやら火消しの男の名は喜平治らしい。
桐野は見ず知らずの他人のために命を懸ける彼のことを凄いと思った。
「旦那、野次馬なんかしてないで帰りましょうぜ!」
「そうよ。建物が倒れたりしたら危ないわ!」
やっと追いついた弥助とさくら。
しかし桐野は首を横に振った。
「いや、見届けよう……男の覚悟を」
その様子がいつもと違っていたので、弥助とさくらは顔を見合わす。
しばらくして喜平治が女の子を抱えて出てきた。
ぐったりとしている娘だが、息はあるらしい。
喜平治も火傷を負っているが無事のようだ。
「喜平治さん! その子は?」
「そっちの仏さんの形見だよ……」
喜平治は悲しげに言ってその場に座り込んだ。
娘を助けられた喜びはなく、ただただ同情している。
そんな表情だった。
「素晴らしいな、男の覚悟というのは。ここまで美しいものは見たことがない」
弥助は桐野から出てきた称賛の言葉を珍しいなと思った。
普段、不気味で危ういことを言うのだが、ここまで真っすぐに褒め称えるのはめったにない。
そしてそれが羨望から来るものであるのも希少だった。
桐野は喜平治という男に敬意を払っていたのだ。
それからしばらくして商家は燃え尽きた。
中からは数十人の遺体が見つかったらしい。
生き残ったのは店の用事で出ていた数人のみ。
桐野はしばらく無言のままだった。
万屋に帰ってからもそうだった。
何かを考えているようで、弥助とさくらは何も言えなかった。
長い付き合いである弥助にはなんとなく分かっていた。
桐野はこの出来事に関わっていくと。
どんな風に関わるか分からないが、一応覚悟を決めておこうと弥助は考えた。
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