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別れのとき

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「雲之介さん……どうしてここに?」

 綺麗な着物を身に纏ったお市さまはまるで絵物語の天女のようだった。
 もう気軽に会えない――そう思っているからか、儚く見える。

「お市さまに、会いに来ました」
「……鈴蘭が、許すとは思わなかったです」

 今にも泣きそうなお市さま。
 泣かせているのは僕だった。
 それが――申し訳なくて、辛かった。
 本当は辛いなんて思う資格はないだろうけど、思わざるを得なかった。

「それにまさか、嫁ぐ前に、雲之介さんに会えるなんて、思わなかった。清洲城の正門で、見納めだと思ったのに……」

 お市さまは一歩ずつ、僕に近づく。
 僕は――動けなかった。

「嬉しい……」
「お市、さま……」

 そっと僕に身を委ねる、お市さま。
 両手を僕の胸に添えて、体重をかける。

「お、お市さま――」
「何も言わないでください……」

 今すぐにでも、背中に手を回して、抱きしめたかった。
 許されるのなら、このまま強く、抱きしめたかった。
 でも――

「……すみません、お市さま」

 肩を持って優しく、自分の身体から、お市さまを引き剥がした。

「あっ……」

 お市さまは悲しそうな顔をして、それから目を伏せた。

「僕には、裏切れない大切な守りたい人が居るんです」

 志乃の顔が浮かんだ。
 その顔は、笑っていた。

「……残念、です」

 お市さまは切なげに笑って、僕の手を取った。

「雲之介さんなら、どこか遠くへ連れ去ってくれると思ったのに」
「…………」
「本当に、残念です……」

 本音を言えば、誰も僕たちを知らない、遠く離れた場所へ連れて行きたかった。
 そこで慎ましく暮らしたかった。

 僕は目を閉じて想像する。
 優しいだけのうだつのあがらない僕。
 美しくて農民姿の似合わないお市さま。
 毎日を穏やかに暮らしている、生活を。

 だけど――そうはならなかった。
 僕は出自の分からない織田家の陪臣だった。
 お市さまは織田家のお姫さまだった。
 決して交わることのない、運命だったんだ。

 僕は、目を開けた。

「お市さま。僕は、あなたに会えて、良かったと心から思えます」
「雲之介さん……」
「記憶のない僕に、恋を教えてくれた」

 僕もお市さまの手を握り返す。
 優しく、壊れないように。

「決して忘れません。一生、どんなことがあっても」
「……私だって同じです」

 お市さまが笑った。僕が一番好きなお市さまの表情だった。

「あなたに会えて、本当に楽しかった。信行お兄さまを救ってくれたことも感謝しているのですよ」
「……感謝なんて、そんな」
「ううん。それだけじゃない。退屈でした日々も雲之介さんのおかげで、彩り鮮やかになりました」

 しかしふっと「会えなかった日々は悲しかったですが」とお市さまは胸が締め付けられるような表情をした。
 それに関しては何も言えなかった。

「あなたと一緒に居たかった」
「……はい」
「あなたと一緒に過ごしたかった」
「……僕もです」
「でも、もう無理なのですね」

 お市さまはにっこりと微笑んだ。
 全てを諦めているような笑みだった。

「私は長政さまに嫁ぐのです。もう雲之介さんとは会えない」
「……分かっております」
「最後のわがまま、聞いてくれますか?」

 最後のわがまま?
 お市さまは僕の答えを聞かずに、懐から短刀を取り出した。

「私と一緒に――死んでくれませんか?」

 あまりの言葉に声を失う。
 お市さまは――覚悟を決めていた。

「織田家のことも、奥方のことも、主君のことも、友のことも。全てを投げ打って、私と一緒に――死んでほしい」
「…………」
「そうしてくれたら、嬉しいです」

 もしも、記憶を失くした当初で、お市さまに恋していた、そんな都合の良い状態の僕だったら、頷いていただろう。
 喜んで――承っていただろう。
 でも――

「それは――できません」

 僕は短刀をお市さまから取り上げた。

「それは、どうしてですか?」

 お市さまは悲しく笑いながら言う。

「大殿のことや志乃のことや藤吉郎のことや小一郎さんと小六のことを抜きにしても、身勝手ですが、あなたには生きてほしい」

 本当に身勝手だ。情けないほどに女々しい。
 お市さまのことを思えば、願いを叶えてあげたいけど。

「お市さまには幸せに生きてほしいのです」
「……あなたが居ない浅井家で生きろと?」
「ええ。そうです」

 お市さまは「まるで項羽と虞美人みたいですね」と笑った。
 史記に登場する、武将と愛人の話。
 劉邦に追い詰められた項羽は虞美人に「なんとしても生き延びてほしい」と語る場面。
 お市さまに貸してもらって何度も読んだ史記の一節。

「虞美人のように、死ぬつもりはないですよね」
「いいえ。そんな気はありません」

 お市さまの大きな目から涙が零れた。

「雲之介さんのお願いを聞くのですから。お兄さまを助けてもらったお礼を、まだしてませんでしたね」

 いますぐこの場から連れ出したい気持ちで一杯だった。

「お市さま――」
「雲之介さん。もういいのです」

 涙を流したまま、お市さまは言った。

「私は姫で、あなたは陪臣なのです。それは決して覆らない」

 同じ――結論に達したようだった。

「だから、あなたの心を縛るのはやめにします」

 お市さまは、涙を自分で拭いて、とびっきりの笑顔で、可愛らしい声で、神の宣告のように、僕に言った。

「雲之介さん――大嫌いです」



「おう、兄弟。酷い顔だな。まあ座れや」

 藤吉郎の陣に戻った僕。小六が地べたに座って僕を呼ぶ。
 藤吉郎と小一郎さんも同じように僕を待っていた。
 僕は小一郎さんと小六の間に座った。

「その様子だと、ふられたようだな」
「……いつも思うけど、藤吉郎って鋭いよな」

 藤吉郎は「おぬしが分かりやすいせいよ」と笑った。

「まあ吞め。ふられたときは酒で晴らせ」

 小六が盃を差し出した。受け取るとなみなみに注いでくれた。
 一気に飲み干す。酒はあんまり好きじゃないけど、今日は吞みたい気分だった。

「無理しないでおくれよ。明日は佐和山城で浅井家の人間と会うんだから」
「分かっています。小一郎さん」

 藤吉郎は僕を見つめながら言う。

「ふられたはずなのに、どうもすっきりした表情をしているな」
「藤吉郎さん、そんなことないだろう。今にも兄弟は死にそうだぜ?」

 藤吉郎と小六の言葉は半分正解で半分間違っているのだろう。
 死にそうだけど、どこかすっきりとしていた。
 お市さまに大嫌いと言われて、悲しいのに。

「ま、どっちでもいいと言えばそれまでだな」

 藤吉郎はにやにや笑いながら、僕の盃に酒を注いだ。

「吞め。まずは吞め。乾杯とは杯を乾かすと書く。満たしたままではいかんぞ」
「兄者、それは漢字の覚え方だ」

 僕はそれも一気に飲み干す。
 良くない吞み方だって分かっていたけど、吞まずにはいられない。

「おいおい。大丈夫か?」

 流石に良くないと思った小六が止めに入るけど、そんなの関係なかった。

「注げ。兄弟」
「いや、すすめたのは俺だけどよ」
「いいから、注げ!」

 結局、朝まで呑み続けた僕たち。
 不思議と小一郎さん以外は二日酔いにはならなかった。
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