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幸せにできるかどうか

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「雲之介、今日は遅くなるの?」
「うん。夕方に藤吉郎のところで集まる約束があるから」
「そっか。何の用だろうね。検地はもうほとんど済んだでしょう?」
「分からない。あ、ご飯は用意してくれるらしいから、先に寝てて」

 あれから半月。
 僕と志乃さん――いや志乃は長屋で生活していた。
 志乃は炊事や洗濯を懸命にしてくれる。たまに料理を焦がすことがあるけど、それでも美味しかった。
 気立ても良いし、よく喋ってくれて、一緒に居るととても楽しい。たまに僕が洗濯物を出さないと怒るけど、道理が通らない怒り方はしなかった。

「城勤め、頑張ってね」
「うん。ありがとう。戸締りと火の元に気をつけてね」

 にっこりと微笑む志乃を見て、心が安らぐ。藤吉郎が言うとおり、帰る場所で待つ人が居るのはいいものだ。そう思いつつ、僕は清洲城に向かった。

 僕の勤めは主に米の管理や銭の収支計算だった。武士たちのほとんどが細やかな計算ができない。だから僕のような管理ができる人間は貴重だと藤吉郎は言ってくれた。

 織田家の俸禄は基本的に米である。銭で支払われることもあるけど、検地を行なってからは米が中心だった。何故なら今の日の本は米が銭の価値を裏づけしているからだ。

 どうしてこうなってしまったのか。簡単に言えば物に対して銭が不足しているからだ。そもそも日の本には取引に使える銭を鋳造する技術がない。簡単に偽造されてしまう。そして鋳造したところで信用もない。だから源平時代から宋銭を輸入したり、今だって明銭を輸入したりしている。

 だけど僕が藤吉郎と出会う数年前に、明銭を輸入できなくなった事件が起こる。西国の雄、大内義隆公が俗に言う大寧寺の変で死んでしまったからだ。大内義隆公は明との貿易で明銭を多く輸入していた。それによって莫大な力を誇っていたけど、陶という人物に謀反を起こされて殺されてしまったのだ。結果として密貿易でしか明銭は日の本に入って来なくなった。

 だから米は銭のように用いられる。取引や俸禄など用途は様々だ。また計算がしやすいという面もある。たとえば米の単位である石。一石は一年間で一人が消費する量を表す。すなわち五千石なら最大で五千人ほど雇えることになる。とても簡単だ。

 まあこれらのことは行雲さまから教えてもらったことで、こうして内政に関わってようやく理解できたことだった。

 そうして今のままでは日の本は良くないことは僕でも分かってきた。そして僕にも分かることは大殿も分かるということだから、いずれ解決する気でいるのだろう。だから検地を行なって米を正確かつ安定して取れるようにし、その上で伊勢湾水運によって銭を確保している。

 それに米で支払うということは家臣たちに領地を渡すことに他ならない。そうなればいずれ日の本の土地はなくなってしまう。大殿はこの難題をどうするつもりだろうか? 浅学非才の僕には分からない。

「雲之介さま。計算が終わりました。こちらの台帳にて、確認願います」
「分かりました。次は――」

 足軽組頭という立場でも読み書き計算が素早くできることから、上司や他の同僚たちにも重宝されるようになった。
 ちなみに藤吉郎はここには居ない。もっと重要な役目を任されているらしいけど、詳しいことは教えてもらえなかった。小一郎さんも藤吉郎の補佐で居なかった。

 それにしても、もっと誰でも正確に計算できるものが欲しい。堺に居た頃に聞いた、明からの輸入品である算盤なるものが欲しい。あれがあれば計算が速くなるらしいと宗二さんが言っていた。
 うーん。藤吉郎に相談してみようかな。

「おー、雲よ。元気でやっているか?」

 昼頃。そろそろ食事でもしようと志乃から貰った握り飯の包みを開こうとしたとき、源五郎さまが仕事部屋に入ってきた。
 皆が平伏する。僕も同じようにした。

「お久しぶりです。源五郎さま」
「ああ。ちょっと出ないか? お前に話したいことがある」

 僕は握り飯を机の上に置いて、源五郎さまについて行く。

「ちょっと言うのが遅れたが、俺も元服した。織田長益(おだながます)という」
「おめでとうございます。長益さま」

 庭先に出て、長益さまは僕に話し始めた。

「市とは会ってないのか」
「……ええ。そうですね」
「聞いたぞ。お前、祝言を挙げたそうじゃないか」

 長益さまは僕を哀れむように「おめでとう」と言った。
 胸が締め付けられた。

「てっきり市に恋焦がれていると思ったんだがな」
「…………」
「ふふ。図星か」
「……そうだとしても、僕はもう婚約してしまいました」

 長益さまは庭の池の周りにある石に座った。僕は立ったまま話を聞く。

「市は落ち込んでいたぞ。案外、あいつもお前に惚れてたかもな」
「ご冗談を」
「そうでなければ、あの日、市は泣かなかっただろう」

 そして長益さまは僕に笑いかける。

「あの日、そう指摘していたら、お前、どうしてた?」
「……どうもしなかったでしょうね」
「うん? 案外薄情なやつだな」

 僕は空を見上げた。まるで僕を馬鹿にしているみたいに青かった。

「もしも、お市さまがそれを望んでも、僕には何もできません」
「…………」
「あの場から連れ出すことも、知らない土地で暮らすことも、家族になることも、できない。自分でも情けなくなるくらいですが」
「それはどうしてだ?」

 僕は見上げたまま、言う。

「お市さまが、幸せになれない」

 ざざあっと風が吹く。

「僕はお市さまとお話したり、遊んだりして、幸せでした。でもお市さまを僕は幸せにできないでしょう。身分が違うし財産もない。そして己が何者か知らない」
「だがお前は志乃とかいう娘と婚約した。どうしてだ?」
「僕が婚約しないと志乃は幸せになれなかったのです。だけどお市さまは僕以外の人間でも、幸せにできます」
「つまり――選んだわけか」

 長益さまは立ち上がり僕に近づいて胸ぐらを掴んだ。

「うぬぼれるなよ」
「……長益、さま」
「人を幸せにできるとかできないとかで、自分の本心を隠すな」

 長益さまは怒っていた。
 今まで見たことがないくらい、静かに怒っていた。

「お前の言い訳を聞いていると、全部他人のせいにしているじゃねえか」
「…………」
「お前には、自分の欲とかないのか?」

 分からない。

「お前には、貫きたい思いはないのか?」

 分からない。

「お前には、夢があるのか?」

 分からない――

「記憶のない人間の弊害だな」

 そう言って、長益さまは手を放した。

「今の妻、志乃のことを愛しているのか? 市と婚約したいと思わないのか?」

 僕は目を閉じて。
 それから――はっきりと言った。

「志乃のことは、愛しています。だから――お市さまとは、婚約できません」

 これは本心だと思う。そう思いたい。
 半月だけど、志乃さんと一緒に居て、楽しかったから。
 次第に志乃さんを愛し始めていたから。
 それだけは嘘でもなく、真実そのものだったから。

「……そうか」

 長益さまは僕に背を向けた。

「市からの伝言だ。『末永くお幸せに』だとよ」

 それを聞いた僕は、胸が締め付けられた。
 切なくて、苦しくて。

「僕からも伝えてください」
「……なんだ」
「……お市さまも、幸せに。たとえ僕が隣に居なくても」

 長益さまは「自分で伝えろ、馬鹿」と言って去ってしまった。
 一人きりになった僕はしばらくその場に立っていたけど――自分の仕事場に帰っていく。
 守らないといけない、人のために、働かないといけなかったから。



 藤吉郎の屋敷。僕が仕事を終えて向かうと既に藤吉郎と小一郎さんが来ていた。

「なんだ。元気なさそうだな」

 藤吉郎の気遣いに「ちょっと忙しくて」と誤魔化した。

「それで、どうしたんだい?」
「ああ。小一郎には話したがな。来月から美濃攻めを行なう」

 美濃攻め。つまり斎藤義龍を倒すということか。
 大殿から舅を奪った、男と。

「ああ、義龍なら死んだぞ」
「ええ!? どうして?」
「流行り病だそうだ。後を継いだのは子の龍興(たつおき)だ」
「だから美濃攻めをするらしいよ、雲之介くん」

 小一郎さんの補足に僕は頷いた。

「それでだ。昨日の評定でこんなことを大殿は言われた」

 藤吉郎が言ったことはとんでもないことだった。

「墨俣に――城を築く」
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