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必要とされている

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 今川義元の上洛。駿河、遠江、三河の三国を統べる大大名が尾張を統一していない織田家を滅ぼさんとしている。由々しき事態だった。

「お前一人行っても、戦局は変わらんと思うが、まあ頑張れ」

 荷造りをしているとき、胡坐をかいて僕に向かってやる気のなさそうに言う源五郎さま。
 織田家が滅ぶかどうかの瀬戸際だというのに、いつものように飄々としている。

「何か伝えることはありますか?」
「うん? 誰にだ?」
「それは、大殿や親族の皆様方ですよ」
「何を言っている? 尾張から出立したときに、見送りに来てくれなかった親族共に言う言葉はない」

 そういえば見送りに来た人はいなかった。

「そうだな。兄上に伝えてくれ。家が滅びたら、俺は好き勝手にやるとな」
「滅びる前提ですか……」
「当たり前だ。甲相駿三国同盟を結んでいる今川は織田家だけ相手にすればいい。しかしこちらは美濃も気にしなければいけないのだぞ?」

 そう考えると厳しい。
 軍略的なことは分からないけど、二つの勢力を相手にしなければいけないのは――

「雲、逃げたければ逃げろ」

 不意に源五郎さまが言う。

「金子も十分にやってもいい。それかここに残って侘び茶を極めるのも悪くないだろう」
「何を馬鹿な。これでも僕は織田家の家臣ですよ」
「ふん。格好つけても始まらんだろう。行けば確実に死ぬと分かっているのに……」

 つまらなそうに源五郎さまは耳の穴をほじった。

「所詮、お前もくだらん武士だったということか」
「……ありがとうございます」
「はあ? 何を感謝している?」

 僕は荷を背負って、源五郎さまに言った。

「素性の分からぬ僕を武士と認めてくださったのは、源五郎さまが初めてでした」
「…………」
「必ず迎えに来ますから」

 そして部屋を出ようとして――

「雲! 必ず生き残れよ!」

 珍しく熱のこもった声に僕は笑顔で応じた。

「はい! 足掻いてでも生き残ってみせます!」



 尾張までよそ見せずに真っ直ぐ向かった。そのおかげで戦が始まる前に着くことができた。

「とりあえず清洲城に行く前に藤吉郎のところに行くか」

 一年ぶりの再会だ。手紙でのやりとりは何回かしている。この前の手紙ではもう少しで足軽組頭から足軽大将に出世しそうだと書いてあった。

「藤吉郎の長屋は……ここだな」

 出世していないのであれば、変わっていないはずだ。

「藤吉郎、久しぶり――」

 扉を開けると、藤吉郎がいた。
 可愛らしい少女と抱き合っていた。

「…………」
「…………」
「…………」

 状況を整理しよう。
 二十歳半ばの藤吉郎。足軽具足を着ていて、少女と抱き合っている。
 十代の少女。顔を真っ赤にして藤吉郎に抱きつきながら、僕を見ている。
 そして僕。

「…………」
「…………」
「…………」

 三者三様、言葉が出なかった。
 それでも、僕たちの心は通じ合っていた。

「……ごめん。お邪魔だったかな」

 ようやくそれだけ言えて、扉を閉めた。
 さて。どこで時間を潰そうか……

「きゃああああああ! ちょ、ちょっと待ってください!」

 扉が勢いよく開いて、少女が出てきた。

「あの、あのですね! 誤解なさらないでください!」
「えっと……」
「別に、夫婦って訳じゃないんですから!」

 支離滅裂なことを言って、少女は顔に手を当てながら、走り去ってしまった。

「なんだ。雲之介。おぬし帰ってきたのか」

 藤吉郎が頬を掻きながら出てきた。

「お楽しみのところ、申し訳ありませんね」
「い、いや、楽しんでいたわけでは……」
「僕はどうやらお邪魔してしまったようですね」
「邪魔というか……何故敬語なのだ?」
「いえ、変態……天才の藤吉郎さまに敬意を払おうと思いまして」
「……ええい! 事情を話すから、さっさと中に入れ!」

 無理矢理中に引きずり込まれて、僕は藤吉郎から事情を聞くことになった。
 あんまり聞きたくないんだけどなあ。

「先ほどの娘は、話したかどうかは忘れたが、ねね殿だ」
「うん? あー、聞いたことあるかもしれないな。一年前だっけ?」
「そうか。それでこたびの戦は危険だと言われて、泣き付かれてしまったのだ」
「ああ、そういう……てっきり遊女か何かだと……」

 納得した僕に藤吉郎は「それはともかく」と言う。

「よく無事に帰ってきたな」
「ああ。まあね。侘び茶を習ってきたよ」
「侘び茶? 茶の湯の流派か?」
「まあそうだね。ところで今川との戦が始まるって聞いたけど」

 藤吉郎は「ああ。そうなんだ」と苦い顔をした。

「今川の城を大殿が攻め落としてな。その報復に義元公がやってくる」
「えっ? 上洛で来るんじゃないのか?」
「いや。南近江の六角や越前の朝倉に協力を要請していないらしいから、それはありえぬ。まあ尾張を手中に収めるつもりではあるとのことだ」
「手紙だと上洛だって書いてあったけど」
「まあ混乱していたから、それは仕方ない」

 そして藤吉郎は言う。

「向こうは二万五千の軍勢で五月に攻め込むらしい。その前に今川方の勢力を尾張から追い出す必要がある。わしはこれから出陣する。とりあえずおぬしは大殿のところへ帰還の報告をしろ。それが終わったら留守を頼む」
「分かった。御武運を」

 藤吉郎は出て行く前に僕に告げた

「互いに死なぬように頑張ろうな」

 藤吉郎の長屋を出て、清洲城の門まで行く。

「うん? 雲之介か。大きくなったなあ」

 見知った顔の門番が驚いた声をあげた。

「久しぶり。大殿は?」
「ああ。中にいらっしゃる。門を開けてやるから通れ」

 門を開けている最中に門番はぼそりと言った。

「織田家は滅ぶのかな……」

 僕は「そんなわけないだろ」と強気で言った。



「おお。雲之介か。久しいな。茶の湯とやらは習得したのか」

 評定の間ではなく、あまり広くない、畳の間。
 今川が五月に攻めてくるというのに、意外と余裕な大殿。傍に控えている重臣たちのほうがぴりついている。
 柴田さまと丹羽さま。そして知らない顔の武士が二人。柴田さまたちより上座に居ることから、結構偉いと分かる。

「ではさっそく茶を点てよ」
「大殿。これから軍議が始まる予定です」

 狐顔の偉そうな武士が言う。

「然り。林殿のおっしゃるとおりです」

 今度は狸顔の小心そうな武士が言った。

「佐久間、林。心を落ち着かせて物事に取り掛かるのも重要なことだ」

 どうやら狐は林さま、狸は佐久間さまという名らしい。

「茶道具を準備する。点ててみよ」
「分かりました。五名で飲まれますか?」
「そうだ。作法はお前が指示せよ」

 大殿に指示なんかできない……

「作法などどうでも良いのです。大殿のお心が落ち着ければ」
「ぬ? そうか」
「茶碗を回し飲みするだけでいいです。それでは」

 というわけで重臣たちの前で茶を点てることになった。
 今回は濃茶を点てる。
 濃茶は茶筅をかき混ぜるのではなく、練り上げるという感じでやる。

 大殿の前に茶碗を置いた。とても良い茶碗だった。名物かもしれない。

「ではいただく……苦いが美味しいな」

 順々に飲み回して、丹羽さまが茶碗を置いた。これで終わりである。

「お前を修行に出して正解だったな。これから織田家家中の者に教えるがいい」
「恐れながら、源五郎さまのほうが数段上にございます」

 源五郎さまのほうが腕が上なのは本当だけど、実際問題、重臣たちにはとてもじゃないけど教えられない。だって僕は足軽組頭の陪臣だから。
 しかし予期していたのか、大殿は「左様か。是非もなし」と笑った。

「では源五郎が指南できるように、今川を討ち取らんとな」

 そう言って大殿は部屋から出て行った評定の間に行くのだろう。続いて佐久間さま、林さま、丹羽さまも出て行く。
 最後に柴田さまは僕にだけ聞こえる声で言った。

「信行さまのこと、感謝いたす」
「えっ?」
「まだ礼を言ってなかったからな」

 襖が閉められて、一人となり、僕は部屋から出て、長屋に向かおうとする。
 廊下を歩いていると、懐かしい声が聞こえた。

「雲之介さんが帰ってきたのですか!?」

 声のほうへ誘われるように行くと、ばったりとお市さまに遭遇した。

「雲之介さん!」
「お市さま。お久しぶりです」
「本当ですよ! 半年とおっしゃっていたのに、丸一年も!」

 可愛らしく怒るお市さま。ますます美しくなられた。

「これから今川との戦いだそうですね」

 お市さまが憂いを帯びた表情になった。
 そして僕の手を取った。

「生きて帰ってくるのですよ。決して功名心で死地に行ってはいけません」
「はい。承知いたしました」

 鼓動が高まるのを感じながら、答えるとお市さまは笑って言う。

「堺でのお話、楽しみにしておりますよ」

 源五郎さまにも藤吉郎にも大殿にも、そしてお市さまにも必要とされている。
 絶対に死ねないと思った。
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