上 下
9 / 256

稲生の戦い

しおりを挟む
 どうして――僕は死を受け入れてしまうのだろう。
 どうして――僕は生きることに固執しないのだろう。
 大殿の心中を知ってから、夜、布団の中で考えるようになった。

 生きたいと思うのは人として当然だ。武士も商人も百姓も変わらない。おそらく公家も変わらないだろう。
 でも僕は仕方なく生きているのかもしれない。
 記憶がないから――それで片付けてしまうのは乱暴な気がしてしまうけど、しかしそれしか理由が見つからない。
 理由があるとすれば、記憶を失くす以前にあるのかもしれないけど――

「考えても詮のないことだな……」

 ぼそりと呟く。呟きだから誰も応じてくれない。
 口に出しても考えてしまう自分が居る。いや考えないと不安になるというのが正直なところだ。
 自分の出自がはっきりしないのは、恐ろしかった。一人きりで生きていた時分には思わなかったことだけど、多くの人々と関わることで自覚するようになった。
 武士は皆、自分の矜持を持っていた。
 商人は皆、自分の財産を誇っていた。
 百姓は皆、自分の土地を守っていた。
 違いはあるにしろ、己の何かを糧として生きている。

 僕には何もない。何一つない。
 悲しいとか悔しいとか、そんなんじゃないけど。
 なんだか虚しかった。



 長良川の戦い以降、織田家は緊張状態にあった。同盟者であり庇護者であった斎藤道三が死に、彼を殺した息子の義龍が美濃の大名となったからだ。加えて信行さまが虎視眈々と織田家の跡取りを狙っているという。まさに内憂外患だった。

 僕は藤吉郎の元で働いていた。帳簿をまとめたり、人夫の俸禄の計算などをしていた。
 働いてみて、藤吉郎はやっぱり凄いと分かった。足軽組頭でありながら普請も指揮していた。織田家は人手不足だったので、兼任することが多いのだった。その際、割普請という方法を行なっていた。人夫を組に分けて競争させて、一番早かった者たちに褒美を与える。そのおかげで普請がとても早く進んだ。大殿からも褒められたらしい。

「人が望むものを与えれば、人一倍働いてくれるのだ」

 なるほど、そういうものなのか。藤吉郎が自慢げに言った言葉は、僕の心の中に残って消えなかった。
 戦の訓練も受けていた。前田さまの指導は激しさを増していて怪我人も少なくない。織田家が滅ぶかどうかの瀬戸際だから仕方のないことだった。
 弥助さんははりきって訓練を受けていた。今では誰よりも体力がある。訓練の合間に幼馴染の話をされるのは辟易したけど、楽しそうで何よりだった。

 それから大きく変わったことがもう一つあった。

「まあ! もう西遊記をお読みになられたのですか!」
「ええ。面白くて、一気に読んでしまいました」

 お市さまは驚いたように目を見開いた。僕は気恥ずかしくなって、つい平伏してしまった。
 何故だか知らないけど、お市さまに気に入られてしまったみたいで、こうして書物を読ませていただく関係になった。池田さま曰く、大殿を見つけたからと言われたけど、いまいち実感がなかった。
 あの日以来会っていない大殿も「市が望むのなら良かろう」と許可してくださったらしい。

「次は史記をお貸ししますわ。難しいお話が多いのですが、読み応えはあると思います」
「史記? 明の歴史書ですか?」
「あら。お読みになったことがありますか?」
「いえ。名前しか知りません」

 お市さまは「なら楽しめると思います」とまるで天女のような笑みを見せた。

「雲之介さん。あなたは海を見たことありますか?」

 お市さまは書物の話以外にもこうした城の外のことを知りたがった。

「ええ。あります」
「海ってどのくらい広いのですか?」
「果てしなく、そして限りなく広いのです。まるで永久に続くように」

 お市さまは「一度でいいから、見てみたいです」と遠い目をした。

「ねえ。わたくしも――」
「それはなりませぬ」

 侍女の一人がぴしゃりと言った。中年の女性で、名前は鈴蘭らしい。

「お市さまにもしものことがあれば――」
「……分かりました」

 しょんぼりするお市さま。可哀想だった。
 いつか海を見せてあげたい。そう心に誓った。

 そうした忙しくもそれなりに充実した日々が過ぎて。
 長良川の戦いから翌年。
 信行さまが兵を挙げた――



「ああ。怖えなあちくしょう……」

 稲生原。於多井川を少し越えたところ。
 僕の隣で弥助さんが怯えていた。僕も緊張していた。
 何せ向こうは千五百人以上いるらしい。こっちは半分の七百人未満だった。
 長槍を持つ手が震える。
 藤吉郎は別の隊で戦うらしい。僕は前田さまの隊だった。

「なあ。雲之介は人を殺したことはあるか?」
「……いえ。ないです」
「……俺もだ。なんか嫌だな」

 弥助さんは首にかけていたお守りをぎゅっと握った。

「それはなんですか?」
「うん? ああ、幼馴染が作ってくれたお守りだ」

 弥助さんはようやく笑みを見せた。

「これで活躍したら武士になれるかな」
「……分かりません」
「もし武士になれなくても、あいつと添い遂げたいな」
「……そうですね。婚姻の儀のときは呼んでください」
「あはは。気が早いぞ」

 そういえば、お市さまに別れの挨拶、してなかったなあ。

「俺はこの戦に生き残る」
「はい。僕もです」
「お前を守る余裕はない。なんとかしろ」
「それも分かっています」

 そんな会話をしていると、ほら貝が鳴った。攻めかかれという命令だった。

「みなの者、いくぞ! まずは勝家を叩く!」
「おお!」

 前田さまの号令に同じ隊の者たちが応じる。僕と弥助さんも大声を出した。
 長槍を持って柴田さまの隊に列を合わせて突撃した。
 目の前には千人以上の兵たち。僕たちは丹羽長秀という人の隊と共に襲い掛かる。

「呼吸を合わせよ!」

 前田さまの言葉に従って、皆と一緒に長槍で敵を叩いた。

「えい、おう! えい、おう!」

 訓練どおりに叩く。殴る。
 向こうは怯んだ。

「槍衾!」

 前田さまの命令どおり、槍で兵を突く。僕は当たらなかったけど、弥助さんは敵の一人の脇腹を刺した。その敵は口から大量の血を吐き出した。弥助さんの顔が引きつった――

「そのまま押しつぶせ!」

 僕は無我夢中で長槍を前に突き出して走ろうと――

「い、いかん! 下がれ!」

 そのとき、空から矢が降り注いで――
 僕の右腕に突き刺さった。

「――っ!」
「雲之介!」

 痛いと思う間もなく。
 誰かに押されて。
 僕は地面に倒れ伏した。



 腕の痛みで起きた。
 起きなかったほうが良かったと、後悔した。
 誰かの下敷きから這い上がった僕の目の前に広がる光景。

 死体だった。

 矢が刺さった死体。槍で刺された死体。首の無い死体。
 そして、魂の抜け落ちた、死体。

「うっぷ……」

 思わず吐いてしまいそうな臭いと光景。

「く、雲之介……」

 死体に話しかけられた――じゃない、生きている。
 僕を下敷きにしていた人を見た。

 弥助さんだった。

「弥助さん!」

 矢がたくさん刺さっている。僕は抱きかかえて、弥助さんに言う。

「そ、そんな! まさか、あのとき、どうして庇ったんですか!?」

 生き残るって言っていたのに、どうして――

「知らねえよ……身体が動いちまった……」

 虚ろな目。焦点が定まっていない目。

「ああ……俺は死ぬのか」
「そんなこと言わないで――」
「俺は死ぬのか?」

 声は弱かったけど、目が強かった。

「……分かりません。もしかしたら死ぬかも」
「……そうか」

 ふーっと息を吐いて、弥助さんは言った。

「なあ。村の幼馴染に、伝えてくれ。約束を守れなくて、ごめんな」
「……分かりました」

 そして最期にこう言い残した。

「さっき、人を殺してしまったけど、お前を助けて、良かったよ……」

 ふっと魂が抜け出てしまったように。
 弥助さんの顔から生気が無くなった。

「あ、ああ、ああああ……」

 このとき、皮肉なことだけど。
 僕は記憶を失くしてから初めて。
 心から――死にたくないと思った。



 稲生の戦いと呼ばれる戦は大殿の勝利に終わった。そう疲れきった表情の藤吉郎から聞いた。
 嬉しいとは思えなかった。
 ただ、虚しさだけが心に残った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

和ませ屋仇討ち始末

志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。 門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。 久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。 父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。 「目に焼き付けてください」 久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。 新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。 「江戸に向かいます」 同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。 父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。 他サイトでも掲載しています 表紙は写真ACより引用しています R15は保険です

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

信長最後の五日間

石川 武義
歴史・時代
天下統一を目前にしていた信長は、1582年本能寺で明智光秀の謀反により自刃する。 その時、信長の家臣はどのような行動をしたのだろう。 信長の最後の五日間が今始まる。

武田義信は謀略で天下取りを始めるようです ~信玄「今川攻めを命じたはずの義信が、勝手に徳川を攻めてるんだが???」~

田島はる
歴史・時代
桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、武田家は外交方針の転換を余儀なくされた。 今川との婚姻を破棄して駿河侵攻を主張する信玄に、義信は待ったをかけた。 義信「此度の侵攻、それがしにお任せください!」 領地を貰うとすぐさま侵攻を始める義信。しかし、信玄の思惑とは別に義信が攻めたのは徳川領、三河だった。 信玄「ちょっ、なにやってるの!?!?!?」 信玄の意に反して、突如始まった対徳川戦。義信は持ち前の奇策と野蛮さで織田・徳川の討伐に乗り出すのだった。 かくして、武田義信の敵討ちが幕を開けるのだった。

7番目のシャルル、狂った王国にうまれて【少年期編完結】

しんの(C.Clarté)
歴史・時代
15世紀、狂王と淫妃の間に生まれた10番目の子が王位を継ぐとは誰も予想しなかった。兄王子の連続死で、不遇な王子は14歳で王太子となり、没落する王国を背負って死と血にまみれた運命をたどる。「恩人ジャンヌ・ダルクを見捨てた暗愚」と貶される一方で、「建国以来、戦乱の絶えなかった王国にはじめて平和と正義と秩序をもたらした名君」と評価されるフランス王シャルル七世の少年時代の物語。 歴史に残された記述と、筆者が受け継いだ記憶をもとに脚色したフィクションです。 【カクヨムコン7中間選考通過】【アルファポリス第7回歴史・時代小説大賞、読者投票4位】【講談社レジェンド賞最終選考作】 ※表紙絵は離雨RIU(@re_hirame)様からいただいたファンアートを使わせていただいてます。 ※重複投稿しています。 カクヨム:https://kakuyomu.jp/works/16816927859447599614 小説家になろう:https://ncode.syosetu.com/n9199ey/

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

処理中です...