残心、

橋本洋一

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「ふざけないで。まだ中学生でしょ」

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 土曜日に行なわれる黄桜高校と双葉工業との合同練習試合。
 その直前の金曜日の稽古は、比較的軽いものだった。
 指導してくれた板崎さんは「明日に疲れを残さないためだ」と言っていた。

「さて。今日でわしの指導は終わりだ。皆、よく頑張ってくれた」

 体育館で正座して板崎さんの話を聞く、鈴木を含めた俺たち六人の部員。
 角谷先輩が「板崎さんのおかげです」と代表して言ってくれた。

「俺たち、物凄く強くなれたと思います。これならひょっとすると勝てるかもしれない」
「かもしれない、ではない。勝つつもりで挑め」

 相変わらず厳しいなと眉間に皺を寄せた板崎さんの顔を見ていると、不意に表情を緩めて「勝てるように、わしはお前たちを鍛えた」と笑った。
 その笑みは穏やかなものだったので、思わず俺たちは顔を見合わせた。

「不安に思うかもしれん。だがわしの指導に耐えたのだ。自信を持て」
「高橋さんや先輩方はともかく、僕は強くなったとは……」

 金井が恐る恐る言うと「そんなことはない」と板崎さんは否定した。
 しかし言葉とは裏腹に口調はとても優しいものだった。

「この中で一番伸びたのは、間違いなくお前だよ、金井。それはわしが保証する」
「板崎さん……」
「ま、この中ではそれが分かりにくいと思うがな」

 同じ指導を受けているので、どれだけ自分が伸びたのかは分かりにくいのは当たり前だった。
 でも、金井は俺や他の先輩から一本取れるようになっていた。前はまったく取れなかったのに。
 だから板崎さんの言うとおり、強くなったと誇っていいと思う。

「板崎さん。明日は、一緒について来てくれるんですか?」

 角谷先輩の質問に板崎さんは首を横に振った。

「いや。観戦するがお前たちの味方はできない。黄桜高校にも指導している立場だからな」
「できれば監督としていてくれたら心強いんですけど」
「心配するな。お前たちは十分に強い。技量だけではなく、心もな」

 滅多に人を褒めない板崎さんが素直な物言いをするので、俺たちは戸惑っていた。
 板崎さんは立ち上がって「年寄りの出る幕もおしまいだ」と呟く。

「後はお前たちの力だけで戦うんだ」
「…………」
「もし、不安に思うのなら――」

 板崎さんは不敵に笑った。
 年に似合わないガキ大将みたいな笑い方だった。

「目を瞑って、この三週間の稽古を思い出してみろ」

 言われたとおり、目を瞑って思い返す。
 ……全身から汗が噴き出た。

「うわあああ! なんだこれ……」
「もう二度と振り返りたくない!」
「よく耐えられたな……」
「これで強くならなかったらおかしい!」

 口々に出るのはつらい稽古の感想。
 そして――

「ああそうだ。今までの稽古で培った強さに自信を持て」

 板崎さんはそれだけ言い残して、体育館を出た。
 出る前に一礼をしたけど、俺たちにはそれ以上、何も言わなかった。

「……改めてとんでもないじいさんだったな」

 飛田先輩の言葉に全員頷いた。

「みんな。練習も終わったし、きちんと水分補給して休んで!」

 鈴木がみんなの分の水筒を俺たちに差し出す。
 俺たちは受け取って、久しぶりの鈴木手作りのスポドリを飲む。

「あー、美味しい! 鈴木さん、いつも助かるよ」
「あは。みんな気に入ってくれて嬉しいです」

 角谷先輩と鈴木が話しているのを余所に、俺はモップを使って体育館を掃除した。
 今までお世話になった体育館だ。
 きちんと綺麗にしないとな。

「高橋。明日は団体戦になる。その順番なんだが……」

 飛田先輩が俺に話しかけてきた。
 そういえば、順番はかなり重要だ。個人戦と違って誰がどの順で出るのかによって、勝敗は大きく変わる。

「基本的に香田、俺、お前、金井、角谷の順がいいと思うんだが」
「そうですね……それでいいと思います」
「だけど、黄桜高校のときはお前が先鋒だ」
「どうしてですか?」
「お前の因縁の相手……鷲尾だっけ? あいつと戦えるように根回ししといたんだよ」
「根回し……どうやってですか?」

 飛田先輩は「黄桜高校の三村先生に頼んだ」とさらっと言った。

「高橋は先鋒で出ますって言っておいた。そしたら先方も鷲尾を先鋒で出すって」
「……そうですか」
「これなら必ず、お前と鷲尾は当たることになる。だけど気を抜くなよ? 鷲尾に勝ってもまだ試合は続くんだからな」

 剣道の試合は勝ち抜き戦だ。俺が負けない限り試合し続けなければいけない。
 俺は飛田先輩に「ありがとうございます」と頭を下げた。

「鷲尾と戦わせてくれて、嬉しいです」
「気にすんな。それよりも明日は気合入れろよ?」

 ぽんと肩を叩いて、飛田先輩も掃除をし始めた。
 明日、鷲尾と戦える。
 そう思うと少しだけ緊張したけど、それよりも嬉しさが勝った。


◆◇◆◇


 その日の夕方。
 真っ直ぐ家に帰ろうとしたけど、鈴木に「ちょっと付き合ってほしいの」と言われた。
 何でも妹と会うから一緒に来てほしいということだった。

「高橋くんに頼むのもどうかと思うけど、頼れる人いなくて」
「俺は頼れる人なのか?」
「当たり前だよ。これでも私、信用しているんだからね」

 いつも飄々としている鈴木にしては珍しくしおらしかった。
 その様子が妙に物悲しいから、俺は了承した。

 鈴木の妹は俺の地元の中学に通っているらしい。
 鈴木のお母さんのほうと暮らしているようだ。
 俺の家の最寄りの駅のファミレスで鈴木と一緒に待っていると、そこにあの久美子が現れた。

「うん? えっと……高橋先輩でしたっけ?」
「なんだお前。鈴木の妹だったのか」
「えっ? 二人知り合いだったの?」

 一応、事情をそれぞれに話すと鈴木は口を尖らせて「なんだか複雑」と不満を言った。

「私が慰めようと思ったのに。だからあんなに元気になっていたんだね」
「別に私は慰めようと思っていなかったけどね。それよりも高橋先輩と姉さんが友達なんて、びっくり仰天だ」

 二人の顔を見比べると、そっくりだとは言わないけど、どこか面影がある。
 すると久美子が「それで姉さん。話ってなんなの?」と切り出した。

「うん。実は離婚のことだけど。本当にいいの? ママと暮らすのは」
「いいよ。もうそういう風に話進んでいるんでしょ?」
「だけど、名字変わっちゃうよ?」
「今どき珍しくないよ。鈴木から原田になるだけだし」

 鈴木は「私、あなたのことを心配しているの」と静かに言った。

「ちゃんとママと二人で生活できるのかとか」
「パパが養育費払ってくれれば大丈夫だよ。それより姉さんのほうは平気なの?」
「私は高校生だから。いざとなったらバイトもするし」
「ふうん。それなら互いにいいじゃない」

 久美子のほうがドライなのは会話を聞いていてよく分かる。
 俺はなんで付き合わされたのかよく分からないまま、ドリンクバーのジュースを飲んだ。

「それより、なんで高橋先輩がいるの? まさか、二人付き合っているの?」

 本日二度目の誤解に俺は「違う。付き合っていない」と言った――鈴木が睨みつけてきた。

「……なんでそんな目するんだ?」
「あっさり否定されると傷つくんだよ」
「否定しなかったらややこしくなるだろうが」

 久美子は俺たちのやりとりをにやにや見ていた。

「ふうん。じゃあ高橋先輩、私と付き合ってくれますか?」
「……何言っているんだ、お前?」
「あ、姉さん。ちょっと嫌だなあって思ったでしょ?」

 鈴木を見ると少し不機嫌になっている。
 意味が分からない。

「ふざけないで。まだ中学生でしょ」
「一歳しか変わらないじゃない。あ、ひょっとして、嫉妬しているの?」
「おい、久美子。姉をからかうなよ」

 見ていられなくなったので収めるために言ったのだけど。
 鈴木はますます俺のほうを睨みつけてきた。

「だからなんで俺を睨むんだよ……」
「今、久美子って言った」
「……それがなんだよ」
「私のこと、鈴木って言うのに、久美子のことは名前で呼ぶんだね」
「面倒くせえなあ!」

 その後、鈴木を宥めた俺は、大事な明日を控えているのに、精神的に疲労困憊になってしまった。
 帰り際に久美子が「明日の試合、私も見に行きますね」と言ってきた。

「もちろん、ゆかりと一緒に行きますよ」
「ああ、歓迎するよ」

 ますます負けられない戦いになってきた。
 しかし重圧よりも楽しみが強いのは変わりなかった。
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