残心、

橋本洋一

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「ありがとうな。少しだけ前に進めそうだ」

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 鈴木に覚悟を問われた後、俺は剣道部で稽古をしていた。
 これから交流試合まで死に物狂いで鍛えなければならないのだけど――

「……身が入っていないようだな」

 板崎さんにそう言われるのも無理はない。
 この日の俺は酷いものだった。
 気合や熱意の無い、へなちょこな剣道しかできなかった。
 いや、無いのは信念なのかもしれない。

「この前のことが堪えたのか」
「…………」

 他の部員も手を止めて、板崎さんと俺を見る。
 鈴木は興味深そうに見ている。

「今日はもう下がっていい。だが、明日からちゃんとしろ。いいな?」
「……はい」

 腑抜けた俺に教えても無駄ということらしい。
 俺も稽古したくなかった。
 剣道をしているとどうしても――鷲尾のことを考えてしまう。

「失礼します」

 他の部員は続けて稽古する。
 着替え終わった俺は、体育館を一礼して出て行く。
 鈴木は稽古中、何も言ってくれなかった。

 盛大に落ち込みながら、電車に乗って、地元まで帰ってきた。
 いつもより時間が早かったせいか、同じく下校途中の中学生がまばらだがいた。
 俺が卒業した中学の生徒だ。

 知り合いに会いたくないなと思っていると、後ろから「高橋先輩!」と声をかけられた。
 反射的に振り返ると、そこには鷲尾の妹、ゆかりがいた。
 下校途中らしく、手にはカバンを、背中には竹刀袋を背負っている。

 その表情は大事な物を壊された子供のように切ないものだった。
 無いはずの左腕がずきりと痛んだ。

「……ゆかり、か」
「……えっと、その……奇遇、ですね」

 久しぶりに会ったゆかりはすらりと背が伸びていて、短かった髪が長くなっている。
 笑っているが、どこか引きつっている。
 声をかけたのはいいが、何を話せばよいのか、よく分からないみたいだ。

「ゆかり。誰、その人?」

 ゆかりは一人ではなかった。
 隣にはゆかりよりも背の高い女子がいた。
 こちらは短髪で日焼けをしている、運動系の部活に入っていそうな雰囲気があった。
 どこかで見たことがありそうだが、思い出せない。
 彼女は怪訝そうに俺とゆかりを交互に見ていた。

「た、高橋、先輩……」
「高橋? ……あの高橋先輩?」
「う、うん……」

 その女子は「あんたの口から、高橋って名前、聞いたことあったわ」と思い出したように言う。

「一時期、落ち込んでいたもんね。自分のせいだって、責めてて」
「…………」

 今にも泣きそうな顔になったゆかり。
 慌てて俺が「あれはお前のせいじゃない」と言った。

「悪いのは事故を起こした運転手だ。お前が責任を感じることはない」
「でも、でも……」

 大粒の涙がぽろぽろと落ちる。
 し、しまった。年下の女の子を泣かせてしまった。

「ほら。泣かないの。高橋先輩、困っているでしょ」
「うううう。クミちゃん……」

 クミ――それが名前らしい――がポケットからハンカチを取り出すと、ゆかりに渡した。
 それから俺のほうを見て「高橋先輩」とやけに低い声音で言う。

「な、なんだよ」
「少し、お話聞かせてください」

 ゆかりとはあまり話したくない。
 何を話せばいいのか、まるで分からなかったからだ。

「い、いや。ちょっと忙しい――」
「いいから。お時間とらせませんよ」

 ずかずかと近づいて、クミは俺の右手首を取った。
 そしてそのまま引きずる――なんて力だ。

「放せ……! 嫌だと言っているだろう!」
「嫌なら振り払えば良いでしょう」
「振り払えるか! すげえ力じゃねえか!」

 クミは苛立った顔で「本当に嫌なら両手使えばいいでしょう」と言って俺を見る。

「片手しかないわけじゃ――」
「ああ、そうだ。俺は片手しかない!」

 そこでようやく、クミは気づいたようだった。
 俺が片腕ということを。
 息を飲んで、反射的に手を放したクミ。

「……すみませんでした」

 言い訳もせず、潔く頭を下げるクミ。
 その後ろでゆかりは号泣していた。
 しくしくとしゃくりあげて、流れる涙を手で押さえている。

「もしかして、その腕が原因なんですか?」

 クミは曖昧な質問をしてきたけど、俺には明確に分かった。

「ああ、そうだ。言っておくが、ゆかりのせいじゃない」
「じゃあなんで……」

 そのやりとりでゆかりが大声で喚き出した。

「私のせいなの! 私があのとき、あのとき――」
「ああもう! 分かったから!」

 ゆかりを抱き締めて、背中をさすってよしよしとするクミ。
 それから「経緯を聞かせてください」と俺に言う。

「ゆかりの友達として、こんなに苦しんでいるこいつをほっとけないんですよ」

 その言葉に心を締め付けられる。
 だから俺は――頷いてしまった。

「分かった。話すよ」
「そうですか……ここではなんですから、場所を変えましょう」

 確かに、下校途中の中学生の数人がこっちを見ている。
 ひそひそと遠巻きに呟いていた。

「そうだな。いい場所あるか?」
「近くに公園あります。そこで話しましょう」


◆◇◆◇


 俺は二人にスポーツドリンクを自販機で買って渡した。
 正確にはクミに金を渡して買わせたのだが、そんなことはどうでもいいだろう。

 俺はベンチに座って、経緯を話した。
 ゆかりは泣きじゃくって、俺の話に一切口出ししなかった。

「――というわけだ。ゆかり、どこか違ったところ、あるか?」
「……ううん。ないです」

 以前はタメ口だったのに、すっかり敬語になってしまった。
 それがどこか淋しかった。

「大体のことは分かりました」

 相槌を打つ以外、静かに聞いていたクミ。
 そして――

「誰も悪くないですね。いや、気にし過ぎだと思いますよ」

 クミはばっさりと俺とゆかりの悩みを切り捨てた。
 呆気に取られて何も言えない俺とゆかり。

「だって事故に遭ったのは運転手が居眠りしていたからでしょう? 気をつけようがないですよ」
「そ、それはそうだが――」
「ゆかりのお兄さんが、倉庫の鍵を閉め忘れたのは、そりゃあ悪いことですけど、申し出たのは高橋先輩じゃないですか。だから責任を感じることはないです」

 明快な解答に俺は言葉を噤んでしまう。
 さらにクミは続けた。

「まあ悪いとしたら高橋先輩のほうかもしれませんね。何らかの説明を鷲尾先輩や剣道部のみんな、そしてゆかりにするべきだった……私はそう思います」
「そう、だな。説明不足だった」

 俺はゆかりに頭を下げた。

「すまなかった。きちんと言うべきだった。お前と鷲尾のせいじゃないって」
「……高橋、先輩」
「本当に、ごめんな」

 頭を下げ続けていると「ゆかり。あんたからも言いな」とクミは言う。

「自分の思っていることを、言いなさい。今しかないんだから」
「……高橋先輩、頭を上げてください」

 俺が頭を上げると、ゆかりはまた涙目になりながら「私のほうこそ、ごめんなさい」と謝ってきた。

「私が、余計なこと、言わなかったら……事故の後も、ごめんなさいって、言えなくて……」
「……ゆかり」
「本当に、ごめんなさい……!」

 俺は自分の仕出かしたことをようやく理解できた。
 ゆかりは今まで苦しんできたんだな。

「これで一件落着ですね。ああ、良かった」

 クミがほっとした顔で言う。
 でも俺はこれで終わったとは思わなかった。

「いや、まだ決着がついていない」
「うん? どういうことです?」
「鷲尾とまだ、和解できていない」

 俺はゆかりに自分が鷲尾と戦うことを告げた。
 するとゆかりは「高橋先輩、また剣道始めたんだ」と複雑そうな顔をした。

「ああ。鷲尾に俺はまだ、謝れていない。でも、あいつに勝てれば言えるかもしれない」
「それはどうして?」
「片腕になっても、剣道ができるってことを証明するためだ」

 俺はゆかりと話して、自分のやるべきことが見つかった。
 鷲尾と仲直りすることだった。

「証明すれば、あいつと俺の互いが思っている罪悪感は無くなるはずだ」
「……そうだね。高橋先輩なら、証明できるかも」

 にっこりと笑うゆかり。
 敬語も無くなって、昔に戻ったようだった。

「ありがとうな。少しだけ前に進めそうだ」
「それは良かったですね」

 クミはにっこりと笑って「ジュース、ご馳走様でした」と笑った。

「あ、そういえば。お前の名前、クミって言うのか?」
「ああ、正確には久美子ですけどね」

 クミというのは仇名らしい。
 彼女は立ち上がって、近くのゴミ箱に空き缶を投げて入れた。

「鈴木久美子っていいます」

 鈴木……珍しい名字じゃないが……まさかな。

「そうか。ありがとう」
「いえいえ。それじゃ私たちは帰りますね」

 ゆかりはたくさんのありがとうと頑張ってを俺に言ってくれた。
 一人になった俺は、改めて決意をする。
 片腕でも強くなれるって、証明してやると。
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