残心、

橋本洋一

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「俺が聞きたいのは、そんな言葉じゃない!」

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 事故の記憶は残っていないが、直前の記憶は覚えている。
 その日は、鷲尾とその妹で女子剣道部のゆかりと一緒に下校していた。
 夕方なのにうだるような暑い日だった。

「お兄ちゃん。練習で疲れているのは分かるけど、早く帰ろうよ。お父さん、久しぶりに帰ってくるんだから」

 兄によく似ている顔立ちのゆかりが、くたくたになっている鷲尾の腕を引っ張って、無理矢理急がせていた。
 鷲尾は「分かってるって」と言いながらゆったりとした歩調を変えない。
 俺は二人の父親が海外に単身赴任していて、約一年ぶりの再会だと知っていた。

「……あ、やべ。倉庫の鍵閉めるの忘れた」

 鷲尾がばつの悪い顔をして、足を止めた。
 ゆかりは「ええ? 先生に怒られちゃうよ!」と喚いた。

「学校に戻る。お前は先に帰ってくれ」
「お父さん、明日には帰っちゃうんだよ!」
「でも、閉めないと不味いだろ」

 兄妹が言い合う中、俺が「じゃあ俺が閉めてくる」と提案した。
 そう、提案したのは俺だった。

「そうか? 悪いな。後で埋め合わせするよ」
「なんか奢ってくれるのか? それでいいぜ」

 鷲尾は「頼んだぜ」と託した。
 ゆかりは「ありがとう」と礼を言った。

 それは厚意からだった。
 だから気に病む必要はないのに。

 青信号で俺は横断歩道を渡った。
 だけど、トラックが突っ込んできた。
 おそらく避けることができなかったのだろう。

 推測しかできないのは、直後の記憶がないから。
 そしてあの日以来、俺は鷲尾と話していない――


◆◇◆◇


 目の前の親友は一年ほど前とだいぶ変わっていた。
 端整な顔立ちは変わらないが、身体が引き締まった印象を受ける。
 頭は坊さんのようにつるつると剃っている。以前は短髪だったのに。

 鷲尾は俺に久しぶりと言ったきり、何も話さなかった。
 俺も返答した後、何も言えなかった。

「……おい、高橋。誰だよそいつ。知り合いみたいだが」

 怪訝に思ったであろう飛田先輩が俺に訊ねる。
 他の部員も俺の反応に戸惑っているらしい。

「……中学の同級生で、剣道部だった鷲尾です」

 俺が鷲尾から目を切らずに紹介すると、金井がひどく驚いた声で「鷲尾ですか!?」と言った。

「全中で活躍した、あの鷲尾翔ですか!?」
「……強いのか? そいつは」

 香田先輩の不思議そうな声に「そりゃ、強いですよ!」と金井がさらに説明しようとして――

「……やめてくれ。高橋の前で、そんなこと言わないでくれ」

 まるで痛みを堪えているような、とても耐えられそうになさそうな、苦しみに満ちた声に、金井は口をつぐんだ。

 鷲尾は今にも泣きそうで、その場から逃げ出したそうだった。

「俺は、そいつの前で……何も言われたくない」
「鷲尾……」

 俺は何か声をかけようとして――何もかけられないことに気づいた。
 お前のせいじゃないって言いたいけど、鷲尾にとって、そんな言葉は何の意味を持たない。

「三村先生。どうしてここに俺を連れてきたんですか?」

 三村さんを責める口調で鷲尾は言った。
 それだけは三村さんのせいだと言っているようだった。

「さっきも言いましたけど、悪趣味にも程があります」
「……入学してから、稽古に身が入ってないと思ってね」

 三村さんはあくまでもクールに言った。
 子供に責められても、何も感じないという態度だった。

「だから会わせたんだ。今でも剣道をしている、高橋くんにね」
「…………」
「彼に言いたいことがあるなら、今言いなさい」

 三村さんは突き放した。
 精神的に突き飛ばしたのだ。

 鷲尾は下を向いて、何も言えずにいた。
 俺もなんて言えばいいのか、分からなかった。

「……三村。もういいだろう。その子を連れて帰れ」

 板崎さんが俺たちの様子を見かねて言った。
 三村さんは「先生がおっしゃるなら、帰ります」とあっさり引き下がった。
 まるで俺たちが話せないと分かっていたようだった。

「でも、これだけは言っておく。鷲尾くん、あなたは向き合わないといけない」

 三村さんは教師だ。
 だから生徒を導くのが仕事だ。

「あなたのため、そして高橋くんのためにもなるの」
「……三村先生の言っていることは分かります」

 鷲尾は覚悟を決めたように、俺に言った。

「お前、そんな身体で剣道できるのかよ」
「……できていると思う」
「ふざけんな。左腕があったときのほうが強いだろう」

 堰を切ったように鷲尾は俺に言う。

「どうして俺を責めない? どうして他の部員に理由を言わなかった?」
「…………」
「どうして――俺たちから離れたんだよ?」

 それは――申し訳なかったからだ。
 鷲尾は個人で全中に行けたけど、他のみんなは準決勝で敗れて、行けなかった。
 もし俺が大会を欠場しなかったら――
 もし俺が左腕を欠損しなかったら――

「なあ。答えてくれよ……」

 鷲尾の目から涙が零れた。
 俺は――

「……すまなかった」

 謝ることしかできなかった。

「俺が聞きたいのは、そんな言葉じゃない!」

 鷲尾の悲鳴のような怒りの声。
 結局、俺は――変われなかった。


◆◇◆◇


「この前は大変だったねえ」

 月曜日、放課後。
 屋上で鈴木が俺のことを笑っていた。

 あれから鷲尾は、何も言わずに帰ってしまった。
 他の剣道部員は、何がなんだか分からないようだったけど、俺と鷲尾に何かしらの因縁があることは分かったらしい。

 角谷先輩は俺に深く同情した。
 飛田先輩は俺に説明を求めた。
 香田先輩は興味なさそうだったし、金井はよく分かっていないようだった。

 三村さんは帰り際、俺に言った。

「交流試合には鷲尾も出すよ。そしてあなたと戦わせる」

 俺は「どうしてそこまで俺に――俺たちに構うんですか?」と質問した。
 三村さんははにかんだ表情で言う。

「なんていうかな。見ていられないんだよ。若くて将来有望な子が、悩んでいる姿が」
「それは――おせっかいじゃないんですか?」
「迷惑だったかな? でも私は続けるよ、おせっかいを」

 今思えばはぐらかされていたけど、そのときは余裕が無くて、気づけなかった。

「それでさ。高橋くんはどうするの?」

 鈴木の言葉で現実に戻される。
 目を背けたくなるような、現実に。

「高橋くん、戦うんでしょ」
「……そのつもりで稽古してきたけどな」

 俺は鷲尾と戦うつもりで稽古に励んでいた。
 でも実際会うと、ちっぽけな覚悟は消し飛んでしまった。

「はっきり言えば、戦いたくない」
「…………」
「逃げ出したい気持ちだ」

 鈴木に本音を言うと「そんなの許されないって分かるよね」と笑われた。

「剣道部を引っ掻き回して試合に臨ませた。それなのに逃げるなんて。しかも鷲尾くんにしこりを残すような真似だもんね」
「……分かっているよ」
「分かっていない。だからそんなこと言えるんだよ」

 いつになく厳しいことを鈴木は言う。
 いや、俺が情けないだけか。

 中学の剣道部のみんなから逃げて、今もまた逃げ出したなら。
 俺は過去の反省から何も学んでいないことになる。
 本当に――だせえ話だ。

「しょうがないなあ、高橋くんは」

 鈴木は俺に近づいてきた。
 その顔は笑っていた。
 こんな状況で、笑っていた。

「今の高橋くん、格好悪いよ」
「分かっているよ」
「分かっているなら、無理矢理でも格好つけてよ」

 鈴木は笑いながら言う。
 俺は笑えない。

「虚勢でもいいから、格好良くならないと」
「どうすればいいのか、分からないんだよ」

 俺は弱音を吐いた。
 目の前の鈴木に向かって、弱い心を晒した。

「俺は戦えない。覚悟が無くなった、決心も鈍った。もうどうしていいのか、分からないんだよ」

 屋上に薫風が漂った。
 鈴木はふうっと溜息をついて。

「ねえ、高橋くん――」
「なんだよ?」

 俺に――質問した。

「生きるってどういうことだろうね?」
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