上 下
58 / 159

前兆

しおりを挟む
「ほう。信長が領地を渡すと言っているのか?」
「ええ。信安と信賢との戦いに援軍として参戦してくださればの話ですが」

 尾張国の北、犬山城の一室。
 その城主である織田信清と成政は交渉していた。
 兵力で劣る信長してみれば、少しでも味方が欲しいところであった。

「わしが、先代の信秀と何度も戦ったことは、知っておろうな?」

 信清は真ん丸な目玉をした男である。瞳孔が開いていると錯覚してしまいそうなほど、大きく見開いていた。それが特徴的で他の部位は印象に残らない。口髭を生やしてはいるが、その生えかたと丸い目でどうもなまずのように思えてしまう。

「ええ、存じております」
「ならば、わしの答えは分かっているだろう。断る」

 断固として頷くことはないという態度。
 だが、成政もこのままでは引き下がれない。
 帰ってしまったら、ただの子供の使いと変わりが無い。

「理由は――先代と対立していたから、ですか?」
「それ以外にも理由はある。それは信長が信用ならんということだ」

 信長が信用ならない。
 成政は「尾張の大うつけと呼ばれていたのは遠い昔のことです」と言う。

「今は尾張国の覇者にならんと――」
「わしが信用ならんのは、そこだ。それこそが信長は他人を昔から欺いていた証拠ではないか」

 成政はそういう見方もあるのかと唸った。
 信長が成長してうつけから脱却したと考えず、信清が言ったように周囲を騙していたと考える。
 流石に尾張国で小規模ながら独立勢力で居続けた男である。

「今、領地を渡すと言ったが、いずれわしを滅ぼすつもりではないのか?」
「殿の考えることは、家臣の私では推し量れません」
「否定はせぬのか。だとすれば、信長に味方する道理はない」

 話は以上だと言わんばかりに手で追い払う仕草をする信清。
 成政は「では、こう考えてみるのはいかがですか?」と引き下がった。

「信安は、あなたに援軍を頼みましたか?」
「……兵力の多い信安には不要だろう」
「不要? それは兵力だけの話でしょうか?」

 成政の言葉に目をさらに大きくして「何が言いたい?」と問う信清。

「織田伊勢守家が、わしを攻め滅ぼすと言うのか?」
「そこまでは言いませんが、おそらく臣従させようとするでしょうね」

 成政はここに狙いを絞るしかないと考えた。

「もし殿が負けてしまえば、尾張国は織田伊勢守家のものになるでしょう。そうなれば北で独立勢力だったあなた様はどうなると思いますか?」
「それは――」
「言葉を選ばずに言えば、目障りな存在になる」

 信清は成政を無礼者と怒ったりしなかった。
 ただ黙って話を聞いている。

「織田伊勢守家の基盤は尾張国の上四郡、つまり北です。尾張国を統一しようと思ったら、まずは北から固めるのが定石でしょう。しかし我が殿は尾張国の南に本拠地があります。信清様とは敵対しないでしょう」
「……だが尾張国を統一すれば、いずれわしを滅ぼさんとしないか?」

 成政は「それはないでしょう」と断言した。

「滅ぼす相手に対して、領地を与えようと思いますか?」
「…………」
「滅ぼしづらくなりませんか?」

 成政は声に出さずに欺瞞だなと思った。尾張国を統一してしまえば、多少領地が増えても滅ぼそうと思えばできる。それに信長の次の目標は美濃国だから、いずれは臣従させるか滅ぼすことになる。

 要は信清を言葉巧みに騙せるかどうかの問題である。
 そしてそれは半分成功していた。信清は自分の利益を考えているが、進退までは考え切れていない。彼の尺度では尾張国を統一した後のことは推し量れないのだ。

「……信長は、本当に領土を譲るのだな」
「ええ。間違いありません。必ず渡すでしょう」

 ここで二人の間に齟齬が起きていた。
 信清は『譲る』と言った。つまり自分は信長と立場は対等だと思っている。
 しかし成政は『渡す』と言った。つまり信清を臣下にしようという信長の意図を暗に告げている。

 成政は気づいているが、信清は気づいていなかった。
 いや、成政はわざとそういう風に交渉を進めていた。

「……分かった。信長に援軍を出そう」

 信清が決断したとき、成政は織田伊勢守家との戦いに勝てることを確信した。
 これで信長は尾張国の覇者となれる――


◆◇◆◇


 成政の交渉がまとまった頃、利家は末森城の城下にある柴田勝家の屋敷にいた。
 広い部屋で白湯を出され、柴田が来るのを待つ。
 いかにも武人の部屋という印象。奢侈な調度品はなく、質実剛健という言葉が似合う。

「待たせたな、利家」

 襖が開いて柴田が部屋に入る。
 もちろん、鎧姿ではなく、略服を着ていた。
 利家は鎧姿の柴田しか見ていなかったので、新鮮に見えた。

「突然の来訪、申し訳ございません」
「いやいや。ちょうど暇をしていたのだ」

 利家は怪訝な表情で「暇、ですか?」と訊ねた。

「柴田様は信行様――失礼しました、信勝様の家老ではありませんか?」
「ああ。しかしわしは根っからの武人だ。政務のことが津々木に任せている」
「津々木って……信勝様の側近ですよね?」

 柴田はそこで淋しそうに微笑んだ。
 それは利家の胸を締め付けるような切ないものだった。

「いいんですか? 側近に政務を任せるって――」
「わしはどうやら、信勝様の信用を失くしてしまったらしい。会話もほとんどできていない。ま、戦に負けたのだから仕方ないが」
「たった一回、負けただけじゃないですか。そんなことをしたら――」
「ふふふ。勝ったほうが同情するとは。おかしな話だ」

 柴田が可笑しそうに笑って、それから利家に「酒は飲めるか?」と問う。

「ええ。人並みには」
「今日は飲もう。良い酒があるのだ」

 柴田が侍女と下人に命じて酒と肴を用意する。
 利家は杯を上げて、少しずつ飲んだ。

「……美味い」
「はは。酒の味が分かるか」
「殿と違って下戸じゃありませんから」
「そうか。信勝様はお強かったが」

 強い酒にも関わらず、柴田は豪快に飲み干した。
 なかなか強いなと利家も少し口に含んだ。

「それで、何の用でここに来た?」
「えっと、殿が信勝様の改名の理由を、柴田様に聞けと」

 利家は何の考えもなしに、正直に告げた。
 柴田は「そんなこと、わしが知るはずなかろう」と困った顔をした。

「改名したときぐらいから、粗略に扱われ出したのだ」
「ふうむ。よく分かりませんね」
「……本当にそれだけか?」

 柴田が逆に探るように言ったが、利家はあっけらかんと「それだけですよ」と笑った。

「俺は探るとか交渉とか向かないんですよ」
「まあな。お前は真っ直ぐな男だからな」
「ありがとうございます」

 利家はしばらく、柴田と何気ない会話をしていた。
 戦や武芸のことが中心だったが、ふとした流れで嫁の話になった。

「利家。お前は嫁を貰わないのか?」
「……それ、可成の兄いにも聞かれましたよ」

 利家は酔った頭で考える。
 浮かんだのは、何故かまつの顔だった。
 あの月夜で、慰めてくれたまつの温もりを思い出していた。

「まあ、近いうちに婚姻すると思います」
「そうか。それは何よりだ。守る者があれば、お前は強くなる」
「柴田様はどうなんですか?」

 それは何気ない問いだった。
 何の意図もなかった。
 だが柴田の表情が少し曇ったのを利家は見逃さなかった。

「……柴田様?」
「あ、ああ。わしは嫁を貰わんよ」
「それは、どうしてですか?」
「わしは罪を犯したからな」

 罪を犯したという意味は分からなかったが、柴田がそれ以上聞かれたくないことを察した利家は「そうですか」とだけ答えた。

「柴田様は、嫁を貰わなくても、十分お強いですから」
「……がはは、こそばゆいことを言いおって!」

 利家は酒を飲みつつ前世の父親が生きていたら、こんな風に酒を飲むのかと考えていた。
 ある意味、前世で果たせなかったことができたなと、柴田に感謝した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

デリバリー・デイジー

SoftCareer
キャラ文芸
ワケ有りデリヘル嬢デイジーさんの奮闘記。 これを読むと君もデリヘルに行きたくなるかも。いや、行くんじゃなくて呼ぶんだったわ……あっ、本作品はR-15ですが、デリヘル嬢は18歳にならないと呼んじゃだめだからね。 ※もちろん、内容は百%フィクションですよ!

ニンジャマスター・ダイヤ

竹井ゴールド
キャラ文芸
 沖縄県の手塚島で育った母子家庭の手塚大也は実母の死によって、東京の遠縁の大鳥家に引き取られる事となった。  大鳥家は大鳥コンツェルンの創業一族で、裏では日本を陰から守る政府機関・大鳥忍軍を率いる忍者一族だった。  沖縄県の手塚島で忍者の修行をして育った大也は東京に出て、忍者の争いに否応なく巻き込まれるのだった。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

転校先は着ぐるみ美少女学級? 楽しい全寮制高校生活ダイアリー

ジャン・幸田
キャラ文芸
 いじめられ引きこもりになっていた高校生・安野徹治。誰かよくわからない教育カウンセラーの勧めで全寮制の高校に転校した。しかし、そこの生徒はみんなコスプレをしていた?  徹治は卒業まで一般生徒でいられるのか? それにしてもなんで普通のかっこうしないのだろう、みんな!

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

処理中です...