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渦巻く思い
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位牌に投げつけられた抹香は、平手政秀や帰蝶、土田御前や信行、そして集まった参列者たちが見る中、ゆっくりと床に落ちていく。誰も口を聞けないほど驚愕し、誰一人動くことができずに呆然とする。
そんな静まり返った萬松寺の本堂の中で、信長は呼吸を荒くしていた。実を言えば内蔵助には位牌に抹香をぶつけることなど提案されていなかった。ただ無礼な振る舞いをしてみればどうかと提案されただけだった。信長も葬儀で相応しくない格好をするだけで済まそうと思っていた。
しかし、位牌の前に立ったとき、今までの思いが溢れ出し、彼の感情は爆発してしまったのだ。
「わ、若様! なんということを――」
平手が慌てて駆け寄る。叱るとか諌めるなど頭になかった。ただ後見役として奇行の意味を訊ねたかった。
信長はそんな平手を無視した。顔を伏せて「那古野城に帰る」と一言だけ言って、踵を返す。ここにいる必要はないと言わんばかりの素振りだった。
「……なんという愚かなことを! 信長、お待ちなさい!」
引きつった顔で金切り声をあげる母親の土田御前。信長はその声すら耳を傾けることはなかった。
そのまま外に出て、寺の前に置いた馬に乗って、追いかけてきた平手を残して駆け出した。
「若様……私は、あなたが分からなくなりました……」
平手の呟きを聞いていたのは、同じく夫を追いかけていた帰蝶だけだった。
彼女には後見役の平手の顔が、とても淋しそうに見えた。
「なんだ今の振る舞いは! やはりうつけだったか!」
「これでは織田弾正忠家はおしまいだな……」
参列していた家臣たちは口々に言う。失望した者、怒りを覚えた者、あからさまに不平を言う者。おそらく味方は誰もいないだろう。
「……なるほど。敵と味方、それを探るために行なったのか」
その中で一人だけ感心している者がいた。
彼は信長の行動を理解していた。彼の置かれている状況を加味した上で、全てが分かっていた。
「いずれ私も、若様――いや、殿に挨拶しなければならんな」
そう笑ったのはひょろひょろした体型の男。賢そうな顔つきをしている。
「おい。丹羽殿。こっちに来てくれ」
「かしこまりました」
名を呼ばれた男は信長のことを思いつつ、その場を後にした。
「……信行! やはり織田弾正忠家の当主に相応しいのは、あなただけです! 必ず私が、あなたに家督を継がせます!」
葬儀が終わった後、信行は怒りで身を震わせる母親に何も答えず、ただ黙って考えていた。
兄上は今まで、うつけと言われながらも父上の政務を手伝っていた。その成果は目を見張るものだと賢い彼にも分かっていた。母親が自分を跡継ぎにしたいのは自分を可愛がっているからだとも感じていた。
しかし自分の兄がこんな振る舞いをした意図が分からない。もしもうつけだからならば、父上の死でタガが外れたのならば。
――自分が織田弾正忠家を継いだほうが良いのではないか?
信長の奇行は敵味方をはっきりさせるためだったが。
同時に少年である信行に、野心を生ませた行ないでもあった。
◆◇◆◇
那古野城で他の小姓と信長の帰りを待っている内蔵助。彼は己の主君が位牌に抹香を投げつけることを知っていた。自分で提案しなくても、信長ならばやるであろうと前世の記憶から推測していた。だから乱れた姿で行くことだけを提案したのだ。
この頃、内蔵助は『歴史の修正力』というものを実感していた。前世を知っている自分が本来の歴史とは違う行動したとして、元通りに戻ろうとする力があるのではないかと考えていた。まるで水面に小石を投じたとしても、波紋は広がるがやがて静かな水面に戻るのと同じ原理ではないか?
もしこの仮説が合っていたとしたら、今の自分の佐々成政の末路は避けられないかもしれない……ならば変えようと奮闘している自分の行動は、徒労に過ぎないのだろうか。
いや、そんなわけはない。現に竹千代と仲良くなり、松平家の家臣となることになったではないか。これは歴史に対して大きな変革だった。もちろん竹千代と仲良くなったのは、何の狙いも画策もない、ただの偶然と言うべき出来事だった。でも自分が前世の記憶を持った、目端の利く内蔵助でなかったら、歴史は変わらなかっただろう。
歴史は作られるもの。であるならば変えることは可能である。己の運命すらも――変えてみせる。そう思わなければ、内蔵助の気がおかしくなってしまいそうだった。絶対に自分の悲惨の末路を変えてみせる。そして今度こそ――幸せになってみせる。
「若様が帰ってきたぞ!」
小姓の一人、毛利新介が大声で皆を呼んだ。つらつらと物思いをしていた内蔵助も急いで城門の前に整列する。その小姓たちの中には犬千代もいた。何故か犬千代と内蔵助、二人の目が合ってしまった。いつもなら互いに逸らすのだけど、このときはじっと見つめ合ってしまう。
しかし信長は奇抜な格好で信秀の葬儀から帰ってきたことで、二人の目線はそちらに向く。信長は馬から降りて自身が勧誘した小姓の集団を見渡した。びしっと整然と並んでいる彼は主君の格好に対して何も言わない。文句や不平など言うわけがない。
「ふっ。皆良い顔だな……」
まるで眩しく光る宝物を見つめるような顔つきの信長。
そんな主君を気合の入った顔で見つめ直す小姓。
「これから、本格的に尾張国統一を目指す。皆、ついて来てくれるか?」
その問いに応じたのは、犬千代が早かった。
「当たり前ですよ! 俺たちに任せてください!」
次に応じたのは内蔵助だった。
「私たちは、あなたについて行きます。たとえどんなことがあろうとも」
さらに森可成も、池田恒興も、毛利新介も、服部小平太も、他の小姓たちも――口々に喚いた。
「俺は、殿に懸けました。一所懸命についていきます!」
「ああ。私も同じだ!」
「尾張国、絶対取りましょう!」
「若ならできますって!」
信長はにやりと笑った。この家臣たちなら敵対する守護や守護代だろうが必ず勝てると。たとえ負けたとしても、笑って死ねるだろう。これから面白くなりそうだ。
「よくぞ言った! ここから忙しくなるぞ!」
小姓たちは声を揃えて「応!」と叫んだ。
◆◇◆◇
さて。尾張の虎、信秀が死んで家督を信長が継いだことで動き出す勢力があった。それは尾張国守護の斯波家や守護代の織田大和守家や織田伊勢守家ではなく――駿河国の今川家だった。
その発端は尾張国の東、三河国との国境にある、織田家家臣であり鳴海城城主の山口教継と息子の教吉たちだった。彼らは信長を見限り、今川家に内応したのだ。その結果、葬儀から一ヵ月後に、今川家の兵を援軍として鳴海城に引き入れ、謀叛を起こす。
およそ千五百人の軍勢を擁した山口親子は信長の居城、那古野城に進軍した。
対して信長の軍勢は八百ほど――
「殿。いかがしますか?」
那古野城の評定の間にて、森可成が織田家当主である信長に訊ねる。
数の不利は言われずとも分かっていた。しかし家臣たちの顔つきは悲壮なものではなかった。むしろ戦いたくて仕方の無さそうに闘志をむき出しにしている。
「無論、出陣する」
「と、殿! こちらは敵方の半数しかおらぬのですよ!?」
平手が思わず意見する。加えて「援軍を頼んではいかがですか?」と進言する。
「いや、援軍は必要ない」
「し、しかし――」
「俺には頼りにしている家臣がいる」
そう言って信長は立ち上がった。
胸を張り、自信満々に命じた。
「出陣だ! 赤塚の地にて――山口の軍勢を叩きのめす!」
このとき、森可成などの勇将や馬廻り衆となった小姓たちは出陣したのだが、犬千代は出陣しなかった。いや、城の守りを命じられたのだった。
はっきり言って主君の晴れ舞台を間近で見たかったのだが、城の守備も大事だと彼は考えていた。これは沢彦の教えの賜物でもあった。
一方、内蔵助はこの戦いに従軍していた。彼は帰蝶が賊に襲われたときを除けば、戦場に出たことはなかった。つまり初陣である。
具足を身に付けながら、内蔵助は考えた。ここで大きな手柄を立てれば、何かが変わるかもしれない。たとえ変わらなくても、何かを見出せるかもしれない。
様々な思いを胸に彼らは戦場へと赴く。
またこの戦いは信長は今まで積み重ねてきたものは披露される場でもあった。
そんな静まり返った萬松寺の本堂の中で、信長は呼吸を荒くしていた。実を言えば内蔵助には位牌に抹香をぶつけることなど提案されていなかった。ただ無礼な振る舞いをしてみればどうかと提案されただけだった。信長も葬儀で相応しくない格好をするだけで済まそうと思っていた。
しかし、位牌の前に立ったとき、今までの思いが溢れ出し、彼の感情は爆発してしまったのだ。
「わ、若様! なんということを――」
平手が慌てて駆け寄る。叱るとか諌めるなど頭になかった。ただ後見役として奇行の意味を訊ねたかった。
信長はそんな平手を無視した。顔を伏せて「那古野城に帰る」と一言だけ言って、踵を返す。ここにいる必要はないと言わんばかりの素振りだった。
「……なんという愚かなことを! 信長、お待ちなさい!」
引きつった顔で金切り声をあげる母親の土田御前。信長はその声すら耳を傾けることはなかった。
そのまま外に出て、寺の前に置いた馬に乗って、追いかけてきた平手を残して駆け出した。
「若様……私は、あなたが分からなくなりました……」
平手の呟きを聞いていたのは、同じく夫を追いかけていた帰蝶だけだった。
彼女には後見役の平手の顔が、とても淋しそうに見えた。
「なんだ今の振る舞いは! やはりうつけだったか!」
「これでは織田弾正忠家はおしまいだな……」
参列していた家臣たちは口々に言う。失望した者、怒りを覚えた者、あからさまに不平を言う者。おそらく味方は誰もいないだろう。
「……なるほど。敵と味方、それを探るために行なったのか」
その中で一人だけ感心している者がいた。
彼は信長の行動を理解していた。彼の置かれている状況を加味した上で、全てが分かっていた。
「いずれ私も、若様――いや、殿に挨拶しなければならんな」
そう笑ったのはひょろひょろした体型の男。賢そうな顔つきをしている。
「おい。丹羽殿。こっちに来てくれ」
「かしこまりました」
名を呼ばれた男は信長のことを思いつつ、その場を後にした。
「……信行! やはり織田弾正忠家の当主に相応しいのは、あなただけです! 必ず私が、あなたに家督を継がせます!」
葬儀が終わった後、信行は怒りで身を震わせる母親に何も答えず、ただ黙って考えていた。
兄上は今まで、うつけと言われながらも父上の政務を手伝っていた。その成果は目を見張るものだと賢い彼にも分かっていた。母親が自分を跡継ぎにしたいのは自分を可愛がっているからだとも感じていた。
しかし自分の兄がこんな振る舞いをした意図が分からない。もしもうつけだからならば、父上の死でタガが外れたのならば。
――自分が織田弾正忠家を継いだほうが良いのではないか?
信長の奇行は敵味方をはっきりさせるためだったが。
同時に少年である信行に、野心を生ませた行ないでもあった。
◆◇◆◇
那古野城で他の小姓と信長の帰りを待っている内蔵助。彼は己の主君が位牌に抹香を投げつけることを知っていた。自分で提案しなくても、信長ならばやるであろうと前世の記憶から推測していた。だから乱れた姿で行くことだけを提案したのだ。
この頃、内蔵助は『歴史の修正力』というものを実感していた。前世を知っている自分が本来の歴史とは違う行動したとして、元通りに戻ろうとする力があるのではないかと考えていた。まるで水面に小石を投じたとしても、波紋は広がるがやがて静かな水面に戻るのと同じ原理ではないか?
もしこの仮説が合っていたとしたら、今の自分の佐々成政の末路は避けられないかもしれない……ならば変えようと奮闘している自分の行動は、徒労に過ぎないのだろうか。
いや、そんなわけはない。現に竹千代と仲良くなり、松平家の家臣となることになったではないか。これは歴史に対して大きな変革だった。もちろん竹千代と仲良くなったのは、何の狙いも画策もない、ただの偶然と言うべき出来事だった。でも自分が前世の記憶を持った、目端の利く内蔵助でなかったら、歴史は変わらなかっただろう。
歴史は作られるもの。であるならば変えることは可能である。己の運命すらも――変えてみせる。そう思わなければ、内蔵助の気がおかしくなってしまいそうだった。絶対に自分の悲惨の末路を変えてみせる。そして今度こそ――幸せになってみせる。
「若様が帰ってきたぞ!」
小姓の一人、毛利新介が大声で皆を呼んだ。つらつらと物思いをしていた内蔵助も急いで城門の前に整列する。その小姓たちの中には犬千代もいた。何故か犬千代と内蔵助、二人の目が合ってしまった。いつもなら互いに逸らすのだけど、このときはじっと見つめ合ってしまう。
しかし信長は奇抜な格好で信秀の葬儀から帰ってきたことで、二人の目線はそちらに向く。信長は馬から降りて自身が勧誘した小姓の集団を見渡した。びしっと整然と並んでいる彼は主君の格好に対して何も言わない。文句や不平など言うわけがない。
「ふっ。皆良い顔だな……」
まるで眩しく光る宝物を見つめるような顔つきの信長。
そんな主君を気合の入った顔で見つめ直す小姓。
「これから、本格的に尾張国統一を目指す。皆、ついて来てくれるか?」
その問いに応じたのは、犬千代が早かった。
「当たり前ですよ! 俺たちに任せてください!」
次に応じたのは内蔵助だった。
「私たちは、あなたについて行きます。たとえどんなことがあろうとも」
さらに森可成も、池田恒興も、毛利新介も、服部小平太も、他の小姓たちも――口々に喚いた。
「俺は、殿に懸けました。一所懸命についていきます!」
「ああ。私も同じだ!」
「尾張国、絶対取りましょう!」
「若ならできますって!」
信長はにやりと笑った。この家臣たちなら敵対する守護や守護代だろうが必ず勝てると。たとえ負けたとしても、笑って死ねるだろう。これから面白くなりそうだ。
「よくぞ言った! ここから忙しくなるぞ!」
小姓たちは声を揃えて「応!」と叫んだ。
◆◇◆◇
さて。尾張の虎、信秀が死んで家督を信長が継いだことで動き出す勢力があった。それは尾張国守護の斯波家や守護代の織田大和守家や織田伊勢守家ではなく――駿河国の今川家だった。
その発端は尾張国の東、三河国との国境にある、織田家家臣であり鳴海城城主の山口教継と息子の教吉たちだった。彼らは信長を見限り、今川家に内応したのだ。その結果、葬儀から一ヵ月後に、今川家の兵を援軍として鳴海城に引き入れ、謀叛を起こす。
およそ千五百人の軍勢を擁した山口親子は信長の居城、那古野城に進軍した。
対して信長の軍勢は八百ほど――
「殿。いかがしますか?」
那古野城の評定の間にて、森可成が織田家当主である信長に訊ねる。
数の不利は言われずとも分かっていた。しかし家臣たちの顔つきは悲壮なものではなかった。むしろ戦いたくて仕方の無さそうに闘志をむき出しにしている。
「無論、出陣する」
「と、殿! こちらは敵方の半数しかおらぬのですよ!?」
平手が思わず意見する。加えて「援軍を頼んではいかがですか?」と進言する。
「いや、援軍は必要ない」
「し、しかし――」
「俺には頼りにしている家臣がいる」
そう言って信長は立ち上がった。
胸を張り、自信満々に命じた。
「出陣だ! 赤塚の地にて――山口の軍勢を叩きのめす!」
このとき、森可成などの勇将や馬廻り衆となった小姓たちは出陣したのだが、犬千代は出陣しなかった。いや、城の守りを命じられたのだった。
はっきり言って主君の晴れ舞台を間近で見たかったのだが、城の守備も大事だと彼は考えていた。これは沢彦の教えの賜物でもあった。
一方、内蔵助はこの戦いに従軍していた。彼は帰蝶が賊に襲われたときを除けば、戦場に出たことはなかった。つまり初陣である。
具足を身に付けながら、内蔵助は考えた。ここで大きな手柄を立てれば、何かが変わるかもしれない。たとえ変わらなくても、何かを見出せるかもしれない。
様々な思いを胸に彼らは戦場へと赴く。
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