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「嘘とか誤魔化しとか。もう嫌なんだ」

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 雨が強くなっていた、あの日の病院。
 泣きそうな詩織の顔が、頭から離れない。
 誰かが悲しむ顔なんて、いくらでも見てきたのに。
 見慣れているはずの日常が崩れていく――

 あの人に言われて、僕は絵を描いた。
 醜悪な欲望そのものだけど、あの人はよくできていると褒め称えた。
 まるで芸術家だと無表情で言った。
 僕にはそういう才能があるらしい。
 昔と違って、まったく嬉しくなかった。

 ようやく終わって学校に行けた。
 詩織にはしばらく休むとラインで伝えていた。
 既読は着いていたけど、返事は無かった。

 教室に入ると、クラスメイトが僕と鮫田のことを訊いてくる。
 簡単に鮫田が六日市高校の生徒に大怪我をさせられたこと、そして僕は別件で休んでいたことを説明する。みんなは一応納得したけど、どこか腑に落ちない感じだった。

「あの、内藤くん。毎日、一年生の子が来ていたよ」

 クラスの女子が言いにくそうに詩織のことを僕に伝えた。

「おかしいな……しばらく来ないって言っておいたのに」
「おせっかいなことを言うけど、あの子……いないって言うと悲しそうな顔をしてた。今にも死んじゃうかもしれないような」

 大げさな言い方だけど、なんとなく想像できそうで、僕はすんなりと飲み込めた。
 それから昼休みになって、詩織がやってきた。
 僕の姿を見ると、嬉しそうな顔を一瞬だけして、それから徐々に怒りへと変化させた。
 まるで嵐の夜みたいだなと僕は思った。

 詩織はつかつかと僕に近づいて、手を大きく振り上げて――止まった。
 殴られる覚悟をしていたので、拍子抜けした気分だった。

「なんだ、殴らないのか?」
「……もういいです。内藤先輩なんて知りません」

 周りのクラスメイトがハラハラしながら僕たちを見つめていた。
 会話をやめて、様子を窺っている。

 詩織は俯いて、手に持った二人分のお弁当箱を震わせて、彼女自身、どういう気持ちなのか分からないまま、黙って立っていた。
 椅子から立ち上がって「ご飯、食べようか」と詩織を促した。

「……私、怒っているんですよ。分かっていて言っているんですか?」
「そうだね……でも僕は、文月さんと一緒にご飯が食べたい」

 詩織が弾かれたように僕を見る。
 背丈は向こうのほうが大きいから自然と見上げる形になる。

「文月さんと一緒にいると、落ち着くんだ――駄目かな?」

 我ながらずるいと思う。
 詩織は急激に赤面して、何も言えなくなった。
 クラスメイトが息を飲んで見守っている。

「ちょっと場所を変えようか」
「――っ!? 内藤先輩!?」

 僕は詩織の手を取って教室から出ようとする。
 詩織のほうが強いはずなのに、抵抗しなかった。

「どこへ行くんですか?」
「二人きりになれるところ」
「……二人きりになって、どうするんですか?」
「さあ。何も考えていないよ」

 そう言いつつ初めて詩織の手を握ったなと考える。
 柔らかくて暖かい。
 優しい女の子の手だ。


◆◇◆◇


 二人きりになれる場所は高校の屋上だった。
 階段の隅に隠してある鍵を使って、外へ出る。
 緑色のフェンスに囲まれている、広い空間。
 梅雨明けで空は雲一つない快晴だった。

「屋上って、勝手に出入りしちゃいけないんじゃ――」
「うん。だから内緒だよ」

 戸惑う詩織に僕は悪戯っぽく指を唇に当てた。
 はあ、と詩織はため息をつく。

「鍵もどうしたんですか?」
「ちょっと拝借して合鍵作った」
「……内藤先輩って悪人ですね」
「ようやく分かった? 遅かったね」

 僕は眼鏡を外して、日光を反射させて汚れを見た。
 ハンカチで拭きつつ「ご飯食べようよ」と詩織を促した。

「……あげたくないです」
「そうか。残念だ。楽しみだったのに」
「内藤先輩、いつもより素直ですね。なんか本音で話しているみたい」
「嘘とか誤魔化しとか。もう嫌なんだ」

 僕は屋上に寝転んで大の字になった。
 制服が汚れるけど、気にしない。

「うーん、良い気持ちだ」
「そんな態度を取られると、何かあったんですかって訊きたくなります」
「訊けばいいよ。答えるかどうか分からないけど」
「訊くのが怖いです……いいえ、内藤先輩のことを知るのが、ちょっと怖いです」

 詩織の顔が見えない。
 僕は「どうして?」と問う。

「……あの後、金城先輩から聞きました。内藤先輩のこと」
「ああそう」
「酷いことをたくさん言っていました。そして内藤先輩が酷いことをたくさんしてきたことを」
「否定しないよ」
「知るのが怖いのは、内藤先輩のことを嫌いになりたくないからです」

 僕は上体を起こして「金城が何を言ったのかは分からないけど」と伸びをした。

「あいつが言ったことの十倍、酷いことをしてきたよ」
「…………」
「そして休んでいた二日の間にもしてきた」

 中学時代は人を陥れて、人を傷つけて、人を騙してきた。
 二度と戻せない現実や直せないつながりを生み出した。
 それらを後悔していないと言えば、嘘になる。

「別に嫌いになってもいい。僕はそれだけのことをした。今更人に好かれようだなんて思わないよ」

 すると詩織はしゃがんで僕と目を合わせた。
 その圧力に目を逸らせられない。

「内藤先輩はずるいです。だったらどうして、私に優しくしたんですか?」
「…………」
「好かれたくないのなら、神楽と真田のことなんか、ほっとけばいい。私のことなんか、無視すれば良かったんだ。それなのに……私の夢を認めてくれた」

 おかしな話だ。
 自分の夢を持たない僕が、詩織の夢を応援したのだから。

「あのときの言葉は、嘘だったんですか?」
「いいや。違う……嘘じゃない」
「絶対そうだと思いました。だから、私の心がときめいたんです」

 昔の罪から逃れられないのに。
 今も罪を犯し続けているのに。
 どうして僕は……

「内藤先輩は優しくて頭が良くて。ちょっぴり厳しいけど、思いやる心を持っている人です。短時間だけど、それがよく分かりました」
「それは思い込みだよ。僕のことを知らないからだ」
「さっきも言いましたが、知るのは怖いです。それでも、私は――」

 詩織は今にも泣きそうだった。
 よく泣く子だなと思う。
 言葉を紡ごうとしている――僕はそっと彼女の左頬に右手を添えた。

「ごめん。それ以上言わないでもいい」
「せ、先輩は、私が言おうとしていること、分かるんですね」

 僕は右手を詩織の頭に移動させた。
 さらさらで肌触りがいい黒髪。
 最大限の丁寧さをもって撫でる。

「言われる資格なんてない」

 僕は頭から手を放してゆっくりと立ち上がった。
 それから詩織に背を向ける。
 ゆっくりとフェンスに近づく。

 詩織は何も言わない。
 後ろを向いているから、分からない。
 何を葛藤しているのか、何を懊悩しているのか。
 僕は彼女じゃないから、分からない――

「わ、私は! 内藤先輩が好きです!」

 ほとんど反射的に、詩織のほうを向いた。
 彼女は泣きじゃくりながら、大粒の涙を拭って、僕のほうを見ようとする。

「先輩が、何をしたのか、分からないです。でも、私は、もっと先輩のことを――知りたい!」
「……知ったらもっと苦しむことになる。嫌いになってしまうよ」
「それでも、私は……!」

 必死に僕を離さないとする詩織。
 僕はそこで気づいてしまった。
 彼女より少し大人なのに……

「言っておくことがある」

 詩織に嘘はつけない。

「鮫田を怪我させた六日市高校の不良は、全員退学になったよ」

 詩織は最初、僕が何を言ったのか分からなかったけど、徐々に理解して唇を真一文字にした。

「分かっているけど、それは僕がやったことだ。いや、頼んだことと言ったほうが正確だね」

 詩織の反応を見る余裕は無かった。
 僕はもう限界だった。

「僕はそういうことができる。いや、やっても罪悪感を持たないと言うべきかな」

 詩織は黙ってお弁当箱を持って、屋上の出口を通って学校に戻る。
 恐れを抱いたのか、それとも嫌悪を感じたのか。
 それは定かではない。

「……結局、お昼ご飯食べそびれたな」

 頭の中では別のことを考えていたけど。
 そう言わないと自分が惨めになる気がした。
 いや、惨めそのものだった。
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