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人魚
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永く生きる者は、多くのしがらみを断ち切らずに持っている。
年が明けて、しばらく経った頃。
深夜、私は都内のバーに誘われた。若者には縁遠い高級なところで、ジャズの生演奏や質感の良いカウンターは品が良く、気後れしてしまいそうだった。
年老いたバーテンダーがシェイカーを振って、カクテルを作っている。所作一つ一つが華麗で円熟した職人技だと素人目にも分かった。やや緊張しながら差し出されたグラスの中身を少しだけ飲む。美味しい。
待ち人はまだ来なかった。先に酒を飲むのはどうかと思うが、あの魔王が遅れると目の前のバーテンダーが教えてくれた。それと店からのサービスでカクテルをご馳走になったのだ。
真っ赤な名も知らぬカクテルのグラスを置いて、私はバーテンダーに訊ねる。
「彼とは、親しいのですか?」
「親しいというわけではありません。あの方は店のオーナーです」
悪五郎と言い、魔王は羽振りがいいようだった。なんだか理不尽を覚える。
私は彼について訊こうとすると「待たせたな。神野の子孫」と肩に手を置かれた。
振り返ると、高級スーツを着た魔王――山ン本五郎左衛門が居た。
「悪いな。商談に手間取っちまった」
「いいえ。おかげで美味しい酒が飲めました」
「それは上々。マスター、ドライマティーニを」
バーテンダー、いやマスターは「かしこまりました」と礼儀正しく頭を下げて、素早く注文に応じる。
山ン本は出されたカクテルを少し口に含んで「美味いな」と感想を述べた。
「腕を上げたな。流石だ」
「ありがとうございます」
素直に称賛を受け取り、謙遜はしない。一流そのものの対応だと感心する。
私はマスターが山ン本の正体を知っているのか気になった。
「知っているよ。マスターが新米の頃からの付き合いだ」
「人の心を読むのが、魔王の基本ですか?」
「おめえさんの顔見りゃ分かるよ。そのくらいできねえと人間相手に商売なんてできやしない」
「人間は厄介ですか?」
「あいつら自分の利益のためなら平気で嘘つくからな。おめえさんも商売しているなら、精々気をつけるこった」
騙すのは妖怪の専売特許だと思っていたが、考えてみれば人間のほうが非道な行ないをすることもある。人身売買や奴隷制は人間が考えたものだ。
「それで、私を呼び出したのは、例の件ですか?」
「ああ。地獄巡りをしてもらう。二月一日に迎えを寄越すから、そいつに従え」
私はふうっと溜息をつく。覚悟していたとはいえ、迫ってくると嫌な気分になる。まるで学校で予防接種を受けるときと同じ感覚だ。
「なんだ。注射苦手なのか」
「針が身体に突き刺さる感覚が苦手なんですよ……って、今度は心を読みましたね?」
「うむ。しかしその程度の考えなら別段怖れてはいないようだな」
私は「知らないから逆にそういう考えしか浮かばないのかもしれません」と正直に述べた。
「地獄巡りがどれほど怖ろしいのか。私はまだ知らない」
「そうかい。まあしかし……ちょっと待て。歌姫が出てくるぞ」
バーのステージに美しい女性が現れた。二十代後半か三十代ぐらい年齢。腰まで伸びた髪は軽くウェーブがかかっている。身体にぴったり合った青いドレスを着ている。肘まである黒い手袋。そしてスタンドマイクの前に立って、英語の歌を歌いだす。
「あの女性は――」
「黙れ。あいつの歌が聞きたい」
ぴしゃりと言われてしまっては黙る他ない。
客も女性の歌に聞き入っている。
「I'm My Own Grandma. I'm My Own Grandma. I Give Birth To Myself. So, I Live Forever ♪『私は私自身のお祖母さん。私は私自身のお祖母さん。私は私自身を産む。だから、私は永遠に生きる♪』」
変わった歌詞だ。聞いたことが無い。しかしどこか心に染み渡る曲調だった。
曲が終わると客が一斉に拍手をする。歓声を上げる者も居た。
すると歌姫はステージを下りて、私たちの近くまで寄ってきた。
「やあやあ、オーナーさん。久しぶりだねえ。私の歌、どうだった?」
「控えめに言っても、最高だったよ」
手放しに山ン本が褒めると「うふふ。嬉しいな」と歌姫はウインクした。
それから私に「あなたは初めましてね」とにっこり微笑んだ。
「オーナーさんが人を連れてくるなんて珍しいね」
「こいつは神野の子孫だ」
山ン本があっさりと私の素性を言うと、歌姫は目を丸くして「あなたが噂の……」と呟いた。
「じゃあ改めて自己紹介するね。私は人魚。よろしく」
人魚。美しい姿と歌声で人を海に引きずりこむ妖怪だ。
言われれば少しだけ潮の香りがしないでもない。
「しかし、あなたの足は……」
「あれ? 妖怪は変化できるって知らないの?」
「ああ、そうでした。失念しておりました」
人魚は「うふふ。可愛いね」と言いながら、山ン本の隣に座った。
「マスター。私にもお酒ちょうだい」
「歌った後は、強い酒飲まないほうがいいぞ」
山ン本の忠告に「うん。だから薄い酒お願い」と付け加えた。マスターは「準備できていますよ」と人魚に水割りを差し出した。それを水のように飲む人魚。
「ああ、美味しい!」
「無茶な飲み方をするなあ」
「こんなのジュースと一緒だよ!」
それから人魚は「神野の子孫が、どうしてここに?」と山ン本に訊ねた。
山ン本は「こいつ、なかなか面白い奴でな」と喉奥を鳴らす。
「地獄巡りをする前に、話しておこうと思ったんだ」
「地獄巡りねえ。何年振りだろう、それやる人間と会ったのは。かれこれ……百五十年くらいかな」
妖怪だから高齢だと思っていたが、かなりの長生きらしい。
私は「そのときの人間は、無事に帰れましたか?」と訊ねる。
「さあ、知らない。覚えてないや」
「奴は失敗したよ。最後の最後で足をすくわれた」
失敗する者もいるのか……
すっと目の前に新しいカクテルを出された。
「どうぞ。勇気が出ますよ」
いつの間にか、手が震えていることに気づく。
私は勇気の素を一気に飲み干した。
「良い飲みっぷりだね。今日はもう一曲歌おうかな」
「おお、歌え歌え」
その後、節度ある飲み方をしつつ、人魚の歌を楽しんだ。
ここでようやく、山ン本は私に思い残すことがないようにと、忠告するために呼んだのだと気づいた。
年が明けて、しばらく経った頃。
深夜、私は都内のバーに誘われた。若者には縁遠い高級なところで、ジャズの生演奏や質感の良いカウンターは品が良く、気後れしてしまいそうだった。
年老いたバーテンダーがシェイカーを振って、カクテルを作っている。所作一つ一つが華麗で円熟した職人技だと素人目にも分かった。やや緊張しながら差し出されたグラスの中身を少しだけ飲む。美味しい。
待ち人はまだ来なかった。先に酒を飲むのはどうかと思うが、あの魔王が遅れると目の前のバーテンダーが教えてくれた。それと店からのサービスでカクテルをご馳走になったのだ。
真っ赤な名も知らぬカクテルのグラスを置いて、私はバーテンダーに訊ねる。
「彼とは、親しいのですか?」
「親しいというわけではありません。あの方は店のオーナーです」
悪五郎と言い、魔王は羽振りがいいようだった。なんだか理不尽を覚える。
私は彼について訊こうとすると「待たせたな。神野の子孫」と肩に手を置かれた。
振り返ると、高級スーツを着た魔王――山ン本五郎左衛門が居た。
「悪いな。商談に手間取っちまった」
「いいえ。おかげで美味しい酒が飲めました」
「それは上々。マスター、ドライマティーニを」
バーテンダー、いやマスターは「かしこまりました」と礼儀正しく頭を下げて、素早く注文に応じる。
山ン本は出されたカクテルを少し口に含んで「美味いな」と感想を述べた。
「腕を上げたな。流石だ」
「ありがとうございます」
素直に称賛を受け取り、謙遜はしない。一流そのものの対応だと感心する。
私はマスターが山ン本の正体を知っているのか気になった。
「知っているよ。マスターが新米の頃からの付き合いだ」
「人の心を読むのが、魔王の基本ですか?」
「おめえさんの顔見りゃ分かるよ。そのくらいできねえと人間相手に商売なんてできやしない」
「人間は厄介ですか?」
「あいつら自分の利益のためなら平気で嘘つくからな。おめえさんも商売しているなら、精々気をつけるこった」
騙すのは妖怪の専売特許だと思っていたが、考えてみれば人間のほうが非道な行ないをすることもある。人身売買や奴隷制は人間が考えたものだ。
「それで、私を呼び出したのは、例の件ですか?」
「ああ。地獄巡りをしてもらう。二月一日に迎えを寄越すから、そいつに従え」
私はふうっと溜息をつく。覚悟していたとはいえ、迫ってくると嫌な気分になる。まるで学校で予防接種を受けるときと同じ感覚だ。
「なんだ。注射苦手なのか」
「針が身体に突き刺さる感覚が苦手なんですよ……って、今度は心を読みましたね?」
「うむ。しかしその程度の考えなら別段怖れてはいないようだな」
私は「知らないから逆にそういう考えしか浮かばないのかもしれません」と正直に述べた。
「地獄巡りがどれほど怖ろしいのか。私はまだ知らない」
「そうかい。まあしかし……ちょっと待て。歌姫が出てくるぞ」
バーのステージに美しい女性が現れた。二十代後半か三十代ぐらい年齢。腰まで伸びた髪は軽くウェーブがかかっている。身体にぴったり合った青いドレスを着ている。肘まである黒い手袋。そしてスタンドマイクの前に立って、英語の歌を歌いだす。
「あの女性は――」
「黙れ。あいつの歌が聞きたい」
ぴしゃりと言われてしまっては黙る他ない。
客も女性の歌に聞き入っている。
「I'm My Own Grandma. I'm My Own Grandma. I Give Birth To Myself. So, I Live Forever ♪『私は私自身のお祖母さん。私は私自身のお祖母さん。私は私自身を産む。だから、私は永遠に生きる♪』」
変わった歌詞だ。聞いたことが無い。しかしどこか心に染み渡る曲調だった。
曲が終わると客が一斉に拍手をする。歓声を上げる者も居た。
すると歌姫はステージを下りて、私たちの近くまで寄ってきた。
「やあやあ、オーナーさん。久しぶりだねえ。私の歌、どうだった?」
「控えめに言っても、最高だったよ」
手放しに山ン本が褒めると「うふふ。嬉しいな」と歌姫はウインクした。
それから私に「あなたは初めましてね」とにっこり微笑んだ。
「オーナーさんが人を連れてくるなんて珍しいね」
「こいつは神野の子孫だ」
山ン本があっさりと私の素性を言うと、歌姫は目を丸くして「あなたが噂の……」と呟いた。
「じゃあ改めて自己紹介するね。私は人魚。よろしく」
人魚。美しい姿と歌声で人を海に引きずりこむ妖怪だ。
言われれば少しだけ潮の香りがしないでもない。
「しかし、あなたの足は……」
「あれ? 妖怪は変化できるって知らないの?」
「ああ、そうでした。失念しておりました」
人魚は「うふふ。可愛いね」と言いながら、山ン本の隣に座った。
「マスター。私にもお酒ちょうだい」
「歌った後は、強い酒飲まないほうがいいぞ」
山ン本の忠告に「うん。だから薄い酒お願い」と付け加えた。マスターは「準備できていますよ」と人魚に水割りを差し出した。それを水のように飲む人魚。
「ああ、美味しい!」
「無茶な飲み方をするなあ」
「こんなのジュースと一緒だよ!」
それから人魚は「神野の子孫が、どうしてここに?」と山ン本に訊ねた。
山ン本は「こいつ、なかなか面白い奴でな」と喉奥を鳴らす。
「地獄巡りをする前に、話しておこうと思ったんだ」
「地獄巡りねえ。何年振りだろう、それやる人間と会ったのは。かれこれ……百五十年くらいかな」
妖怪だから高齢だと思っていたが、かなりの長生きらしい。
私は「そのときの人間は、無事に帰れましたか?」と訊ねる。
「さあ、知らない。覚えてないや」
「奴は失敗したよ。最後の最後で足をすくわれた」
失敗する者もいるのか……
すっと目の前に新しいカクテルを出された。
「どうぞ。勇気が出ますよ」
いつの間にか、手が震えていることに気づく。
私は勇気の素を一気に飲み干した。
「良い飲みっぷりだね。今日はもう一曲歌おうかな」
「おお、歌え歌え」
その後、節度ある飲み方をしつつ、人魚の歌を楽しんだ。
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