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胃薬
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文久三年の一月。
私は江戸の実家に戻っていた。
久しぶりのからりとした冬の空気はとても居心地良かった。
江戸に帰ってきたのは父が病に倒れてしまったことが原因だ。ただの風邪が重いものになってしまって、それで私を呼び寄せたのだった。上役にその旨を言うと「ならば正月休みも兼ねて江戸に戻るがいい」と許可をくれた。
ありがたい話だったが京から江戸へ帰るのは一苦労だった。
酷く情勢が荒れていて関所の人間も緊迫した様子で、物改めも慎重になって時間を食ってしまった。
そのせいで正月には間に合わず、三が日を過ぎた頃に帰ってきた。
出迎えた妹は「兄上、少々遅いですよ」と目をくりくりさせて言う。
私は父の容態はどうだと訊ねた。
「ええ。今ではぴんぴんとしています。元々、医者の不養生ですので」
父は深酒が過ぎるところがある。年がら年中飲んでいるわけではないが、飲むときはとことん飲む癖があった。
私は早速父と母に会った。父は布団から出ていて食事をしていた。流石に酒は飲んでいなかった。
「梅太郎。よく戻ってきたな。二年ぶりか」
父上、もう少し酒を控えてください。お身体に触りますよ。
「分かっているけどやめられんわい。こればかりはな」
では、深酒はやめてください。もう若くはないでしょう。
「すっかり医者みたいなことを言うようになったな」
そりゃあ、医者ですから。
「ふん。つまらなくなったな。そうだ、京で面白いことはなかったのか」
別段、面白いことは無かったのだが、ふと龍馬のことを思い出した。
母と妹がいる前で、私は龍馬のことを話した。
女性陣はぴんと来なかったようだが、父は「たいした男だな」と唸った。
「大志を抱く男っていうのは大きな男じゃないといけねえ」
珍しく江戸っ子訛りが出るくらいだから相当気に入ったのだろう。
しかも「その龍馬って男と俺たちは縁があるらしい」と言う。
「勝先生のところにいるかもしれないのなら、お前も行ってくるがいい」
今や幕府の要人となっている勝麟太郎と、一介の獄医が会えるとは思えなかった。
しかし父は「勝先生の父と私の父は交流があってな」と自慢げに言う。
「薬を依頼されていたのだ。もう煎じてあるから持って行ってくれ」
本当に奇縁があるものだ。
私は半ば呆然としつつ、頷いた。
◆◇◆◇
一緒に行きたがったおてんばな妹を振り払って、勝麟太郎のいる屋敷へと向かった。
道順は父から聞かされた。案外近場の大きな屋敷だった。
門の前に来て、御免ください、と言うと綺麗な妙齢の女性が出てきた。
おそらく奥方だろうと私は推測した。
「失礼ですが、どなたでしょうか?」
軽く警戒されているなと私は感じた。
このご時勢、物騒なことが多いので当然だが。
私は、才谷梅太郎と申します、と丁寧に言う。
「才谷? ああ、義理の父から聞いたことがあります」
小吉殿ですね。私は医者です。胃薬を持参してきました。
「あの胃薬ですか! とても良く効きますよ!」
胃薬の話になると途端に機嫌が良くなった奥方。
すると「申し遅れました」と頭を下げた。
「わたくし、民子と申します。勝先生の元へご案内いたします」
私は気苦労が絶えないのだろうなと、お疲れ様です、と思わず言ってしまった。
民子さんはにこりと笑って、楚々とした姿勢で私を屋敷に招いた。
一番奥にある大きな部屋の前で、民子さんが「お前さま、才谷様がお見えになっております」と言う。
すると襖から「才谷先生? ああ、入ってもらえ」と返事が返ってきた。
私が入ると、勝麟太郎は折り目正しく初見台で書物を読んでいた。
勝麟太郎は凛々しい顔をしていて、学者にも見えるが、芯がしっかりとしている武士のようにも見えた。それでいて役者にも見える。若くしてひとを納得させられるような、見た目に説得力というものを備えていた。それが私が思った印象である。
その近くでだらしない恰好で書物を読んでいる龍馬がいた。
「ありゃ? おんしは京にいるはずじゃぜ?」
龍馬は驚きつつ私を見て笑った。
私は、本当にここにいるとは思わなかった、と努めて冷静に言う。
「うん? なんだお前さんたち。知り合いなのかい?」
幕府の要人とは思えない、気さくな話し方をする勝麟太郎。
私は、大坂で知り合った友人です、と答えた。
「そうじゃ。この腕の傷を縫うてもらったぜよ」
「へえ。縫うねえ。こりゃあ面白い縁もあるもんだ」
面白げに笑う勝麟太郎。それから民子さんに「酒でも持ってきてくれ」と言う。
私は下戸だったが、拒むわけにはいかなかった。
民子さんが台所へ向かうと「実はあんたのおじいさんには世話になったんだ」と勝麟太郎は言う。
「俺が九つの頃、犬に金玉噛まれてな。その治療で熱さましを調合してくれたのが、あんたのおじいさんだ」
何とも不思議な縁である。
そう言えば祖父は薬の調合に関しては江戸一番と評されていた。
「まあせっかく来たんだ。いろいろ話そうぜ」
話す、ですか。私は国事については門外漢でして。
「ふうん。お前さんは医者かい?」
一応、京で獄医をしております。
「なら気を付けなよ。今は不逞浪士だけじゃなくて、志士たちも捕まっているんだから」
どういうことでしょうか?
その私の疑問に答えたのは龍馬だった。
「思想に取り込まれてしもうたら、抜け出されなくなるちゅうことじゃ」
いまいちぴんと来ないが、勝麟太郎は「ま、あまり気になさんな」と前言を翻した。
「今はお前さんの務めを必死に頑張んなさい。それが一番いい」
私は江戸の実家に戻っていた。
久しぶりのからりとした冬の空気はとても居心地良かった。
江戸に帰ってきたのは父が病に倒れてしまったことが原因だ。ただの風邪が重いものになってしまって、それで私を呼び寄せたのだった。上役にその旨を言うと「ならば正月休みも兼ねて江戸に戻るがいい」と許可をくれた。
ありがたい話だったが京から江戸へ帰るのは一苦労だった。
酷く情勢が荒れていて関所の人間も緊迫した様子で、物改めも慎重になって時間を食ってしまった。
そのせいで正月には間に合わず、三が日を過ぎた頃に帰ってきた。
出迎えた妹は「兄上、少々遅いですよ」と目をくりくりさせて言う。
私は父の容態はどうだと訊ねた。
「ええ。今ではぴんぴんとしています。元々、医者の不養生ですので」
父は深酒が過ぎるところがある。年がら年中飲んでいるわけではないが、飲むときはとことん飲む癖があった。
私は早速父と母に会った。父は布団から出ていて食事をしていた。流石に酒は飲んでいなかった。
「梅太郎。よく戻ってきたな。二年ぶりか」
父上、もう少し酒を控えてください。お身体に触りますよ。
「分かっているけどやめられんわい。こればかりはな」
では、深酒はやめてください。もう若くはないでしょう。
「すっかり医者みたいなことを言うようになったな」
そりゃあ、医者ですから。
「ふん。つまらなくなったな。そうだ、京で面白いことはなかったのか」
別段、面白いことは無かったのだが、ふと龍馬のことを思い出した。
母と妹がいる前で、私は龍馬のことを話した。
女性陣はぴんと来なかったようだが、父は「たいした男だな」と唸った。
「大志を抱く男っていうのは大きな男じゃないといけねえ」
珍しく江戸っ子訛りが出るくらいだから相当気に入ったのだろう。
しかも「その龍馬って男と俺たちは縁があるらしい」と言う。
「勝先生のところにいるかもしれないのなら、お前も行ってくるがいい」
今や幕府の要人となっている勝麟太郎と、一介の獄医が会えるとは思えなかった。
しかし父は「勝先生の父と私の父は交流があってな」と自慢げに言う。
「薬を依頼されていたのだ。もう煎じてあるから持って行ってくれ」
本当に奇縁があるものだ。
私は半ば呆然としつつ、頷いた。
◆◇◆◇
一緒に行きたがったおてんばな妹を振り払って、勝麟太郎のいる屋敷へと向かった。
道順は父から聞かされた。案外近場の大きな屋敷だった。
門の前に来て、御免ください、と言うと綺麗な妙齢の女性が出てきた。
おそらく奥方だろうと私は推測した。
「失礼ですが、どなたでしょうか?」
軽く警戒されているなと私は感じた。
このご時勢、物騒なことが多いので当然だが。
私は、才谷梅太郎と申します、と丁寧に言う。
「才谷? ああ、義理の父から聞いたことがあります」
小吉殿ですね。私は医者です。胃薬を持参してきました。
「あの胃薬ですか! とても良く効きますよ!」
胃薬の話になると途端に機嫌が良くなった奥方。
すると「申し遅れました」と頭を下げた。
「わたくし、民子と申します。勝先生の元へご案内いたします」
私は気苦労が絶えないのだろうなと、お疲れ様です、と思わず言ってしまった。
民子さんはにこりと笑って、楚々とした姿勢で私を屋敷に招いた。
一番奥にある大きな部屋の前で、民子さんが「お前さま、才谷様がお見えになっております」と言う。
すると襖から「才谷先生? ああ、入ってもらえ」と返事が返ってきた。
私が入ると、勝麟太郎は折り目正しく初見台で書物を読んでいた。
勝麟太郎は凛々しい顔をしていて、学者にも見えるが、芯がしっかりとしている武士のようにも見えた。それでいて役者にも見える。若くしてひとを納得させられるような、見た目に説得力というものを備えていた。それが私が思った印象である。
その近くでだらしない恰好で書物を読んでいる龍馬がいた。
「ありゃ? おんしは京にいるはずじゃぜ?」
龍馬は驚きつつ私を見て笑った。
私は、本当にここにいるとは思わなかった、と努めて冷静に言う。
「うん? なんだお前さんたち。知り合いなのかい?」
幕府の要人とは思えない、気さくな話し方をする勝麟太郎。
私は、大坂で知り合った友人です、と答えた。
「そうじゃ。この腕の傷を縫うてもらったぜよ」
「へえ。縫うねえ。こりゃあ面白い縁もあるもんだ」
面白げに笑う勝麟太郎。それから民子さんに「酒でも持ってきてくれ」と言う。
私は下戸だったが、拒むわけにはいかなかった。
民子さんが台所へ向かうと「実はあんたのおじいさんには世話になったんだ」と勝麟太郎は言う。
「俺が九つの頃、犬に金玉噛まれてな。その治療で熱さましを調合してくれたのが、あんたのおじいさんだ」
何とも不思議な縁である。
そう言えば祖父は薬の調合に関しては江戸一番と評されていた。
「まあせっかく来たんだ。いろいろ話そうぜ」
話す、ですか。私は国事については門外漢でして。
「ふうん。お前さんは医者かい?」
一応、京で獄医をしております。
「なら気を付けなよ。今は不逞浪士だけじゃなくて、志士たちも捕まっているんだから」
どういうことでしょうか?
その私の疑問に答えたのは龍馬だった。
「思想に取り込まれてしもうたら、抜け出されなくなるちゅうことじゃ」
いまいちぴんと来ないが、勝麟太郎は「ま、あまり気になさんな」と前言を翻した。
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