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手を握って

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 光は――悪夢を見ていた。
 次第に遠ざかる光の出口を、必死になって追い続けている。
 同時に後ろから何者かが追われている感覚もした。

 疲労感はもちろんある。しかしもっと恐ろしいのは、走ることで、己の大切な者が次々を死んでいくこと自覚させられることだった。
 走れば走るほど死人は増える。けれど逃げ続けなければ自分が死ぬ。
 そうした極限状態がひたすら続いていて――終わりはなかった。

「――はっ!?」

 悪夢から唐突に解放された光は、暗い部屋で布団に寝かされている現状に気づいた。
 自分の記憶を辿ってみる。雷次郎たちと一緒に戸塚に向かう道中で――

「ようやく目覚めたか」

 静かな声に素早く反応する光。神経が過敏になっていて、ほとんど反射に近い動きであった。
 その声の主は――雷次郎だった。壁にもたれて薄暗闇から光の様子を窺っている。
 雷次郎だと分かった光は、心から安堵した――会って間もない相手に安心感を覚えた彼女は、どうしてだろうと疑問が頭をよぎった。しかし、それを表に出さずに「ここは?」と短く問う。

「戸塚の宿場町だよ。まだ夜は明けてねえ。もう少し寝ろ」
「あなたは……ずっと見張っていたの?」
「あんな連中がいるって分かったからな。雪秀と交代で寝ずの番だよ」

 雷次郎が顎をしゃくって指し示した先には、雪秀が横になって静かに寝息を立てていた。
 光は「もう大丈夫よ」と強がりを見せた。布団から無理矢理起き上がろうとするが、雷次郎に「無理するなって」と制された。

「まだ身体は回復していない。というより、出発を遅らせたほうが良かったな」
「そんな悠長なこと、言ってられないわよ……」
「お前の目的は分からないが、今ぐらい休んでもいいだろう」
「時間がないのよ! すぐに――」

 喚こうとした光に「夜更けだぞ。静かにしろ」と厳しく注意する雷次郎。
 あまりに常識的な物言いだったので、彼女は思わず黙ってしまった。

「急がば回れという格言もあるしな。それに奴らへの対処をしなければならない」
「……ごめんなさい」
「何に謝っているんだ?」
「奴らのこと、黙っていて。もし言ったら……」
「俺たちが怖気づくとでも?」

 光は黙って申し訳無さそうに頷いた。先ほど見た悪夢のせいもあり、これ以上雷次郎たちを巻き込むのはどうかと思い始めていた。

「やっぱり、私一人で大坂を目指すわ」
「水臭いことを言うなよ。俺たちも行くに決まっているだろう」
「見たでしょ。奴らに四六時中付け狙われたら、あなたたちが強くても……」
「そのための策はある。むしろ俺たちの協力がなかったら――死ぬぜ、お前」

 口をきつく結んで悔しそうにする光。
 雷次郎はもし、死んでも構わないと言ったらどう諭そうか考えていた。

「……そうね。死ぬのは嫌よ」

 だが予想に反した答えを光は返した。
 雷次郎は死んでも達成したい目的ではなく、生きることも彼女の目的の一つなのだと気づいた。それは光自体に価値があるということだった。

「だったら布団に入って寝てろ。身体をしっかり休めねえと、大坂までもたないぞ」
「……一つだけ、お願いがあるの」

 光は布団に潜り、仰向けになって、右手を雷次郎に向けた。
 そして淋しそうな表情で、彼に言う。

「手を、握ってほしいの……」
「……分かった」

 雷次郎は壁から身を起こして、光の枕元に座り、彼女の手を優しく握った。
 柔らかくて冷たい手とごつごつして暖かい手が合わさった。

「理由、聞かないの?」
「理由を言いたいのか?」
「……寝ると悪夢を見るの。でも、握ってくれたら見ずに済むかも」
「俺の手で見れなくなるか?」
「分からない……でも、母上は……」

 雷次郎の暖かな体温に安心したのか、ゆっくりと眠りの世界へ誘われる光。
 雷次郎は片手ではなく両手で包むように握る。

「雪秀、そのまま寝ていいぞ」
「……雷次郎様には敵いませんね」

 先ほどから寝ているふりをしていた雪秀が身を起こした。
 雪秀は「光殿は何を背負っているんでしょうか」と悲しげな表情を見せた。瞳がひたひたと濡れていて、憂いを帯びている。

「私より年上とはいえ、その身には大きすぎる、重荷を背負わされている気がします」
「ああ。俺もそう思う。雪秀、今なら主命をやめることができるぞ?」

 これは雪秀を慮って言ったのだが、彼は苦笑して「今更そんなことを言わないでください」と答えた。

「先ほどのやりとりを見せられて、降りるなんて恥晒しなこと、できますか」
「やっぱり、お前はいい男だな」
「長年、雷次郎様の弟分やっていますからね。鍛えられているんですよ」

 静かに笑い合う雷次郎と雪秀。
 徐々に白み始める明け方。
 ふと、雷次郎は光の寝顔を見た。
 穏やかでうっすら笑みを見せていた――


◆◇◆◇


 戸塚の宿を出た雷次郎たちは、また完全に回復していない彼女のために、馬を借りることにした。関東の宿場町には『馬つなぎ』という制度があった。

 雨竜家の政策の一つで、各宿場町にある馬を、料金を支払うことで利用できるのだ。これらの馬は名目上、雨竜家の所有物であるが、その利益は宿場町のものになる。餌代や場所代は各々が負担するが、便利なため利用者は多い。

 二頭の馬を借りて、雷次郎の背に光を乗せ、彼らは小田原城へと向かう。
 相模国の小田原城は関東の城の中でも、江戸城と同じくらいの規模を持つ。
 実を言えば、雨竜家は小田原城を本拠地にしようとしたのだが、当主の秀晴が『真柄家の領地とし、自分は江戸を本拠地とする』と決めたのだ。

 徳川家康と黒田官兵衛が築いた江戸城を改築し、領民が住みやすい町にするのは並大抵なことではない。しかし自分の命を守ってくれた真柄雪隆に対して、何か報いたいと雨竜秀晴は思ったのだ。

 さて。真柄家が治める小田原の城下町に無事に着いた三人は、さっそく城へ登城した。
 門番は雪秀の姿を見るなり背筋を伸ばして「殿、お勤めご苦労様です!」と大声で応じた。

「ただいま。ああ、楽にしていいよ」
「ははっ! ……雷次郎様もご一緒でしたか!」
「久しぶりだな。えっと、多村与左衛門だったか」

 門番の多村は「拙者の名を覚えてくれていたのですか?」と目を丸くした。
 雷次郎は「一緒に酒を飲んだ仲だからな」と頷いた。

「そんとき酔って腹踊りして、迎えに来たかみさんに怒られただろう」
「そ、そうでしたっけ? いやはや、お恥ずかしい……」

 思い出話に盛り上がっていると、ふいに「そちらの方は?」と呆気に取られていた光を示した多村。

「こちらは客人の光殿だ。丁重に扱うように」
「ははっ。かしこまりました、殿。それでは中にお入りください」

 城門を開けると、そこにはずらりと真柄家の家臣たちが並んで立っていた。
 そして雪秀が通ると「お帰りなさいませ」と一斉に頭を下げる。

「本当に、城主なのね……」
「雨竜家の中でも古参の家臣だからな。真柄家は」

 じゃあなんで、あなたは城主の兄貴分なのよ? と聞きたかった光。
 もしかすると雨竜家の重臣の息子なのかしら? とも考える。
 光の推測は当たらずとも遠からずだったが、雷次郎が次期雨竜家当主であるという考えには至れなかった。

 小田原城の評定の間で、雷次郎たちは城代である小松を待っていた。
 雪秀は城主であるが、実権を握っているのは彼の母だった。

「雷次郎様。一緒に説得してくださいよ?」
「分かったって」

 何度も念を押す雪秀に辟易しながらも返事を返す雷次郎。
 まあ小松殿は恐い母親だからなとぼんやり彼は考えていた。

 すっと奥から城代の小松が現れる。
 妙齢の女性であるが、それより若さと美しさを持っていた。
 だが父親の本多忠勝譲りの険しい顔は、初対面の光を圧倒させてしまった。

「雪秀。江戸城でのお勤め、ご苦労様でした」
「ありがとうございます」

 親子ではない、堅苦しい関係のやりとりに光は武士って大変ねと感じた。
 それから小松は光に視線を向けた。

「既に話は聞いております。そちらの女性を大坂まで連れていくとのこと」
「はい。つきましては――」
「雪秀。その主命、お断りなさい」

 雪秀は一瞬、聞き間違えかと思った――が、次の言葉で理解させられる。

「真柄家として主命を正式にお断りいたします。それを雨竜家当主、雨竜秀晴様にお伝えしました――」
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