上 下
1 / 39

日の本一の遊び人

しおりを挟む
「ああもう! 雷次郎様はどこですか!?」

 この世が泰らかで、平和な状態の、天下泰平。
 関八州を治める雨竜家の本拠地、武蔵国の江戸城で騒ぎ立てる一人の少年がいた。

 年の頃は十五だと思われるが、背がかなり低い。雪のように白い肌をしているが、着物の上からでも分かる筋肉質な身体つきをしていた。無駄に隆々とあるわけではなく、絞られ引き締まったと評するのが正しい。今は困った顔しているが、平静にしていれば町娘が振り返ってしまうような整った顔をしている。

「真柄殿。若様はいずこですか?」
「ああ! 本多忠政様! 雷次郎様、どこにもいらっしゃらないのです!」

 城の廊下で喚いている少年を見かねてか、おそらく重臣と思わしき男――本多忠政は声をかけた。忠政は年が三十ほどの強面の男だったが、少年を責めるのではなく、むしろ同情を思わせる口調だった。

 真柄殿と呼ばれた少年は「申し訳ございませぬ!」とその場で土下座をした。流れるような見事と言うべき所作は、悲しいことに謝り慣れているのを表していた。よほど苦労人なのだろう。

 忠政は苦笑しながら「まさかこんな大事な日に遊んでいるわけではないでしょう」と少年に言う。

「城内にいるとは思いますが」
「……私の知る雷次郎様は、大事な日に城下町で遊び歩いているような方です」

 少年は「急いで探しに行きます」と忠政に背を向ける。
 忠政は足早に去る少年に「お気をつけて」と手を振った。

「あなたも昨年元服して、雨竜家の重臣となられた身。無用な争いは避けてくださいね」

 少年は「ご忠告ありがとうございます!」と振り返りもせずに応じた。
 忠政はやれやれと肩を竦める。

「若様といい、『従兄弟殿』といい、せわしないことですね」

 敢えて名を呼ばずに自分との間柄で呟いて、忠政は江戸城の評定の間へと足を進めた。
 今日は重臣たちが集まり話し合いをする。
 その議題には雨竜家当主のことも含まれていた。


◆◇◆◇


「よっしゃあ! 十五連勝!」
「はあああ!? 嘘だろ!?」

 江戸城の城下町の賭場で荒稼ぎをしている男がいた。
 いわゆる丁半博打――さいころの出目が奇数か偶数か当てる博打だ――を十五回連続で当てている。その確率は目を疑いたくなるほどで、男の前には眼がくらむほどの賭け札が山盛りになっていた。

「こいつはついているな。よし、今日はこんぐらいにしておくか。札を銭に換えてくれ」

 男は山盛りの賭け札を抱え、賭場を仕切っているやくざ者の前にある台に置く。
 やくざ者はぎろりと睨んだが何も言わずに賭け札を銭に換える。
 男はにこにこ笑顔のまま「ありがとよ」と言ってそのまま賭場を出て行く。
 するとやくざ者の弟分らしき男が「いいんですかい、兄貴?」と耳打ちする。

「あの野郎、毎回ぼろ勝ちしやがって。何かいかさましているんじゃ――」
「してねえよ。あいつはいかさまを一切しない」
「な、なんでそう言い切れるんですか?」

 やくざ者は溜息をつきながら「する必要がねえんだ」と説明し出す。

「あいつは強運――いや、天運を持っている。まるであいつが賭けたほうに賽の目が出ちまうんだよ。だからいかさまをする必要が無い。普通に賭ければ当たるんだからな」
「そんな馬鹿な……」
「俺だって信じたくねえよ。だけどな……佐倉一家って覚えているか?」

 声を落としてやくざ者が弟分に耳打ちした。
 弟分は自身の記憶を辿る。

「ええと、確かこの間潰れた組ですよね。うちと同じ、賭場を仕切っていた……」
「あそこ潰したのは、あの男だ」

 弟分は息を飲む。自分たちより格上で規模もでかい佐倉一家。かの組が潰れたおかげで賭場を作れたという事情もある。
 弟分は信じられない思いで「はは、冗談、ですよね?」と訊ねた。

「冗談じゃねえよ。確かな筋の話だ」
「……あの野郎、何者ですか?」

 やくざ者は傍に置いた煙管を口に咥えて、紫煙を吐き出しながら「俺もよく知らねえ」と呟いた。

「でも名前だけは分かっている。雷次郎だ」
「ら、雷次郎……」
「人呼んで『日の本一の遊び人』雷次郎。あいつに勝てる博徒は江戸にはいない」

 弟分はごくりと唾を飲み込みながら男――雷次郎が出て行った先を見つめる。
 薄暗い賭場の出口は光で照らされていた。


◆◇◆◇


 雷次郎と呼ばれた男は二十歳ぐらいの青年で、背丈は六尺近くあって大きかった。雷雲と稲妻の柄をした着流しを着ていて、顔は役者かと思わせるように凛々しかった。雨も降っていないのに唐傘を肩に担いでいる。帯刀しているがどこからどう見てもやくざ者にしか見えない。着流しの襟元から和彫りがちらりと見えるのもそれを印象づけた。

 雷次郎は鼻歌を鳴らしながら町人長屋の路地に入った。井戸近くで洗濯をしている妻や追いかけっこしている子供たちに声をかけられると愛想良く応じる。
 子供の一人が「雷次郎にいちゃん!」と雷次郎の前に立ちふさがった。

「お、なんだ。銀太じゃないか。もう歩けるのか?」
「うん! にいちゃんのおかげだよ! お医者さん呼んでくれてありがとう!」

 銀太は鼻水を垂らしながら深く頭を下げた。雷次郎は銀太の頭を撫でながら「今度から拾い食いするなよ」と笑った。

「おっかさん、お前を心配していたんだからな」
「でも、いっつも俺が悪さすると、出て行けって言うんだぜ?」
「悪さするからだろうが。それにお前のおっかさん、泣いていたんだぜ」
「うっそだー!」

 けらけら笑いながら銀太が言う。
 雷次郎は「それより作蔵のじいさん、家にいるか?」と訊ねる。

「うん。お静の姉ちゃんと一緒に家にいるよ」
「そうか。ありがとな」
「ええ!? 遊んでくれねえの!?」
「また今度な」

 もう一度銀太の頭を撫でて、雷次郎は作蔵の家に入った。

「邪魔するよ」
「うん? ああ、雷次郎様!」

 何やら家の掃除をしていた歳若い娘――お静は、雷次郎が入ったのを見て、急いで応対する。頬が赤くなりつつ「お久しぶりですね!」と喜んでいる。

「作蔵のじいさん、いるだろう?」
「ええ、こちらに! おじいちゃん、雷次郎様、来たよ!」

 雷次郎は娘に促されて中に入ると、作蔵は布団で寝ていた。
 身体を壊しているらしく、雷次郎の姿が見えても、動けずにいた。

「おお……雷次郎様……」
「そのままでいい。うん? 少し顔色良くなったか?」

 雷次郎は笑顔のまま、作蔵の枕元に胡坐をかいた。

「へへへ。申し訳ねえ。でもま、もう少ししたら、元気になりまさあ」
「そうか。早くじいさんのうどん、食いたいな」

 雷次郎がそう切り出すと作蔵とお静はばつの悪そうに顔を伏せた。

「……旦那にはひいきにしてもらっていましたけどね。もう商売は止めようと思っているんですよ」
「なんでだ? 場所代を強請っていた佐倉一家は潰れたんだろう?」
「風の噂で聞きやした。でも、店がめちゃくちゃに壊されちまって、もう続けられないですよ……」

 作蔵は力無く笑った。何もかも失って、笑うしかないのだろう。
 雷次郎は「店のことは残念だったな」と溜息をついた。

「駆けつけるのが早かったら、なんとかなったと思うが」
「……佐倉一家を潰してくれただけでも嬉しいですよ」

 雷次郎は「なんのことだ?」ととぼけたが作蔵は首を横に振った。

「全部聞いていますよ。旦那がお仲間と潰したって」
「……俺ぁ気に入らなかっただけだよ。他にも悪さしていたからな」

 面倒くさそうに手を振るが、お静のほうも「雷次郎様には感謝しかありません」と頭を下げた。

「本当にありがとうございます」
「やめてくれよ。別に恩を着させるためにやったんじゃない」

 雷次郎は頬を掻きながら「店が壊れちまったなら建て直せよ」と言う。

「借金しても、じいさんならすぐに返せるよ」
「わしはもう年老いた身です。いつ死ぬか分からない。なのに借金でもして死んだら、お静に迷惑が……」
「おじいちゃん。私のこと、気にしなくていいのに……」
「馬鹿。孫娘のお前に苦労かけたくないんだよ」

 雷次郎はそんな祖父と孫の様子を見守っていた。
 そして「じいさん。一つ条件がある」と言って懐から先ほど儲けた銭を取り出す。
 作蔵とお静が呆然とする中、銭を積み上げていく雷次郎。

「この金をやるから、店を建て直せ」
「……はあ? だ、旦那、正気ですかい!?」
「正気だ。ただし、条件がある」

 雷次郎が険しい顔をして作蔵を見つめる。
 不安そうなお静を余所に雷次郎は言う。

「この条件はかなり重いぞ? その覚悟があるなら、くれてやる」
「ど、どんな条件ですか?」

 まさか、お静を――
 そう身構えた作蔵に険しい顔のまま雷次郎は告げる。

「俺が店に来たときは、少し量を多くしてくれ」
「……へっ?」
「これが条件だ」

 険しい顔から一転して笑顔になる雷次郎。

「じいさんのうどんも好きなんだよ。それこそ命張れるほどにな」
「あ、ああ……」
「だからさっさと身体治せ」

 雷次郎は「邪魔したな」と言って素早く立ち上がった。
 作蔵とお静は呆然としていたが雷次郎が出て行く寸前で立ち直った。

「ありがとうございます……! 必ず、美味しいうどん、ごちそうします!」

 雷次郎は「楽しみにしているぜ」と言ってそのまま出て行った。
しおりを挟む

処理中です...