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3話 最強の術士
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4《哀座加奈》
哀座加奈は客間のベッドで寝転がりながら天井の暗闇を見つめていた。どうにも寝られそうになかった。朝から夕方まであれだけ眠ったのだから無理もない話ではある。
おまけに寝る前にあんな話を聞かされてしまっては寝るに寝れない。ひどい目に遭う子どもの話を聞く度に加奈はとても嫌な気持ちになる。それは単に可哀相というだけじゃないのだ。
なんとなく世界の幸福の総量が決まっているような気がして、自分が幸せな子ども時代を過ごせたのはそういう不幸な子どもたちの幸福を横取りしてしまったかのような罪悪感を覚えるのだ。そのくせそんな不幸な子どもに何もしてやれない自分を腹立たしく思うのだ。
そんなことを考えていると喉の渇きを覚えたので、加奈はキッチンのほうに向かった。七瀬からは夜喉が乾いたらキッチンのところから水を汲めばいいと言われていた。
キッチンに行くとダイニングテーブルに腰掛けて、伊吹が文庫本を読んでいるのが見えた。
「まだ起きてるんですね」
加奈はキッチンに向かうついでに伊吹にそう声をかけた。
「夜型なんですよ。僕」と伊吹は微笑しながら答えた。
七瀬もまた儚げな雰囲気ながら目の覚めるような美少女だが、目の前にいる少年も不思議な魅力を持っていた。
黒曜石のような瞳と髪は日本人にしては色素の薄い七瀬とは対照的だ。
その顔立ちは17歳にしてまだ男になりきっているとは言い難く、女物の衣服を纏えばそのまま女子で通せそうだった。その一方で仕草や立ち居ふるまい、ほとんど変化を見せない表情はやはりひどく大人びていた。
「眠れませんか?」
「あー、そうですね。昼間寝過ぎたかも」
「彼方さんも眠れないんですか?」
「ええ。普段から少し不眠症気味なんです。ここ数ヶ月の話ですけどね。だから眠くなるまでこうして本を読むのが習慣なんです」
七瀬の話から推測すると伊吹と七瀬が彼らの家を出たのは数ヶ月前なのだろう。だとすれば伊吹の数ヶ月前というのは家を出てからということなのだろうか。
やはりこの生活が不安で寝付けないのだろうか。あるいは朝起きたら今までのことが全て夢だった、という風に世界がそれ以前に戻ってしまうのが怖いのかもしれない。そんな妄想話が加奈の頭を過った。
5《七瀬》
七瀬は昼食を作りながらダイニングにあるテレビを時折ちらちらと見ていた。ワイドショーをやっている。
テレビの前のソファには伊吹と加奈が座っている。
芸能人の不倫報道についてのニュースが終わり、次は翠名大学学生の連続死亡事件についてのニュースを扱うと司会が告げた。
静かでそれでいて素早い動きで伊吹が卓上のリモコンを手に取り、チャンネルを変えようとするが、それを加奈が制止した。伊吹は本人がそう言うならという風にあっさり引き下がった。
大丈夫だろうか。少し心配になる。
七瀬は少し料理の手を止めてニュースに集中する。
司会は翠名大学の学生3人が立て続けに亡くなったこと、しかし最初に亡くなった北島という学生以外の死には事件性が見られないこと、死亡した学生3人が一週間ほど前の日曜日一緒にどこかに旅行に出かけたこと、その旅行に同行した翠名大学の学生はもう一人いたことなどをコメンテーターとの応酬のなかで述べた。
その後、死亡した3人の学生の遺族や友人たちのコメントが紹介された。皆一様に彼らの死を悼むような発言を遣りきれなそうに喋っている。
加奈のことがまた心配になり、七瀬は彼女の表情に目を向ける。途端、七瀬はすごいスピードで顔の向きを逸らしてしまった。思わず加奈から目を背けてしまったので。
--今、加奈さんほんの少しだけど笑っていた?
「こっちから出向こう」
そう言ったのは伊吹だった。
「向こうの出方を待ってるんじゃ埒があかない。哀座さんたちが邪魅に遭遇した場所に行ってみるべきだと思うんだ」
七瀬と加奈も賛成した。このままずるずる持久戦はこっちの精神力と体力がもたない。
3人は電車を乗り継いで件の山奥にあるトンネルへと向かった。
山の麓までは電車が通っていたが、そこからは交通手段はなかったので山道を10キロ近く歩かなければならないことが判明した。
今いる場所は県単位では東京より気温が高いはずだが、山頂から吹き降ろす風のせいか、今感じている体感温度は東京より大分涼しかった。
七瀬は大きく息を吸い込む。
「やっぱり山の空気は美味しいですね」
そう加奈に話しかけたのだが、どこか思い詰めた様子の彼女からは曖昧な相槌がかえってくるだけだった。
加奈たちが邪魅に遭遇した場所まで、伊吹はタクシーを使って向かうことを提案したが、七瀬は反対した。ここまでは何もなかったがいよいよ山中となれば何が起こるかわからない。あまり民間人を巻き込まないほうがいいと考えたのだ。
結果から言えば移動手段について考えたのは杞憂だった。なぜなら「それ」には山に入って数分もしないうちに遭遇してしまったから。
その白い獣は音もなく3人の前に現れた。その体毛の多くは雪のような白で、頭部、足の関節、尻尾には緑色の毛が生えていた。全体としては猪のような造形で、口元からは天に向かって反り返る巨大な牙が伸びていた。
そしてその白い獣は場で嘶く。この世のものとは思えない奇妙な音が山全体に響き渡り空気を撹拌する。立ち眩みを覚えたのか、思わず加奈はその場で膝をついた。
伊吹はすばやい動きで白い獣に飛び掛ると、その長い牙にどこからか取り出した刀の鞘を立てかけて下から押し上げるようにしてその嘶きを妨げようとする。
邪魅はそんな伊吹をうっとうしそうに首をふるって跳ね飛ばす。伊吹はその勢いのまま1メートルほど吹っ飛ばされるが、うまく受身を取って土の地面を転がった。
粗金の 神の橋目に 跡垂れし 宮居の山は 常磐堅磐に
七瀬がそう呟くと、それほど声量は出ていないにもかかわらずその声は不思議と山中にこだまする。
「禍神の九十、金剛不壊!」
伊吹の身体に深緑色の靄が纏わりつく。この術式は鏡家に代々伝わる術式のなかでも奥義ともいえる群に数えられる1つで、対象の肉体の強度を大きく上げる。伊吹は彼自身のあまりに強大な力ゆえ、七瀬の金剛不壊なくしては全力で戦闘することはできなかった。
伊吹が後にバックステップを踏むような動作をすると、一瞬にして姿が消え、次の瞬間には彼の背後に数メートル先にいた加奈と七瀬の後に回り込む。
伊吹が「失礼」と言って2人の腰に手を回した次の瞬間には、3人は上空数メートルの高さまで飛び上がっていた。
「た、高い……」
加奈は真下を見て放心したように呟く。
「大丈夫、安全ですよ」
伊吹がそばにある背の高い樹木の幹に軽く足先を付けると、3人の身体は瞬く間に消え、また数十メートル離れた上空に現れる。
「伊吹、どうするの? 逃げるの?」
七瀬が尋ねる。
「まさか。あそこはあんまり開けてないし、公道も近いだろう。だからもっと人里から離れて、開けた場所に移動するんだよ」
しばらく上空で移動を繰り返した後、伊吹はあらかじめ上から目星をつけておいた地面に降り立った。
今伊吹がやってみせたのは韋駄天と呼ばれる彼の家、彼方家にやはり代々伝わる神速の移動術である。七瀬が上空で平然と会話していたことからも明らかなように、空間をものすごいスピードで移動しているのではなく、いわゆる瞬間移動をしている。一族のなかでも、この術をこれほどの精度、動作時間の少なさ、距離で行うのは伊吹ぐらいのものであった。
3人の目の前には先ほどの数倍の大きさになった白い猪が鎮座して、こちらを見下していた。
「あれだけ長い距離を移動したのに、もうご対面か」
七瀬の首下のあたりから低い声がする。ミクモの声だった。外出時にはこうして七瀬の首下に潜むのが彼の習慣であった。加奈が誰の声だろうか、と少し驚いているのが見える。
「この山全体があいつの領域なんだ」
「さながら釈迦の手のひらのなかの孫悟空ってところか」
白い猪は大きく息を吸い込むと、それを吐き出す。吐き出された息は黒い靄のようで吸うだけで有害であることは一目瞭然だった。
「伊吹、こっちは私が何とかするから」「了解した」「禍神の七十八、明鏡止水」
七瀬が叫ぶと、黒い靄が次第に色が薄まり、普通の空気と同じような無色透明に変化した。
一方の伊吹は黒い靄を縫うように幾度か韋駄天での瞬間移動をして巨大な白い猪の鼻先に躍り出る。
そして腰元の刀の鞘に左手を、柄に右手をかける。神速の居合い抜き。彼方家の剣術と術式の粋を集めた結晶である。
伊吹の左腰元から放たれた白刃は邪魅に当たる直前で、その刀身を延伸させる。今の邪魅の体躯にちょうど合わせるかのように変化した刀身はその体躯を真二つに切り裂いた。
上下に引き裂かれた邪魅の体躯は水をかけられた泥人形のように崩れ落ち、次第に雲散霧消する。それを見て伊吹は刀を鞘へと納めた。
七瀬は邪魅から漏れ出た粘性の血液のようなものを手で拭う伊吹を見ながら思う。
彼方家は最強の術士一家として、業界では誉れ高い名門の家だ。伊吹はその家でも史上最大と言っていいほどのとりわけ高い霊力を持って生まれたと聞いている。その一方で彼が使える術式は神速の移動術『韋駄天』、今は腰元にあるあの刀の顕在化、そして剣術を合わさった神速の居合い術だけだという。おまけに彼はその強大な力を加減することができず、常に全力でしか振るえない。加えてその力に耐えうるだけの肉体の『改造』を行ったり、肉体を補強する術式を持っていない。
七瀬なしの伊吹は術士のなかでも最弱の部類と言っていいだろう。そして七瀬以外に彼の高い霊力に耐えうるほどの肉体強化の術式を使える術士は存在しないという自負が彼女にはあった。
伊吹自身はその制約を苦々しく思っているのかもしれないし、彼がそのせいでかつて辛い思いを幾度もしてきたのを七瀬は知っている。それでも七瀬は伊吹がこういう特性を持っていたことを嬉しく思っていた。だからこそ自分は伊吹とともにいれるのだから。
哀座加奈は客間のベッドで寝転がりながら天井の暗闇を見つめていた。どうにも寝られそうになかった。朝から夕方まであれだけ眠ったのだから無理もない話ではある。
おまけに寝る前にあんな話を聞かされてしまっては寝るに寝れない。ひどい目に遭う子どもの話を聞く度に加奈はとても嫌な気持ちになる。それは単に可哀相というだけじゃないのだ。
なんとなく世界の幸福の総量が決まっているような気がして、自分が幸せな子ども時代を過ごせたのはそういう不幸な子どもたちの幸福を横取りしてしまったかのような罪悪感を覚えるのだ。そのくせそんな不幸な子どもに何もしてやれない自分を腹立たしく思うのだ。
そんなことを考えていると喉の渇きを覚えたので、加奈はキッチンのほうに向かった。七瀬からは夜喉が乾いたらキッチンのところから水を汲めばいいと言われていた。
キッチンに行くとダイニングテーブルに腰掛けて、伊吹が文庫本を読んでいるのが見えた。
「まだ起きてるんですね」
加奈はキッチンに向かうついでに伊吹にそう声をかけた。
「夜型なんですよ。僕」と伊吹は微笑しながら答えた。
七瀬もまた儚げな雰囲気ながら目の覚めるような美少女だが、目の前にいる少年も不思議な魅力を持っていた。
黒曜石のような瞳と髪は日本人にしては色素の薄い七瀬とは対照的だ。
その顔立ちは17歳にしてまだ男になりきっているとは言い難く、女物の衣服を纏えばそのまま女子で通せそうだった。その一方で仕草や立ち居ふるまい、ほとんど変化を見せない表情はやはりひどく大人びていた。
「眠れませんか?」
「あー、そうですね。昼間寝過ぎたかも」
「彼方さんも眠れないんですか?」
「ええ。普段から少し不眠症気味なんです。ここ数ヶ月の話ですけどね。だから眠くなるまでこうして本を読むのが習慣なんです」
七瀬の話から推測すると伊吹と七瀬が彼らの家を出たのは数ヶ月前なのだろう。だとすれば伊吹の数ヶ月前というのは家を出てからということなのだろうか。
やはりこの生活が不安で寝付けないのだろうか。あるいは朝起きたら今までのことが全て夢だった、という風に世界がそれ以前に戻ってしまうのが怖いのかもしれない。そんな妄想話が加奈の頭を過った。
5《七瀬》
七瀬は昼食を作りながらダイニングにあるテレビを時折ちらちらと見ていた。ワイドショーをやっている。
テレビの前のソファには伊吹と加奈が座っている。
芸能人の不倫報道についてのニュースが終わり、次は翠名大学学生の連続死亡事件についてのニュースを扱うと司会が告げた。
静かでそれでいて素早い動きで伊吹が卓上のリモコンを手に取り、チャンネルを変えようとするが、それを加奈が制止した。伊吹は本人がそう言うならという風にあっさり引き下がった。
大丈夫だろうか。少し心配になる。
七瀬は少し料理の手を止めてニュースに集中する。
司会は翠名大学の学生3人が立て続けに亡くなったこと、しかし最初に亡くなった北島という学生以外の死には事件性が見られないこと、死亡した学生3人が一週間ほど前の日曜日一緒にどこかに旅行に出かけたこと、その旅行に同行した翠名大学の学生はもう一人いたことなどをコメンテーターとの応酬のなかで述べた。
その後、死亡した3人の学生の遺族や友人たちのコメントが紹介された。皆一様に彼らの死を悼むような発言を遣りきれなそうに喋っている。
加奈のことがまた心配になり、七瀬は彼女の表情に目を向ける。途端、七瀬はすごいスピードで顔の向きを逸らしてしまった。思わず加奈から目を背けてしまったので。
--今、加奈さんほんの少しだけど笑っていた?
「こっちから出向こう」
そう言ったのは伊吹だった。
「向こうの出方を待ってるんじゃ埒があかない。哀座さんたちが邪魅に遭遇した場所に行ってみるべきだと思うんだ」
七瀬と加奈も賛成した。このままずるずる持久戦はこっちの精神力と体力がもたない。
3人は電車を乗り継いで件の山奥にあるトンネルへと向かった。
山の麓までは電車が通っていたが、そこからは交通手段はなかったので山道を10キロ近く歩かなければならないことが判明した。
今いる場所は県単位では東京より気温が高いはずだが、山頂から吹き降ろす風のせいか、今感じている体感温度は東京より大分涼しかった。
七瀬は大きく息を吸い込む。
「やっぱり山の空気は美味しいですね」
そう加奈に話しかけたのだが、どこか思い詰めた様子の彼女からは曖昧な相槌がかえってくるだけだった。
加奈たちが邪魅に遭遇した場所まで、伊吹はタクシーを使って向かうことを提案したが、七瀬は反対した。ここまでは何もなかったがいよいよ山中となれば何が起こるかわからない。あまり民間人を巻き込まないほうがいいと考えたのだ。
結果から言えば移動手段について考えたのは杞憂だった。なぜなら「それ」には山に入って数分もしないうちに遭遇してしまったから。
その白い獣は音もなく3人の前に現れた。その体毛の多くは雪のような白で、頭部、足の関節、尻尾には緑色の毛が生えていた。全体としては猪のような造形で、口元からは天に向かって反り返る巨大な牙が伸びていた。
そしてその白い獣は場で嘶く。この世のものとは思えない奇妙な音が山全体に響き渡り空気を撹拌する。立ち眩みを覚えたのか、思わず加奈はその場で膝をついた。
伊吹はすばやい動きで白い獣に飛び掛ると、その長い牙にどこからか取り出した刀の鞘を立てかけて下から押し上げるようにしてその嘶きを妨げようとする。
邪魅はそんな伊吹をうっとうしそうに首をふるって跳ね飛ばす。伊吹はその勢いのまま1メートルほど吹っ飛ばされるが、うまく受身を取って土の地面を転がった。
粗金の 神の橋目に 跡垂れし 宮居の山は 常磐堅磐に
七瀬がそう呟くと、それほど声量は出ていないにもかかわらずその声は不思議と山中にこだまする。
「禍神の九十、金剛不壊!」
伊吹の身体に深緑色の靄が纏わりつく。この術式は鏡家に代々伝わる術式のなかでも奥義ともいえる群に数えられる1つで、対象の肉体の強度を大きく上げる。伊吹は彼自身のあまりに強大な力ゆえ、七瀬の金剛不壊なくしては全力で戦闘することはできなかった。
伊吹が後にバックステップを踏むような動作をすると、一瞬にして姿が消え、次の瞬間には彼の背後に数メートル先にいた加奈と七瀬の後に回り込む。
伊吹が「失礼」と言って2人の腰に手を回した次の瞬間には、3人は上空数メートルの高さまで飛び上がっていた。
「た、高い……」
加奈は真下を見て放心したように呟く。
「大丈夫、安全ですよ」
伊吹がそばにある背の高い樹木の幹に軽く足先を付けると、3人の身体は瞬く間に消え、また数十メートル離れた上空に現れる。
「伊吹、どうするの? 逃げるの?」
七瀬が尋ねる。
「まさか。あそこはあんまり開けてないし、公道も近いだろう。だからもっと人里から離れて、開けた場所に移動するんだよ」
しばらく上空で移動を繰り返した後、伊吹はあらかじめ上から目星をつけておいた地面に降り立った。
今伊吹がやってみせたのは韋駄天と呼ばれる彼の家、彼方家にやはり代々伝わる神速の移動術である。七瀬が上空で平然と会話していたことからも明らかなように、空間をものすごいスピードで移動しているのではなく、いわゆる瞬間移動をしている。一族のなかでも、この術をこれほどの精度、動作時間の少なさ、距離で行うのは伊吹ぐらいのものであった。
3人の目の前には先ほどの数倍の大きさになった白い猪が鎮座して、こちらを見下していた。
「あれだけ長い距離を移動したのに、もうご対面か」
七瀬の首下のあたりから低い声がする。ミクモの声だった。外出時にはこうして七瀬の首下に潜むのが彼の習慣であった。加奈が誰の声だろうか、と少し驚いているのが見える。
「この山全体があいつの領域なんだ」
「さながら釈迦の手のひらのなかの孫悟空ってところか」
白い猪は大きく息を吸い込むと、それを吐き出す。吐き出された息は黒い靄のようで吸うだけで有害であることは一目瞭然だった。
「伊吹、こっちは私が何とかするから」「了解した」「禍神の七十八、明鏡止水」
七瀬が叫ぶと、黒い靄が次第に色が薄まり、普通の空気と同じような無色透明に変化した。
一方の伊吹は黒い靄を縫うように幾度か韋駄天での瞬間移動をして巨大な白い猪の鼻先に躍り出る。
そして腰元の刀の鞘に左手を、柄に右手をかける。神速の居合い抜き。彼方家の剣術と術式の粋を集めた結晶である。
伊吹の左腰元から放たれた白刃は邪魅に当たる直前で、その刀身を延伸させる。今の邪魅の体躯にちょうど合わせるかのように変化した刀身はその体躯を真二つに切り裂いた。
上下に引き裂かれた邪魅の体躯は水をかけられた泥人形のように崩れ落ち、次第に雲散霧消する。それを見て伊吹は刀を鞘へと納めた。
七瀬は邪魅から漏れ出た粘性の血液のようなものを手で拭う伊吹を見ながら思う。
彼方家は最強の術士一家として、業界では誉れ高い名門の家だ。伊吹はその家でも史上最大と言っていいほどのとりわけ高い霊力を持って生まれたと聞いている。その一方で彼が使える術式は神速の移動術『韋駄天』、今は腰元にあるあの刀の顕在化、そして剣術を合わさった神速の居合い術だけだという。おまけに彼はその強大な力を加減することができず、常に全力でしか振るえない。加えてその力に耐えうるだけの肉体の『改造』を行ったり、肉体を補強する術式を持っていない。
七瀬なしの伊吹は術士のなかでも最弱の部類と言っていいだろう。そして七瀬以外に彼の高い霊力に耐えうるほどの肉体強化の術式を使える術士は存在しないという自負が彼女にはあった。
伊吹自身はその制約を苦々しく思っているのかもしれないし、彼がそのせいでかつて辛い思いを幾度もしてきたのを七瀬は知っている。それでも七瀬は伊吹がこういう特性を持っていたことを嬉しく思っていた。だからこそ自分は伊吹とともにいれるのだから。
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