リーセフィヨルドに吹く風

暁天進太

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述懐

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咲恵。覚えているか? あの泥棒の事を。僕等は空港で知り合ったんだ。待合のロビーで航空券の座席を確認していた時の事だ。

「きゃーっ! 泥棒!」

若い女性の声がロビーに響いて、振り返ると、浅黒い肌の外国人と思われる男が、ピンク色のキャリーバッグを引いて駆けてくる。僕は咄嗟に男の足に荷物を投げた。それが上手く命中して男は転倒した。その弾みで男はピンク色のキャリーバッグを手離した。捕まえようと後を追いかけたが、その男は足に怪我を負った筈なのに、並外れて、すばしっこく、行き交う人の隙間を巧みにすり抜けて逃げてしまった。

「ありがとうございました!」

そう言って、お前は深々と頭を下げた。それが最初の出会いだった。一目で上質な生地と分かる薄手のコートを身に着けていた。

「お陰様で出発できます」 お前は明るい表情で僕を見た。

「うーむ、逃げられた。フライトには間に合いそうですか?」 僕が訊くと、

「あっ! 大変!」

お前は、慌てて手帳の後ろの方の頁を破って僕にくれた。

「明日の正午に、ここへ電話して下さい」

そこには、お前の自宅住所と電話番号が書かれていた。大学の卒業を祝っての旅行だと知ったのは、電話に出たお母さんの口からだった。


初めて咲恵の実家を訪ねたのは、お前が23歳の時で、夏祭りの最終日だった。お前のお母さんが用意してくれた、揃いの浴衣を着て夜店を見て回った。それだけで楽しかった。その帰り、川べりの道で転んだ時、お前は、くるぶしをガラス片で切ってしまった。消毒の応急処置として、僕は、お前のくるぶしに口を当てて幾度か血を吸い出した。その現場を偶然、通りかかった姉夫婦が見て、後々、それが語り種となったんだ。あの頃の、お前は誰よりも綺麗だった。僕等は、その二年後に結婚式を挙げた。映画女優のようだと同僚からも褒められたもんだ。僕は鼻が高かったよ。それからもいろいろあったな。いろいろあったが……咲恵、僕も余命宣告を受けてしまったよ。すい臓がんだ。だけど、治療も延命の手術も断ったよ。



咲恵は若い頃、ノルウェーに旅をした。

「もう一度、ノルウェーに行きたい。お願い!   ノルウェーへ連れて行って」

と咲恵はせがんだ。咲恵が42歳の秋、乳がんが発覚し、余命宣告を受けたからだ。

だが、乳がんの治療を急いだ為に、逆に抗がん剤で死を早めてしまった。結局、二年足らずで咲恵は呆気なく、この世を去ってしまった。若いほど、がんの進行は早いのだ。

妻の希望を叶えてやれなかった後悔の念が晴れない。今また、最善を尽くすという医療の論理で、自分が、がんの標準治療を受けたなら、病院で絶命するのは目に見えている。それならば、いっそと、準造はノルウェーへの渡航を決意したのだった。

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