2 / 3
述懐
しおりを挟む咲恵。覚えているか? あの泥棒の事を。僕等は空港で知り合ったんだ。待合のロビーで航空券の座席を確認していた時の事だ。
「きゃーっ! 泥棒!」
若い女性の声がロビーに響いて、振り返ると、浅黒い肌の外国人と思われる男が、ピンク色のキャリーバッグを引いて駆けてくる。僕は咄嗟に男の足に荷物を投げた。それが上手く命中して男は転倒した。その弾みで男はピンク色のキャリーバッグを手離した。捕まえようと後を追いかけたが、その男は足に怪我を負った筈なのに、並外れて、すばしっこく、行き交う人の隙間を巧みにすり抜けて逃げてしまった。
「ありがとうございました!」
そう言って、お前は深々と頭を下げた。それが最初の出会いだった。一目で上質な生地と分かる薄手のコートを身に着けていた。
「お陰様で出発できます」 お前は明るい表情で僕を見た。
「うーむ、逃げられた。フライトには間に合いそうですか?」 僕が訊くと、
「あっ! 大変!」
お前は、慌てて手帳の後ろの方の頁を破って僕にくれた。
「明日の正午に、ここへ電話して下さい」
そこには、お前の自宅住所と電話番号が書かれていた。大学の卒業を祝っての旅行だと知ったのは、電話に出たお母さんの口からだった。
初めて咲恵の実家を訪ねたのは、お前が23歳の時で、夏祭りの最終日だった。お前のお母さんが用意してくれた、揃いの浴衣を着て夜店を見て回った。それだけで楽しかった。その帰り、川べりの道で転んだ時、お前は、くるぶしをガラス片で切ってしまった。消毒の応急処置として、僕は、お前のくるぶしに口を当てて幾度か血を吸い出した。その現場を偶然、通りかかった姉夫婦が見て、後々、それが語り種となったんだ。あの頃の、お前は誰よりも綺麗だった。僕等は、その二年後に結婚式を挙げた。映画女優のようだと同僚からも褒められたもんだ。僕は鼻が高かったよ。それからもいろいろあったな。いろいろあったが……咲恵、僕も余命宣告を受けてしまったよ。すい臓がんだ。だけど、治療も延命の手術も断ったよ。
咲恵は若い頃、ノルウェーに旅をした。
「もう一度、ノルウェーに行きたい。お願い! ノルウェーへ連れて行って」
と咲恵はせがんだ。咲恵が42歳の秋、乳がんが発覚し、余命宣告を受けたからだ。
だが、乳がんの治療を急いだ為に、逆に抗がん剤で死を早めてしまった。結局、二年足らずで咲恵は呆気なく、この世を去ってしまった。若いほど、がんの進行は早いのだ。
妻の希望を叶えてやれなかった後悔の念が晴れない。今また、最善を尽くすという医療の論理で、自分が、がんの標準治療を受けたなら、病院で絶命するのは目に見えている。それならば、いっそと、準造はノルウェーへの渡航を決意したのだった。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

おれ、ユーキ
あつあげ
現代文学
『さよならマユミちゃん』のその後を描くスピンオフ作品。叔母のマユミちゃんが残してくれた家でシェアハウスを始めた佑樹、だがやってきたのは未知の感染症だった。先の見えない世界で彼が見つけたものとは――?80年代生まれのひりひり現在進行形物語!

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる