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   ◇

 一日目の試験が終わり、出来具合を話題にしつつも明日の準備のためにみんなが早めに下校していく中、私は一人昇降口で空を見上げていた。
 すると、それをさえぎるように傘がさしかけられた。
「待った?」
 ――やっぱり来てくれた。
「うん」と、私はうなずいた。「会いたかったから」
 素直な言葉に戸惑いの表情を見せながらも、彼は私に寄り添ってくれる。
「今日も傘を忘れたの?」
「今日は持ってます」
「じゃあ、出せば?」
「いえ」と、私は前を向いたまま答えた。「一緒に入っていきます」
「ずいぶん素直だね」
「この方が話をするのにいいって言ってたじゃないですか」
「あはは、ボクのせいか」と、彼は微笑みを浮かべながら歩き出した。
 母親にこんな言い方をしたら、『口答えをするな』どころか、『人のせいにするんじゃないよ!』と、一晩中説教されたものだ。
 でも、彼はちゃんと受け止めてくれる。
 ――大丈夫なんだ。
 二度目だと、少しはうまく歩ける。
 朝のマユとのできことを話すと、彼はほめてくれた。
「よかったじゃん。宿題完了だね」
「でも、いつの間にかみんなの問題に広がっちゃってて、謝るタイミングを逃してしまって、かえって気まずいんです」
「じゃあ、次の宿題だね」
「課題を出す方は楽ですけど、やる方は大変ですよ」
「大丈夫だよ。最初の宿題だってできたんだし。今は心理的なハードルが高そうに思えるかも知れないけど、言ってしまえば、どうにかなるものだよ」
 そううまくいけばいいんだけど。
「それが友達ってものだからね」
 友達のいない私には、確信の持てない話だった。
 私の口からぽろりと正直な言葉がこぼれ出た。
「私は人と仲直りしたことがないんです」
「ふうん」と、彼は首をかしげながら私に顔を向けた。「どうして?」
「ずっと人を避けてきたから、仲良くなったことがないし、人と衝突しそうになると逃げてしまって、ケンカもしたことがないんです。だから、仲直りというものがどういうものかすら分からないんです」
「なるほどね」と、彼はそうつぶやいたきり顎に親指をあてて黙り込んでしまった。
 しばらく次の言葉を待ってみたけど、会話が進まないまま駅前のロータリーまで来てしまった。
 今日はずいぶんと時間のたつのが早かったな。
 これが普通で、昨日までがおかしかったんだけどね。
 彼は傘を畳んで駅の階段を上る。
 今日は一緒に電車に乗るのかな。
 それなら、まだ少し話せる。
 でも、彼はずっと黙っていて、さっきの私の言葉に対する返事を聞かせてはくれない。
 話しかけるきっかけがつかめないままホームに来てしまった。
 昼の時間帯だけど、通過待ちで停車中の各駅停車は他校の高校生も多くて混んでいた。
 イケメンの彼と不釣り合いな私に遠慮のない視線が刺さる。
 でも、それほど気にはならなかった。
 いつもなら髪の毛で暗幕のバリアを張るところだけど、今日は隠さなくてもいい。
 それよりも彼の言葉を聞きたかった。
 特急電車が通過して発車のアナウンスが鳴り、電車が動き出す。
 車内は高校生のおしゃべりで賑やかだ。
「ていうかさ、あの問題、ひどくない?」
「そうかな。プリントそのまんまだったじゃん」
「だからさ、言ってくれてたら、ちゃんとやってたっつうの」
「言ってたし」
 ゲラゲラと遠慮のない笑い声も聞こえてくる。
 私たちのような深刻な話をするような雰囲気ではなかった。
 彼も何度か何かを言いかけて、でも、そのたびに、人差し指を立てて軽く片目をつむりながら、「あ、やっぱ、ゴメン」と私に謝っていた。
 いつもの魔法のような時間は来なかった。
 あっという間に一駅三分間が過ぎていた。
 彼の降りる駅に電車が滑り込む。
 ドアが開いて彼が傘を外に差し向けて広げる。
 雨はやみそうにないどころか、少し強くなっているようだった。
 ホームに降り立った彼に、じゃあね、と手を振ろうとしたときだった。
 振り向いた彼がいきなり私のその手を引いたのだ。
 ――え?
 ちょっと、何!?
 背中でドアが閉まり、電車が動き出す。
「ど、どうしたんですか?」
 彼が私に傘をさしかける。
「もう少し話がしたかったから」
 はあ。
 それは私もそうだけど。
 ちょっと強引すぎるんじゃないの?
「次の電車が来るまで一緒にいようよ」
 もう行ってしまったんだから、選択肢なんかない。
 勝手に決められてしまったけど、それに従ったのは私だ。
 誰もいない静かな駅のホームに二人並んで、私たちは大きな一つの傘に入って向かい合っていた。
 距離が近すぎて彼の胸しか見えない。
 私は臙脂色のネクタイの結び目を見ていた。
 だけど、かえって目を合わせなくてすむせいか、意外と心穏やかに向かい合っていられた。
「さっきからずっとキミのことを考えていたんだ」
 彼が落ち着いた声で話し始める。
「でも、何と言うべきか思いつかなくて黙っていたんだ。すまないね」
「いえ、そんな」
 ずっと私のことを真剣に考えてくれていたんだ。
 それだけでも感謝の気持ちがあふれてくる。
 今まで、そんな人、私のまわりにはいなかった。
 祖父母はかわいがってくれていたけど、一緒に暮らせるようになったのは最近だ。
 それに、言うべきことを思いつかないから何も言わなかったという正直な言い方も、むしろ信頼につながるような気がした。
 そうか、そういうことか。
 私も言えなかったことを正直に出して、ちゃんと謝ればいいんだ。
 言いたいことはあるけど、それをうまく言葉として口に出すことができない。
 何と言ったらいいのか分からないと、言えないなら言えないなりに、はっきり言えばいいんだ。
 彼の声が私の耳を撫でるように聞こえてくる。
「それでさ、キミの話をもっと聞くべきだと思ったんだよ。人と仲良くすることが分からないって言ってたけど、何か原因があるんじゃないのかな。おそらくそれを考えないと話が進まないんだ」
 言っていいのかどうかほんの一瞬だけ迷ったけど、決心がつく前にひとりでに言葉が口からこぼれ出ていた。
 この人なら、大丈夫。
 やっとそんな人に出会えたような気がしたからだ。
「私、人と仲良くするっていうこと自体が分からないんです。両親は仲が悪かったし、暴力や精神的苦痛を与えられ続けていて、仲が悪いっていう状態しか知らなくて、その反対がどういう感じなのか分からないんです」
 自分にとって嫌な記憶に深く関連があるのに、信じられないくらい感情は穏やかで、次から次へと言葉が滑らかに流れていく。
「愛想笑いとか、相手を怒らせないようにするっていうことじゃないんだろうなっていうのは分かるんですけど、じゃあ、そもそもの正解はなんだろうってなるとまったくイメージがわかないんです」
「なるほどね」と、彼は短く相づちを打った。
 ありがとう。
 ちゃんと話を聞いてくれている。
 それだけで良かった。
 ちゃんと受け止めてくれている。
 それが分かるだけでもうれしかった。
 彼に手を引っ張られて電車を降りたときから、彼に飛び込んでいけばいいって分かっていたんだ。
 こんな暗い話、学校でしたらドン引きされるだろうけど、今はそんな心配はいらなかった。
「学校のみんなが仲良くしている様子を見ても、自分がどうすれば良いのかは、きっかけが分からないし、好きという気持ちもよく分からないんです。嫌いじゃないとか、否定の形でしかとらえられなくて、それそのものがどんな気持ちなのかは分からないんです」
「そうか」と、彼は首をかしげて私の顔をのぞき込んだ。「たとえば、好きなお菓子とか、いつも読んでる漫画とかないの?」
「出されたものを食べなくちゃいけなかったから、自分で選んだことがないですね。あと、本を買えるようになったのは高校に入ってからです」
「うーん」と、彼は腕組みをした。
 逆に私が誰かにこんなことを言われたら、やっぱり返事に困ってただろうな。
 どう扱っていいのか分からないもんね。
 あまり正直に言いすぎただろうか。
「好きっていうことが分からないっていうのは、探しているものがそこにあるのは分かるけど、その形がよく分からないってことなのかな。箱の中にある何かを触って当てるクイズみたいな感じ?」
「そのたとえもよく分からないけど」
 お互いに視線を交わしてほほえみ合う。
 これが通じ合うっていうことなんだ。
「たとえばさ、好きっていうことの一つとして、その人のことをいつも考えているとか、ふとしたことでその人のことを思い出すっていうのがあるんじゃないかな?」
 突然、体の中を激しく血が巡り出す。
 心よりも先に体が反応してしまう。
 すり込まれた本能が叫んでいるような苦しさだ。
 私は胸を押さえながら言い返した。
「嫌いな人のことだって、ずっと考えてしまうことってありますよね。考えたくなくて、忘れてしまいたいのに、心の中に深く引っかかり続ける嫌なこととか」
 むしろ、そういうことしか思い浮かばない。
「もちろん、嫌な感情が沸き起こる相手のことを好きになるわけないよ。思い浮かべた時に楽しい記憶とセットだとか、その人と楽しいことを一杯やってみたいと思うような気持ち、それが好きっていうことなんじゃないかな」
 でも、私にはそんな記憶がないから分からない。
 家でも、学校でも、ずっと人を避け続けてきた。
 そうか……、きっと、それこそが原因なんだろうな。
 そして、彼は優しくたずねた。
「キミは親とうまくいってないんだね」
「はい。父からは暴力や精神的苦痛を受けてましたし、母親からは口答えをするなと怒鳴られていました。だから、私は逃げたんです」
「それは大変だったね。でも、逃げられて良かったよ。まだこうやって話せるだけ、自分自身を支えることができてるっていうことだからね」
「私、今の父ともうまくいってないんです」
「今の父って?」
「母が再婚したんです」
「ああ、そういうことか」と、彼はうなずいた。
「新しい父はとても穏やかで私のこともいろいろと気をつかってくれていますし、学費の心配はしなくていいよとか、いきなり家族だなんて思ってくれなくてもいいからと言ってくれているんです。だけど、やっぱり私の父ではなくて、母の再婚相手としか思えなくて。家族の愛情っていうものを知らないからなのかもしれませんね」
「だから信じられない、と」
 私はうなずくしかなかった。
 だけど、素直な気持ちをさらけ出せて、むしろ心が安らぐようだった。
 凝り固まっていた気持ちを解きほぐして一つ一つ理解してもらえるのが、こんなにもうれしいことだなんて、知らなかった。
 私は大きく息を吸い込んだ。
 やっと息ができる。
 干からびた水たまりでパクパクと口を開けている鯉みたいな生活からぬけだして、ようやく背筋を伸ばせるんだ。
「私、高校受験を機会に、親から逃げ出したくて、祖父母の家から通えて、しかも、親も反対しにくい進路を探したんです」
「それが看護科だったわけだね」
「はい。だけど、実際に授業や実技演習が始まってみると、自分はそもそも看護師に興味もなかったし、適性もないってことが分かってしまったんです」
「いいんじゃないかな」と、彼が線路の方へ視線をそらしながら続けた。「間違えたと思ったら、立ち止まってやり直せばいいんだよ。違うって分かったんだから、少なくとも選択肢を一つ消せたんだよ。正しい答えが他にあるってことが分かったんだから、それに気づいた自分を褒めてあげなくちゃ。たしかに時間を無駄にしたかもしれない。今からやり直そうとしたら、すべてが無駄になって、まわりから遅れてしまうだろうね。だけど、このまま間違った道を進み続けたって、本当の自分とは関係のないところへそれていってしまうだけだよ。間違えたことが悪いんじゃないよ。引き返す勇気も大事なんだよ」
 彼の言いたいことがすっと私の心に染みこんでくる。
 ずっと思っていたことがはっきりとした言葉の形に表されて伝わってきたんだ。
 今までは、自分で選んだことが間違っていて、「やっぱりおまえはだめなんだ」と笑われているような気がしていたんだろうな。
 それで、自分でも、「やっぱり自分なんかができることなんて何もないんだ」と、あきらめてしまう。
 そんな悪循環をハムスターのようにグルグルもがいていたのが今までの私だったんだ。
「今はだめだって分かったかもしれないけど、その時は正しい選択だったんだよ。逃げるためには必要だった。それを自分で見つけて、自分でそうしようと決めたんだ。それだけでもキミは偉いんだよ。もっと自信を持っていいんだよ」
 気がつくと頬が濡れていた。
 思わず空を見上げようとしたけど、彼の差しかける傘はちゃんと私の頭の上にあった。
 いつの間にか私は泣いていたらしい。
「逃げたことは正しいんだ。だからこそ、今キミはこうやって正しい道を探そうとしているんだからね。元の場所に居続けたら、そんなことすらできなかったんだよ」
 そう、そうなんだ。
 母親のところから高校に通っていたら、おそらく私は電車の窓ガラスの向こうへ行っていたと思う。
 ここではないどこかへ行けないのなら、どこでもない向こうへ行けばいい。
 たぶん、そういう結末を選んでいただろう。
 選ぶ選択肢すら与えられずに、それを自分が選んだと思うように追い詰められて、自分から率先して向こう側へ飛び込んでいただろう。
 窓を打ち破り、鏡をたたき割って、この世界から逃げ出していたんだろう。
 だけど……。
 ――私は、まだこちら側にいる。
 気がつくと体が震えていた。
 こわい。
 まだこわい。
 今でも、思い出そうとすると恐怖に支配されてしまう。
 逃げようとしても、連れ戻そうといつでも手が伸びてくる。
 親元からは逃げたけど、どこまで……、どこまで逃げればいいの?
 どこに道はあるんだろう。
 と、彼が思いがけないことを言い始めた。
「でも、本当にキミは看護師に向いていないのかな」
 ――え?
「確かにうまくいっていないかもしれないし、志望のきっかけはあまり純粋ではなかったかもしれない。だけど、だからって、全然資格がないと言い切れるのかな」
 どうなんだろう。
 分からない。
 ただ単に後ろめたさを抱えているからそう思っているだけなのかもしれないし、ちょっと下手だから苦手だと思い込んでいるだけかもしれない。
「学校へ通うのはつまらない?」
「そんなことはありません。欠席したこともありませんし、普通の科目よりも、看護系の授業の方が興味があるくらいです」
「なら、好きなんじゃないの?」と、彼が私に微笑みを向ける。
 そうかなあ。
「だって、友達も言ってたんだろう。食べていける資格だったからとか、他に職業のイメージがなかったからとか、案外適当な理由で選んでるだろ」
 不意に彼の手が伸びてきて、思わず飛び退きそうになってしまった。
 彼は微笑みをたたえたまま優しく私の頬に触れた。
 風に吹きつけられた雨だか流れた涙なのか、濡れた私の頬を拭ってくれる。
「思い込みが一番良くないのかもしれないよ。自分だけで考えているから視野が狭くなるんじゃないかな。人の意見って、参考にならないことも多いけど、素直に耳を傾けてみたら、そういう意見もあるんだなって別の考え方を知ることもあるよね」
 私にはそれがない。
 人の話を聞くこと自体、怖くてできなかった。
 話を聞くというより、意見に従わされるしか選択肢がなかったからだ。
「こわかったかもしれない。今まではそうだったかもしれない。でも、もう今は大丈夫だよ。人の話は参考になるし、キミは自分の考えを言ったっていい。いろんな意見を聞いて、そして、自分で選べばいいんだよ。それは決して他人に服従するのとは違う。自分自身で選んだ自分だけの道なんだよ」
 そうなんだろうか?
 本当にそうなんだろうか。
 でも、彼の言葉が私の手を引いてくれそうな気がした。
 傘を差し掛けて、私の歩調に合わせて一緒に歩いてくれたように。
「私にできますか?」
 声が震えている。
 涙があふれて頬を伝い、顎から垂れる。
 鼻水も出てて、転んだ子供みたいに、きっと私、ひどい顔だ。
 そんな私を見られるのは恥ずかしいけど、でも彼なら、受け止めてくれるような気がした。
「大丈夫だよ」と、彼の言葉が励ましてくれる。「もうキミは一歩を踏み出しているんだ。友達に質問して、話を聞くことができた。ちゃんとできた自分を自分で抱きしめてあげなくちゃ」
 そんなふうに言われるのはうれしいけど、なんだか照れくさい。
 と、その時だった。
「じゃあ、ボクがしてあげるよ」
 彼が傘を沈ませたかと思うと、私の背中に手を回して抱き寄せたのだ。
 世界が切り取られる。
 私たち二人だけの世界に包まれる。
 ――え?
 いきなりのことで動揺してしまって私は固まっていた。
 決して嫌なことではない。
 照れくさくて逃げ出したいのに手も足も動かない。
 でも、不思議と心が落ち着いていた。
 私を包み込んでくれる人がいる。
 包み込まれたいと思ったのは初めてだ。
 踏切が鳴る。
 通過列車がやってきたかと思うと、あっという間に風と共に去っていく。
 舞い上がる水しぶきから守るように、傘の中で彼の腕に力がこもる。
 彼のささやきが私の耳をくすぐる。
「大丈夫。キミは人を愛することができるんだ。思いやりの心の大切さも知っているし、人の話に耳を傾けることもできるんだよ。だから、心配ないよ。自信を持っていい」
「本当に……本当にそうでしょうか」
 できるんだろうか。
 分かるんだろうか。
 本当に、私にそんなことができるんだろうか。
 ぽっかりと心に大きな穴の開いた、欠けたものだらけの私に、そんなことができるんだろうか。
「もうキミは人を好きになるってことがどんな気持ちなのか知っているじゃないか」
 ――え?
 どうして?
「ボクに会いたいと思ったんだろ」
 うん。
「ボクと話したいと思ったんだろ」
 うん。
「ボクに聞いてほしいって思ったんだろ」
 うん。
「それが好きってことじゃないか」
 そうか……。
 それでいいんだ。
 もう、答えを知っていたんだ、私。
「ボクも君が好きだよ」
 今度は私が力を込める番だった。
 離したくなかった。
 ずっと抱きしめていてほしかった。
 ずっと抱きしめていたかった。
 ずっと求めていたんだ。
 私を理解してくれる人、私を愛してくれる人、私が大事にしたい人を。
「運命を信じるんだ。自分自身で道を選べば、必ずそこに出会いがあるんだよ」
 彼の言葉は子守歌のように私を包み込む。
 彼が私の頭を胸に引き寄せて髪をなでてくれる。
 太くて刺さりそうな髪の毛なのに、彼の指先に絡め取られると、ゆるふわな感触に変わっていく。
 まるで魔法にかけられているみたいだ。
 私の涙で彼のシャツが濡れてしまう。
 でも、彼は私を離そうとはしなかった。
 指先は優しく髪をなでてくれるのに、腕は力強く私を抱きしめる。
 私、泣いてもいいんだ。
 ――そう、いいんだよ。
 彼の優しさが伝わってくる。
 涙があたたかい。
 私、生きてるんだ。
 生きてていいんだ。
 私はこんなにあったかいんだもん。
 恥ずかしくなんかない。
 泣いている自分を受け止めてくれる人がいる。
 こんなにうれしいことはない。
 私は生まれ変わったんだ。
 これから一つずつできることを増やしていこう。
 赤ちゃんがハイハイして、立ち上がって、笑いながら一歩、また一歩と歩き出すように。
 自分の選んだ道を堂々と胸を張って歩いていこう。
「大丈夫。キミならできるよ」
 ゆりかごであやされる赤ん坊のように、私は彼の腕の中で安らぎに包まれていた。
 どれくらいの時が過ぎていたんだろうか。
「やんだだろ」
 ――え?
「ほら、雨が」
 彼が傘を傾ける。
 いつの間にか、雲の色が軽くなって、切れ間から日差しが差し込んでいた。
 傘でさえぎられていた視界が開けて、柔らかな光が私の目にまぶしく飛び込んでくる。
 水に濡れた世界がキラキラと輝き出す。
 これが私の居場所なんだ。
 昨日と同じ、だけど、新しい世界。
 明日はマユに謝ろう。
 大丈夫、ちゃんと言える。
 今度は、ちゃんと言えるはず。
 私たちは並んでホームに立ち、各駅停車が来るのを待った。
 踏切の警報音が鳴り始める。
「また会えますか?」
「もちろん」
「明日?」
「それは分からない」と、彼は残念そうに首を振った。「でも、大丈夫。この世は魔法で満ちているんだ」
 電車が見えた。
「今日はどうもありがとう」と、私は彼に頭を下げた。「明日、必ず頑張ります」
「お役に立てて何よりだよ」
 ホームに電車が止まり、ドアが開く。
 乗らないわけにはいかないけど、お別れするのが寂しくてちょっと涙が浮いてくる。
 今度は私が手を引いちゃおうかな。
 そうすればもっと一緒にいられるでしょ。
 ――さすがに、それはしないけど。
 一歩踏み出し、電車に乗り込んで振り向く。
 ドアの前で彼が私を見送ってくれる。
 閉まる直前、私は自分の名前を言った。
「私、チホです」
「知ってる」と、彼はうなずいた。
 ドアが閉まる。
 電車が動き出す。
 手を振ってくれる彼の姿はすぐに見えなくなってしまった。
 名前を聞きたかったんだけどな。
 あなたは、いったい、誰なの?
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