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   ◆

 夏休みが終わり、記憶が混乱したまま私は退院した。
 ここからは外来診察に切り替えて治療を継続していくことになった。
 とはいえ、体に痛みはないし、時折襲われる頭痛以外に症状はない。
 お医者さんの話では、それも時間とともに落ち着いていくでしょうということだった。
 新学期の初日、半月ぶりに降り立った笹倉駅前のコンビニは復旧工事で中は見えなかった。
 駅前を行き交う通勤通学客の中でわざわざ足を止めて眺めていく人はいない。
 私にとっては世界が大きく変わった事故でも、関わりのない人には日常のささいな間違い探しにすぎないのか、べつに正解なんか興味ないというようにみな早足で目的地へと向かっていく。
 登校した私のまわりにはクラスメイトの輪ができた。
「聞いたよ、晶保、大変だったね」
「あたしたちずっと心配してたよ」
「もう大丈夫なの?」
 みんなの顔には見覚えがあるし、ちゃんと名前も思い出せる。
 だけど、教室には空いている席もなく、他に誰かがいなくなったといった話題も出ない。
 それでもやっぱり何か大切なことを忘れている感覚は変わらなかった。
 私だけが気づかない間違い探しをさせられているみたい。
「晶保、スマホはどうしたの?」
「うん、まだ新しいの買ってないんだ」
 事故現場にあった私の鞄は散乱していた中身と一緒に戻ってきていたけど、スマホは壊れていて使えなかった。
 今度の日曜日に親と新しいのを買いに行くことになっている。
 ないならないで特に困ることもないんだけどね。
 始業式やホームルームが終わり、夏休み中の課題が回収されて初日の日程は終わった。
 さっそく梨奈が私のところへ来た。
 この感じも懐かしい。
「ねえ、晶保、文化祭のことなんだけどさ」
「あ、そっか、もうすぐだっけ」
 もう今週の金曜日が校内開催で、土曜日は一般公開日だ。
 私たち一年C組は文化部や同好会で参加する人が多く、クラスとしては簡単なドリンク販売をやることになっている。
 吹奏楽部や演劇部のように発表のあるところは夏休み中は練習でいそがしかったんだろうけど、うちは箱買いしてきたペットボトルがなくなり次第終了というほとんど準備もいらないゆるい企画なので、文化祭間近なのにまったく盛り上がっていない。
 私も事故でそれどころではなかったから、なんだか浦島太郎みたいな気分だ。
「晶保は誰と見てまわるの?」
 誰と?
 ……何か予定あったっけ?
「べつに決まってないけど」
「あのさ、池田君のライブに誘われてるんだけど、晶保も来てよ」
「うん、いいよ」
 私が音楽が苦手なのはみんな知っている。
 本当はあまり気が進まないけど、無駄に波風を立てることはない。
 中学の失敗を二度と繰り返さないための協調性というか、穏やかな学校生活を送るための知恵というものだ。
「二日目の午後だって。空けておいてね」
「うん、分かった」
 バスケットボール部でもイベントを予定しているからと梨奈が準備の手伝いに行ってしまい、私は他の同級生にあいさつをして一人で教室を出た。
 用もないのになぜか図書館へ足が向いてしまう。
 夏休みの前半まで、毎日通っていたような気がするけど、読書が趣味ってわけでもないのに、私、本を読んでいたのかな。
 文化祭の準備でいそがしそうな文化系の部活の人たちが楽しそうに廊下で作業をしている横をすり抜けて図書館へ入ると、三年の先輩たちが受験勉強に取り組んでいて、こちらの空気はピリピリしていた。
 なるべく人のいない場所を探して自習席に座る。
 文化祭準備期間で課題は出ていないから、ここにいたってやることはない。
 だけど、なんだか懐かしい気持ちになるのはなぜなんだろう。
 窓から見る景色にも見覚えがあるし、古い本の匂いや、フローリングの床を歩く人の控えめな靴音も忘れてはいない。
 なのに、自分がここでしていたことだけは思い出せなかった。
「ちょっといいかな」
 え?
 声のする方を見ると、知らない男子生徒が立っていた。
「初めましてなんだけどさ」
 その人は二年生と名乗ると隣の席に腰掛けて私に体を向けた。
「前から気になってて、話してみたかったんだ」
「はあ」
「良かったら、文化祭、一緒にまわらない?」
 堂々とした態度で、まるで私の方が面談を申し込んだみたいだ。
「ああ、いえ、あの……」と、私はとっさに言い訳を探していた。「友達とライブを見る約束をしていて」
「二人でってわけじゃなくて、その友達も一緒でいいからさ」
「でも、友達にも聞いてみないと」
「今つきあってる人いないんでしょ。だったら、文化祭の時だけ試しに……」
 相手の話が頭に入ってこない。
 ――ああ、まただ。
 私は強引な人が苦手だ。
 いつもそうだ。
 一方的に話をされると、スイッチが切れたように何も聞こえなくなってしまうのだ。
 画面の向こうの再現ドラマを見ているような感覚。
 いつからだろう、私はよくこの感覚にとらわれる。
 現実と距離を置きたくなると感じるのか、現実から自分を守ろうとするのか、ガラスの壁の向こう側の出来事みたいに遮断してしまうのだ。
 中学の時、クラスのみんなに無視されたときもそうやって耐えていた。
 砂時計を眺めるみたいに、ただ時が流れていくのをじっと待つ。
 それで何かが解決するわけじゃない。
 だけど、受け入れるにはあまりにも苦しい現実に立ち向かうには、自分の力なんて弱すぎるからしかたがなかったのだ。
「とりあえず、連絡先交換しようよ」と、相手がスマホを取り出した。
「すみません、今、スマホ壊れてて」
 本当のことだから自信を持って言えて助かった。
 私は鞄を持って立ち上がった。
 相手は何か言いたそうだったけど、まわりの三年生たちの視線もあってそれ以上つきまとわれることはなかった。
 私は図書館から逃げ出していた。
 ここはもう私の居場所ではない。
 この前まで居心地が良かったはずなのに、この世界には何かが足りない。
 だけど、昇降口でクラスの区画を一通り眺めてみても、使われていない靴箱はなかった。
 いくら探しても欠けているものなどないんだぞと、納得のいかない正解を押しつけられても反論はできない。
 よってたかって、この世界のいびつさに気づいている私をあきらめさせようとしているの?
 学校を出て駅までの道を歩く。
 ふと誰かに名前を呼ばれたような気がして振り向く。
 スカートがふわりと浮いておさえたけど、誰も見てもいない。
 気のせいか。
 既視感を覚えつつ孤独を胸に抱えながら再び歩き出す。
 穴の開いた記憶を埋めるパズルのピースはどこにあるんだろう。
 最初からそんなものはなかったのかな。
 できかけの風景よりも、穴の開いた場所にあるはずだった未来が見てみたいのに。
 君だけがいない。
 顔も名前も、ぼんやりとした印象しか思い出せない君。
 どんなに不都合な現実を突きつけられたとしても、私の世界には君の形の黒い穴がぽっかりと開いているんだよ。
 駅でちょうどやってきた下り電車に乗り、ロングシートに一人で座る。
 レールの奏でるゆりかごのようなリズムに揺られながら目を閉じる。
 不意に花火の音が聞こえてきた。
 見ることのできなかった私たち二人だけの、心の花火大会。
 ――私、キスしたよね。
 目を閉じていた無防備な君の頬に。
 内緒で……。
 照れくさくてごまかしちゃったけど、気づいてたかな。
 私のために頑張ってくれた君。
 私を心配してくれた君。
 いつも私を最優先に考えてくれた君。
 そんな君に出会えて私、幸せだったよね。
 ――なのに、どうして?
 君はいなくなっちゃったの。
 ここは私のいるべき世界じゃない。
 だから、いいでしょ。
 ――今、そちらへ行きます。
 君のいる場所へ。
 そう、君のそばへ。
 電車が途中の駅に止まる。
 平日昼間で、乗降客は誰もいない。
 ドアが閉まる寸前、私はホームへ降り立った。
 去っていく電車を見送り、空を見上げる。
 空の青さが目にしみる。
 私、知ってるよ、この色。
 君と一緒に見たよね。
 空の色に意味があるのは君のおかげなんだもん。
 筋肉自慢の力こぶみたいに湧き上がる入道雲の白さも、まぶしい光も、君の額ににじんだ汗も、照れくさそうにそれをぬぐう君の丸まったハンカチも。
 全部覚えているのに。
 君だけがどうしてここにいてくれないの?
 ――今、そちらへ行きます。
 思い出せない君に会うために。
 いいでしょ?
 もう、ずいぶん頑張ったよ、私。
 強がり言うのも、もう無理……。
 スピーカーから雑音混じりのアナウンスが流れてくる。
「まもなく特急列車が通過します。黄色い線の内側までお下がりください。その後、普通電車が参ります」
 私は前を向いた。
 レールがかすかに音を立て始める。
 まるで不器用な君のつぶやきみたいに。
『だめだよ……』
 ――え?
『ここにいてよ』
 フォン!
 警笛が響き、目の前を轟音と共に特急電車が駆け抜けていく。
 突風に髪があおられ、一瞬何も見えなくなる。
 とっさに手で押さえようとしたときだった。
 左襟に手が触れた瞬間、頭の中に稲妻が走り、欠けていたパズルの黒い穴が光で埋まる。
 ――カズ君。
 そうだ。
 君だよね。
 私の大切な人。
 私の世界を変えてくれた人。
 忘れるわけないよ。
 すぐに緊張して汗まみれになる笑顔も。
 たどたどしいけど一言一言気持ちのこもった言葉も。
 寄りかかったときの優しいぬくもりも。
 全部覚えてる。
 忘れるはずなんてない。
 だって、この世界は君が作ってくれたんだから。
 幸せを疑うことなく、毎日を楽しく過ごせたのは君のおかげなんだから。
 いるんでしょ。
 どこにいるの?
 なんで隠れてるの?
 電車が通過し、静寂を取り戻したホームで、私は涙をこらえていた。
 次の普通電車がやってくる。
 汗で顔に張りついた乱れ髪を手でかきわけ、私は大きく息を吸った。
 ホームに止まった電車のドアが開く。
 乗り込む前に私はもう一度空を見上げた。
 ――どうして君だけが消えちゃったの?
 私はまだここにいなくちゃいけないのかな。
 来るなってこと?
 どこまでも青い天空に向かって落ちていきそうなめまいを感じる。
 私は歯を食いしばって左襟をつかんだ。
 私、あきらめないから。
 やっと思い出したんだもん。
 君を取り戻してみせるからね。
 ――カズ君。
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