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   ◇

 完璧な計画ほどもろい。
 世の中うまくいくことなんてない。
 どんなに努力を積み上げてみても、小さな穴から一気に崩れ落ちる。
 期待が高まればその分落差も大きい。
 予定なんてむしろがっかりするためにあるようなものだ。
 つい、この間まで、そんなふうに考えていたくせに、今は未来のことしか考えられない。
 お盆休み明け、一週間ぶりに会えると思うと、はやる気持ちを抑えきれなくなって、僕は早めに家を出て駅前広場で上志津さん待つことにした。
 ふだんは人目を気にして遠慮していたけど、彼女と一緒にいる時間が当たり前になってみれば、いつまでも不自然な配慮を続けなくてもいいように思えたのだ。
 野村さんに言われたように、公表した場合の彼女への風当たりが心配だけど、僕が盾になればいいんだ。
 本物のカレシならそれくらいの覚悟ができなくてどうする。
 線路に沿って八の字型に分かれた駅南口の階段は東西両側に出入り口があって、駅前のバスターミナルに到着した路線バスから次々に帰省疲れの通勤客が降りてきては吸い込まれていく。
 学生はまだ夏休みでも、社会はもう動いている。
 僕は駅前広場の正面にあるコンビニ前に立って上志津さんが東側階段を下りてくるのを待った。
 朝とはいえ、すでに気温は三十度近く、少しでも日陰に入りたかった。
 上り電車が到着し、東側階段から笹倉高校の生徒がちらほらと姿を見せて通学路へと流れていく。
 うーん……。
 どうも彼女はこの電車じゃなかったらしい。
 次は十五分後か。
 と、思ったその時だった。
「だあれだ!」と、いきなり後ろから目を塞がれた。
 ――ちょ、え?
「ど、どうして?」
「残念! 私は『どうして』さんではありません」
「だ、だから……かみし……」
 あらためて名前を呼ぶのが恥ずかしい。
「あ、晶保……だろ」
「当たりだよ」と、そっと手が外される。
 ふわりとしたいい香りとともに視界に飛び込んできた真夏の駅前広場がまぶしくて思わずまばたきをすると、彼女が僕をのぞき込んでいた。
「えへへ、びっくりしたでしょ」
 本当に心臓が止まるかと思ったよ。
 君の魔法にはいつも驚かされるよね。
「でも、なんで?」
 あらためて振り向き、向かい合うと、鼻先を上げて満足そうに種明かしをしてくれた。
「階段を下りてたら、途中でカズ君がいるのが見えたから、あっち側の階段から下りてぐるっと広場を回ってきたの」
 僕が東側階段に注目している間に、そんなことをしていたなんて。
 サプライズを仕掛けようとしてたこっちがだまされちゃったよ。
 完璧な計画だと思ってたのにな。
 まあ、だけど、多少の変更はあってもいいさ。
「あ、あのさ……」
 僕は鞄の中へ手を入れて彼女へのプレゼントを取り出そうと探った。
「なあに、カズ君」
 首をかしげながら彼女が僕の鞄をのぞき込もうとするので、体をよじって隠そうとした時だった。
 目の前に熊のような黒い影が立ちはだかった。
 エンジンをうならせながら信じられない速度で迫ってきている。
「危ない!」
 僕はとっさに鞄を投げ出し、上志津さんに体をかぶせて彼女の頭を抱きしめた。
 コンビニに突っ込んだのは黒いミニバンだった。
 僕と上志津さんをガラスドアに押しつけ、そのまま店内へとなだれ込むと、商品棚を二列なぎ倒しながら奥の冷蔵品陳列棚まで一直線に押し込み、そこでようやく動きを止めた。
 車と壁の間に血まみれの僕が横たわっている。
 それは僕と言うよりは、つなぎ方を間違えた操り人形みたいで、あり得ない方向に手足が折れ曲がっていた。
 上志津さんは……?
 彼女は散乱した商品に囲まれながら少し離れたところに横たわっていた。
 大丈夫?
 思わず駆け寄ろうとしたけど、うまく近づくことができない。
 ん……?
 ――あれ?
 どうして僕は僕を見ているんだ?
 折ってゴミ箱に捨てられた割り箸みたいに原形をとどめていない自分の体を、僕は他人として見下ろしていた。
 と、その時だった。
「か、カズ君……」
 彼女が床に手をつきながら体を起こして状況を把握しようとあたりを見回していた。
 幸い、彼女は打撲と擦り傷程度で済んだようだ。
 ゆっくりと自分の体を確かめるように手や腕を動かしながら、運転席まで潰れた巨大な車を呆然と見上げている。
 ――僕はここだよ。
 手を伸ばそうとしたけど、ふわふわとまるで力が入らない。
 風が吹いているわけじゃないのに、自分がゆらゆらと流されていくような感覚がした。
 僕は空気の中を泳ぐようにもがいてみたけど、もがけばもがくほど離れてしまう。
 体はうまく動かないし、息が苦しくなる。
 いや、息はしていない。
 吸ってもいないし吐いてもいない。
 ただ、彼女のそばに寄ろうとすればするほど胸が苦しくなる。
 ――なんだこれ?
 僕は煙のように空中を漂っていた。
 ああ、幽体離脱ってやつか。
 僕は死んじゃったのか。
 不思議と、その状態を違和感なく僕は受け入れていた。
 おかしな言い方かもしれないけど、まったく痛くもなく、今みたいに無理に動こうとしない限りは苦しくもない。
 空気として漂っていればいいんだ。
 他人事のように僕が自分を受け入れた時だった。
 浮遊する僕の真下で悲鳴が上がった。
「ああああああああああああカズ君」
 彼女が車に押しつぶされた血まみれの僕に気づいたのだ。
「カズ君ああカズ君あうあカズ君」
 涙で顔に髪を張りつかせながら彼女が叫んでいた。
 自分を抱きしめるように固く腕を組み、顎を震わせている。
 ――大丈夫。
 僕はここだよ。
 泣き叫んで錯乱している彼女を安心させようと手を伸ばしても届かない。
 見ちゃダメだ。
 血まみれの僕を見ちゃいけないよ。
 それは僕じゃない。
 そっちは違うんだ。
 僕はこっちだよ。
 僕のことは心配しなくていいんだよ。
 君は苦しまなくていいんだ。
 だけど、彼女は苦しそうに胸を押さえたまま泣き叫ぶばかりだった。
 もう君には僕が見えないんだよね。
 ならば、僕は君に魔法をかけるよ。
 大切な君が苦しまなくてすむように。
 すべて忘れてしまえばいい。
 遠くでサイレンの音がする。
 次第に近づいてくるその音が僕と彼女の距離を引き裂き、店内を突き抜けてこだまする。
 ――三、二、一……。
 パチンと指を鳴らすと、その音が消える。
「カズ君……」
 ようやく救急車が到着した頃、かつて僕だった残骸に向かって手を伸ばそうとしていた彼女は再び床に崩れ落ちていた。
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