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第四章 変わっていく風景(4-1)

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 彦根から電車で大津に戻るとき、美来にお礼のメッセージを送ったけど、返事は来なかった。
 遠野からは『明日体育館で舞台設備の確認をするので、来られる人は来てください』とグループメッセージが入っていた。
 黄瀬川さんからもメッセージが入っていた。
『今日はありがとう。また明日学校で』
 僕は大津に着くまでずっと考え続けて、やっと返信した。
『了解』
 僕だってこんな返信がありえないことくらい分かる。
 でも、それ以上に、さっきまでの出来事の方がありえなくて、自信がもてなかった。
 僕は今でも夢だったんだと言われたら、おそらく滝のような汗をかきながら、よかった生きてるよ、と納得するだろう。
 ふと京阪電車の窓に映った自分の姿を見て思った。あんな楽しい夢は僕の人生で、もう二度と見られないのかもしれない。そうなるのがこわかった。夢なら夢のままであってほしい。
 現実なら、消えないで欲しい。
 翌日学校へ行く途中、琵琶湖競艇場前の歩道橋に美来がいた。いるような気がしていた。
 階段を上る僕に声をかけてくれた。
「綾ちゃん、昨日大丈夫だった?」
「たぶん」
 並んで歩き出すと、美来が僕の顔をのぞき込む。
「ねえ、琵琶湖に向かって『好き!』とか叫んだんでしょ」
 なんで分かる?
 僕の顔色を見て美来が吐き捨てるように言った。
「うわ、当たりかよ。サイアク」
 なんだよ、当てずっぽうかよ。
 学校に向かって運動公園の中を歩きながら美来がつぶやいた。
「で、どうすんの?」
「何を?」
 脇腹をつつかれそうになったけど、美来の方が手を引っ込めた。
「告白するんでしょ」
「何を白状するの?」
 僕がはぐらかしていると、美来が怒り出した。
「もう絶対、カノジョじゃん。あんたバカすぎる。こんなに良い相手スルーするの? あんた自分が何者なのかぐらい分かってるでしょ。もう二度とこんなチャンスないでしょ。なんかさ、あんまり幸運が大きすぎると、自覚できないんじゃないの?」
 ひどい言われようだけど、反論できない。
「あんた自分で思ってるより結構さあ……」
 美来は急に黙り込んだ。しばらく無言で歩いてから、つぶやくように言った。
「あのさ、ゲームじゃないんだから、リセットできないし、別ルートとかもないし、課金すれば解決とかそんなチートもないよ」
「さすがにそんなことは分かってるよ」
「タイミングを間違えたら終わり。女は一度嫌いになったら、終わり。ゴキブリ以下にランク落とされるからね」
 それは美来だけなんじゃないか。
「ちゃんと言いなよ。綾ちゃんは中学の時に告白してダメだったわけだけど、だからこそ、あんたが綾ちゃんにしてあげられることくらい、分かるでしょ」
 僕は黙っていた。これだけ言われても、自信がなかった。
 踏切が鳴り出し、遮断機が下りる。二両編成の京阪電車がやってきて駅に滑り込んだ。
 騒音の中で美来が怒鳴った。
「あんた、綾ちゃん好きなんでしょ」
「好きだよ」
「だから、それをあたしじゃなくて、綾ちゃんに言いな」
 ああ、これは答えがないやつだ。
「フェルマーの最終定理なみの難問だね」
「はい、名言いただきました。『恋はヘルマンのなんぼのもん』だそうです」
 全然合ってないじゃん。
 遮断機が上がって線路を渡る。後ろから声がした。
「おはよう」
 黄瀬川さんだった。美来が手を振る。
「あ、今の電車だったの?」
「うん」
「やだもう、あたしたち運命感じちゃうね」
 茶化す美来の手を黄瀬川さんが両手で握りしめた。
「私、きのう、ケースケくんと会ったの」
「へえ、そうなんだ」
 美来は知らなかったふりをした。
「彦根に来てくれたんだよ。曲を作る相談したの」
「へえ、こいつがわざわざ」
「岩瀬さんも、頑張ってね」
 美来はきょとんとした顔をしている。
 美来も?
 黄瀬川さんは何を言っているんだろう。
 その意味を理解するのに少し時間がかかった。『ユーイチ』という呼び名のことか。美来が遠野を独自の呼び方で相手しているのは、僕と同じような仲間として認めている程度であって、好きというわけじゃないと思う。でも、女の子同士、何か感じるものがあるんだろうか。
 教室には遠野が来ていた。またチェック柄の袋を持っている。この前のよりも大きい。
 美来が奪い取るようにして袋の中をのぞき込む。
「あ、今日はマドレーヌ。すごいじゃん。いただきます」
 二人を見ていると金太郎と熊みたいだ。ある意味お似合いなのか?
 黄瀬川さんも僕に一つ手渡してくれた。
 半分かじって味わいながら美来は何かを考えていた。
「これ、シナモン入ってるでしょ」
 言われてみると確かにそんな香りがする。でも、本当に隠されている隠し味だ。
「すごいな、分かるんだな。ほんの少ししか入れてないんだけどな」
「あたし、シナモン苦手だからね」
 遠野、大丈夫か。泡吹くなよ。
「でも、これ意外といけるね。マドレーヌにシナモン少々か。知らなかったな」
 美来は残りを口に入れてもう一度味わっていた。
「あたしシナモン苦手なんだけど、なんで合うんだろう?」
 二度も言った。遠野、心配するな。おいしいって言ってるんだから。
「他にも何か入ってるでしょ。この前のクッキーも分かんなかったんだよね」
『あいじょう』って言えよ、遠野。
 すると首をかしげながら黄瀬川さんがつぶやいた。
「メープルシロップ?」
 美来が手を叩いて悔しがる。
「あ、そっか。あー、くやしい、思いつかなかった。でも、すごくちょっとでしょ」
 耳を赤くしながら遠野がうなずいた。
「ほんの一滴程度かな。味付けじゃなくて、バターの香りを引き立たせるために入れてるんだ」
 焼けたバターの香りが広がるのはそのせいなのか。僕はお菓子作りはさっぱり分からないけど、主張しない程度にバランスがとれていてすごいと思った。体つきと繊細さが全く結びつかない男だ。
 美来が遠野の顔を下からのぞき込むようにしながら言った。
「ユーイチは足し算派なんだね。足し算する人って、やたらといろいろぶちこんでだめにするじゃん。バレンタインで気合い入れ過ぎなやつとか、ふだんやらない人ほど余計なことするよね」
 辛辣すぎて俺も辛いよ、遠野。
「でも、ユーイチのは足し算がかけ算になってて、バランスが絶妙だから私は好きだな」
 好きと言われて遠野の額に汗がにじんでいる。
 お菓子のことだよ、お菓子。まあ、でも、ほめられたんだから、よかったじゃんか。
「ありがとう。また作るよ」
「あたし、シナモンとバニラエッセンスが苦手だから」
「だからキルシュのクッキーをほめてくれたのか」
「ユーイチ」
 美来が片目をつぶる。
「だんだん分かってきたね」
 相変わらずウィンクが下手だな、美来。
「二人、いい感じだよね」
 黄瀬川さんがささやく。
「え、そうなの?」
「うまくいくといいね」
 僕には見えない何かが見えるのかな。僕には何も見えない。
 ただ、遠野の耳は赤い。それだけは分かった。
 僕が美来をぼんやりと見ていると、脇腹を攻撃された。
「なによ、こっち見んな」
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