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第12章 葛藤
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土日はずっと寝ていた。眠くはなかったけど、起きているのがつらくて、ずっとベッドで横になっていた。気持ちが沈んでいるせいか体も冷たくなったような気がしていた。海流に流されて南極に漂着してしまった爬虫類の物真似みたいだった。
月曜日はコミュニケーション英語と保健の試験だけど、もうどうでもよかった。
僕は間違ったのだろうか。あの時僕は凛にキスをしておくべきだったのだろうか。
無理だよ。僕にはそんな行動力なんてないだろ。
できるわけがないよ、そんなこと。
別にいい人だからじゃない。僕は良いことも悪いこともできない、自分の欲望に素直に従うこともできないダメ人間なんだ。
考えれば考えるほどできないような気がした。全然想像ができない。こわい。女の子がこわい。絶対無理だよ。できないって。
そんなことができるんだったら、ちゃんと告白してとっくに僕は凛とつきあっていただろう。
僕は僕自身の気持ちに素直に向き合ったことなんかないんだ。だからずっと本当の気持ちを隠してごまかし続けてきたんだ。
もう手遅れなんだ。
僕は凛のことが好きだった。
凛のために我慢したんだ。
損した気分だった。
まだそんな後悔をしていた。
何度も同じ考えが浮かんでは消えて、気持ちが波のように揺らめいていた。
違うことを考えようと思ってスマホで先輩に連絡を入れてみたけど、返信はなかった。学校が休みだと僕らがいないから先輩も存在できないのだろうか。考えれば考えるほど不思議な存在だった。僕は本当に好きだと言われたんだろうか。幽霊だから何も覚えていないと言われればそれもまた仕方のないことになるんだろう。でも、もし本当にそんなふうに言われたらショックだろうな。
それこそ凛とつきあっておけばよかったんだ。
またそんな考えに戻るところが、人間としてダメなんだな。
何回も同じ思考に戻って同じところをグルグル回っているだけだ。糸原から出られない僕の人生と同じだ。
僕は気持ちを紛らわせるためにベッドの中で「村島奈津美」という人のことを調べていた。スマホで検索したら、二年前に糸原市内で水死体が上がった事件の新聞記事を見つけた。糸原高校の生徒だったらしい。でも、それ以上のことは何も載っていなかった。僕らが中学の時に警察が調べていたあの事件の犠牲者だったのか。自殺だったのだろうか。事故だったのだろうか。それとも事件なのか。
そうなると逆に、糸原奈津美という人は誰なんだろう。本名が村島というのはただの噂だったのか。まあ今生きているんだから、別人じゃなければおかしいはずだ。奈津美という名前が事件の犠牲者と同じだから、誰かが勝手に結びつけて言い出したのが広まってしまったのかもしれない。糸原という芸名も糸原高校と同じというだけで、本当は卒業生でも何でもないのかもしれない。ネットの噂なんてそんなものだ。だから、糸原奈津美という人も、高校時代のことをあまり語ろうとしないのだろう。ただ、それもまた憶測に過ぎなかった。僕に分かることなど何もないんだ。
凛のこと、先輩のこと、そしてまたおかしな謎が増えて頭の中が混乱していた。もっと頭のいい人間に生まれたかった。頭脳明晰な名探偵みたいに、簡単に結論を導き出せれば、こんなに苦しむことはないんだろう。
僕は逆に、何一つ結論を導くことができない。
どうせ何もできない人間なんだよ。やる気も自信もなくて、ただ毛布にくるまって時が過ぎていくのを待っているだけなんだ。高志の事を笑えなかった。何もできないからこそ、僕らは今までずっと一緒に生きてきたのかもしれない。何も変えようとしなかったから変わらなかったんだ。なんだか急に今までの思い出が重荷に変わってしまうような気がした。
週明け月曜日、いつものように線路沿いの道を歩いていたけど、凛は後ろから追っては来なかった。一人で登校して教室に入ったら、もう凛も高志も来ていた。
「おはよう」と僕は凛の席まで行って声をかけた。
うん、と軽くうなずくだけで、凛は顔を背けてしまった。無視しないでうなずいたのは、凛なりの精一杯の誠意なのだろう。
「凛」
僕が呼びかけても返事をしない。
「凛」
もう一度呼んだ。黙り込んだままだ。
「好きだよ、凛」
凛が後ろの机に椅子がぶつかる勢いで立ち上がって僕の頬をはたいた。パチンと教室中にいい音が響いた。目の覚めるような痛さだった。僕の愚かさを思い知らせてくれる痛みだった。
みんながこっちを見ている。高志はチラリと目だけ向けて見ていないふりをしていた。
「あたしはあんたのこと嫌いだから。話しかけないで」
初めて見る凛の憎悪に満ちた顔だった。また僕の知らない凛がいた。
でも、これでいいんだ。
これが僕のしたいことだったんだ。
嫌われてしまえば、もう悩むことはない。
弱みにつけ込んで悪者になる心配もない。
安心だ。
これでいいんだ。
僕は自分の席に戻った。
テストは記号を適当に埋めてあとは寝ていた。たったの二科目なのに、時間が止まっているかのようだった。
試験が終わると凛は一人で教室を出て行った。
高志も一人で出て行こうとする。
僕は腕をつかんだ。
「何すんだよ」と高志が驚いたような表情を見せた。
僕は高志の腕をつかんだことがない。いつも高志の方が体は大きかったし、荒っぽいのは高志の方だった。だけどもう、そんな昔のことは関係がない。そんな思い出なんて全部壊れてしまったんだから。
「ちょっと話がある」
「俺は何もねえよ」
「いいから来いよ。逃げるな」
「なんだと、朋樹、てめえ……」
高志は言いかけて黙った。僕がつかんでいる腕から、人形の空気が漏れていくように力が抜けていく。ぬいぐるみを引っ張っていくように、僕は高志を外に連れ出した。
踏切を渡って国道の方へ歩いていき、この前みたいにフードアイの駐車場までやってきた。
「缶コーヒー買えよ」
僕が自販機を指すと高志は財布を出した。小銭を入れてボタンを押す。
あ、冷たいのを買いやがった。思わず笑ってしまった。
「何で冷たいんだよ」
「おまえにはこれで充分だろ」
高志は自分にはホットコーヒーを買った。
僕らは壁によりかかってコーヒーを飲んだ。
いざとなると何から話をしていいのか分からなかった。
「話って何だよ」
高志の方から話を切り出した。
「いつ本気を出すんだよ」
「テストのことか?」
「この期に及んでまだごまかす気かよ」
高志は黙り込んでしまった。やっぱりダメか。
「冗談のつもりだったってごまかし続けて、凛がいなくなっちゃってもいいのかよ」
返事はない。
「僕が奪い取っちゃってもいいのかよ」
やっとこっちを見た。でも、自分と関係のないことを話しているみたいなぼんやりとした表情だった。
「おまえがそうしたいなら、そうすりゃいいじゃんか。あいつも朋樹とそうなることを望んでいるんだからさ」
「凛はそんな女の子じゃないだろ。それを僕は知っているよ。高志だって分かっているはずだ。だからおまえだって凛のことが好きなんだろ。凛のことをそんなふうに言うなよ。凛はそういうことを大事にするちゃんとした女の子だよ」
「何ガキみたいなこと言ってるんだよ」
クソガキじゃないか、僕たち。
「遠慮するなよ。あいつだって別に嫌がったりしないだろ。いつかはそうなるって思ってたんだろうし」
「じゃあ、何で高志の時は泣いてたんだよ」
「だから、俺のことが好きじゃなかったからだろ。俺はもういいんだよ」
高志が空き缶をゴミ箱に投げつける。僕が放った缶はゴミ箱を外れて駐車場に転がった。冬空に乾いた音が響く。高志が拾ってくれた。僕から離れるのにちょうどいいきっかけだったんだろう。僕に背中を向けたまま缶をゴミ箱に投げつけた。
「話ってそれだけか。じゃあな」
「待てよ」
「なんだよ。めんどくせえな。言いたいことがあるなら早く済ませろよ」
「凛に謝れよ。ちゃんと会って話して謝れよ」
高志は僕に背を向けたまま黙っていた。
「凛はさみしくて僕に助けを求めたんだ。でも、僕がしたいようにしたって、凛の心にぽっかり空いたさみしさを埋めてやることなんてできないんだよ。おまえがやったことはおまえが責任をとれよ。高志が自分で埋めてやらないといつまでも凛はさみしいままじゃないかよ。逃げるな。なにもしないで逃げるなよ」
高志は僕からも逃げようとしていた。僕に背を向けたまま歩き出そうとしていた。右足を踏み出そうとしている高志の腕を僕はつかんだ。
「逃がさないよ。凛に謝れよ。ちゃんと向き合って自分の正直な気持ちを伝えろよ。キスしたいなら、そう言えよ。無理矢理じゃなく、ちゃんと気持ちを伝えて正面からぶつかれよ」
高志が笑い出した。腕をふりほどいてこちらを向いていきなり僕を殴った。凛にぶたれた頬がまた痛む。今日は凛にも高志にも殴られる日だな。僕も高志の腹を殴り返そうとしたけど、かわされてしまった。
「なんだよ、ずるいじゃないか。殴らせろよ」
「朋樹、おまえは何もできないやつだな。凛を奪い取ることも、俺を殴ることも」
「高志だってそうじゃないかよ。押し倒してびびっちゃって、やるチャンスを逃しちゃってさ」
「でも、俺はおまえを殴ったぞ。俺の勝ちだ」
どういう勝負だよ。でも、それなら負けでいいよ。
「負けでいいからさ。凛を大事にしてやれよ。な、高志」
ポケットの中でスマホが震えた。
凛からだった。
『パン買って来いよ』
パシリかよ。
いつだって優しいな、凛は。
そうやって僕らは甘やかされ続けてきたんだ。
ありがとう、凛。助け船に乗っかるよ。
『どこにいる?』
『若松神社』
『すぐ行く』
僕は高志にスマホを見せた。
「行くだろ」
「サンキュー、朋樹」
僕は高志と一緒にフードアイで二十個入りのクロワッサンボックスを買って若松神社に急いだ。
境内のブランコに凛がいた。
高志がクロワッサンボックスを差し出して声をかけた。
「買ってきたぞ」
凛は驚いた表情で高志を見上げている。
と、次の瞬間、凛はブランコから跳び上がって神社裏口に向かって駆けだした。
「待てよ、凛」
高志があわてて追いかける。クロワッサンボックスをラグビーみたいに後ろの僕に放り投げて追いかける。パン二十個入りのプラスチックボックスはけっこう重くて固くて僕のおなかに食い込む。もたついている間に、二人は路地に出て見えなくなってしまった。
僕が神社の裏階段を下りたとき、歩行者用踏切の警報が聞こえてきた。路地を走っていくと踏切に凛がいた。線路の中に立っている。高志が遮断機をくぐり抜けて凛を引っ張ろうとしている。凛は線路を歩いてもっと奥に逃げようとしている。馬鹿なことをするなよ、凛。
僕は路地に鞄とパンを投げ捨てて踏切に入った。
「凛、馬鹿なことはやめろよ」
僕の声は警報にかき消されて聞こえないのか、凛は枕木に足を取られながらどんどん線路の中に入っていく。高志が必死に引っ張るけど、凛がふりほどこうと暴れる。
直線の線路の向こうから西唐津方面の電車が向かってくる。遠くからパアンパアンと警笛を鳴らしている。凛は線路の真ん中に立ち止まった。早く戻って来いよ。僕は祈るしかなかった。
「来ないで」
「やめろ、凛」
「あんたとは話したくない」
高志がしっかりと抱きしめた。
「俺のせいでおまえが苦しむなら、俺が死ぬから」
高志が凛を僕の方へ投げ飛ばす。僕は凛を受け取って腕を引いて踏切の外に連れ出した。
「タカシ!」
凛が踏切の中に戻ろうとするのを僕は必死に押さえた。
「タカシが死んじゃう」
「高志、凛はもう大丈夫だ。戻って来いよ」
高志はぎゅっと目を閉じたまま電車に背を向けて線路の真ん中に立っている。
「朋樹、一緒に来て、お願い」
凛が僕の手を握りかえして僕を引っ張る。僕は膝が震えて動けなかった。
「ねえ、朋樹、お願い、高志が死んじゃうよ」
電車の警笛がパアンパアンと鳴り響く。線路のカタカタという振動がどんどん大きくなっていく。僕は動けなかった。
「どいて、バカ」
凛は僕を突き飛ばして踏切の中に戻っていった。尻餅をついたまま僕は見ているしかなかった。ダメだ、本当に僕は何もできないやつなんだ。
凛が高志の手を引っ張る。高志は動かない。
立場が逆になっていた。これじゃあ、二人とも死んでしまう。
「高志、凛まで道連れにするな」
僕は立ち上がって踏切に飛び込んだ。二人とも死なせるわけにはいかないんだ。僕が助けなくちゃならないんだ。
「高志、逃げろ。凛、膝を蹴れ」
いつもやっているみたいに凛が膝裏を蹴って高志の体勢を崩した。そのまま凛が背中を押して、よろけたところを僕が手を引いて高志を線路から連れ出した。三人で踏切の外に転がり出る。電車はいつもより速度を緩めた状態で通過していった。遮断機が上がる。
「逃げよう。見つかったら、怒られるよ」
「うん、笹山公園まで行こうよ」
僕の言葉に凛が反応して高志の背中を叩く。高志も立ち上がった。
僕ら三人は食パンマンションの前を通り抜けて駅前ロータリーから坂を上がって笹山公園の入り口まで走ってきた。僕はクロワッサンボックスを抱えていたから、いつもより走りにくくて、ばててしまった。
石段下で僕が立ち止まると、凛が振り向いて指をさす。
「高志、持ってあげなよ」
「おう、よこしな、朋樹」
「ありがとう。これ、意外と重いよね」
「あたし先に行ってるから」
凛は鞄でスカートを隠しながら石段を駆け上がっていく。元気だな、凛。僕は高志と二人で一段ずつ踏みしめながら上がっていった。
展望台のコンクリート階段に凛が座っていた。いつも先輩が座っている場所だ。今日はいないようだった。
「あたしでがっかりした?」
「そんなことないよ」
僕らは三人それぞれ階段に腰掛けた。上から一段ずつ、凛、高志、僕が並んだ。
高志がクロワッサンボックスのふたを開ける。凛が後ろから一番先に手を伸ばしてパンを取る。
「おなかすいたね」
ぽつりとつぶやいて、凛がパンを口に入れた。僕は二人を見上げながら高志からパンを受け取った。
高志も黙ってパンをかじっている。凛が高志の背中をつついて振り向かせると、次のパンに手を出す。無言でパンを取り、かじる。
僕は高志に目配せをし、凛はたまに僕をちらちら見ていた。
黙ってクロワッサンをかじっていると口の中が乾く。凛が鞄からペットボトルの紅茶を出して飲んだ。僕も欲しい。凛がくれる。間接キスだぞ。うらやましいだろ、高志。
「あ、俺もくれ」
え、僕の次でいいのかよ。ていうか、僕が嫌だな。
高志は気にせず僕からペットボトルを奪い取るとぐびぐび全部飲み干した。
たまりかねて僕は叫んだ。
「おい、高志。パン食いに来たんじゃないぞ」
凛が口を押さえて笑う。
「朋樹、あたし、パン噴きそうになったじゃんか」
高志が口をぬぐって立ち上がると、凛に向き合った。
「凛、済まなかった。お前のことが好きだって言う気持ちは本気だったけど、俺はひどいことをした」
高志は深く頭を下げた。
凛が立ち上がる。高志が顔を上げる。階段一段分、ちょうど目線が合う。
凛が拳を後ろに引いた。
「分かったよ。フルスイングで一発殴らせろ」
「おう、気のすむまでやってくれ」
高志が気をつけの姿勢で目を閉じた。
でも、凛は殴らなかった。
「いいよ。もう許してあげる。朋樹も証人だし」
高志が目を開いて凛の手を握った。凛は逃げなかった。
「ホントにごめんな。もう絶対にお前を泣かせるようなことはしないからさ」
高志の言葉を聞きながら凛もうなずいている。よかった。凛の安らいだ表情は久しぶりに見る。
「ねえ、みんなでデートしようよ」
「みんな?」
「朋樹とまふゆ先輩も一緒に四人で博多に行こうよ」
「僕も?」
高志の手を握ったまま、凛が僕の方を向いた。
「うん。二人きりだとまだ怖いから。付き添いで来てよ」
高志が困った顔をしている。
「そうしてくれるか、朋樹」
仕方がない。
先輩を誘う口実にもなるし、いいか。
「じゃあ、先輩に聞いてみるよ」
でも、いつ会えるかな。
明日、学校帰りに会えるんだろうか。
明日で試験は終わりか。もうすぐ、冬休みだな。
「じゃあ、僕は帰るよ」
「あ、ちょっと待ってくれ、朋樹」
高志が僕を呼び止めた。
「さっきは殴って悪かった。ありがとうな。俺、凛のこと大事にするからさ。おまえに誓うよ」
「うん、凛も良かったね」
高志の後ろで凛が僕にベーッと舌を出していた。
石段を下りようとしたとき、凛が僕を呼んだ。
「朋樹」
振り向くと凛が高志の頭を押さえ込んで僕に手を振っていた。
「ありがとうね、コイツのために」
よかった。仲直りできたんだ。
僕は石段を下りながら空を見上げた。またいつもと変わらない毎日がやってくるんだろう。今までと同じ毎日が戻ってくるんだろう。
僕はそれを疑わなかった。
だって、そのために僕は頑張ったんだから。
月曜日はコミュニケーション英語と保健の試験だけど、もうどうでもよかった。
僕は間違ったのだろうか。あの時僕は凛にキスをしておくべきだったのだろうか。
無理だよ。僕にはそんな行動力なんてないだろ。
できるわけがないよ、そんなこと。
別にいい人だからじゃない。僕は良いことも悪いこともできない、自分の欲望に素直に従うこともできないダメ人間なんだ。
考えれば考えるほどできないような気がした。全然想像ができない。こわい。女の子がこわい。絶対無理だよ。できないって。
そんなことができるんだったら、ちゃんと告白してとっくに僕は凛とつきあっていただろう。
僕は僕自身の気持ちに素直に向き合ったことなんかないんだ。だからずっと本当の気持ちを隠してごまかし続けてきたんだ。
もう手遅れなんだ。
僕は凛のことが好きだった。
凛のために我慢したんだ。
損した気分だった。
まだそんな後悔をしていた。
何度も同じ考えが浮かんでは消えて、気持ちが波のように揺らめいていた。
違うことを考えようと思ってスマホで先輩に連絡を入れてみたけど、返信はなかった。学校が休みだと僕らがいないから先輩も存在できないのだろうか。考えれば考えるほど不思議な存在だった。僕は本当に好きだと言われたんだろうか。幽霊だから何も覚えていないと言われればそれもまた仕方のないことになるんだろう。でも、もし本当にそんなふうに言われたらショックだろうな。
それこそ凛とつきあっておけばよかったんだ。
またそんな考えに戻るところが、人間としてダメなんだな。
何回も同じ思考に戻って同じところをグルグル回っているだけだ。糸原から出られない僕の人生と同じだ。
僕は気持ちを紛らわせるためにベッドの中で「村島奈津美」という人のことを調べていた。スマホで検索したら、二年前に糸原市内で水死体が上がった事件の新聞記事を見つけた。糸原高校の生徒だったらしい。でも、それ以上のことは何も載っていなかった。僕らが中学の時に警察が調べていたあの事件の犠牲者だったのか。自殺だったのだろうか。事故だったのだろうか。それとも事件なのか。
そうなると逆に、糸原奈津美という人は誰なんだろう。本名が村島というのはただの噂だったのか。まあ今生きているんだから、別人じゃなければおかしいはずだ。奈津美という名前が事件の犠牲者と同じだから、誰かが勝手に結びつけて言い出したのが広まってしまったのかもしれない。糸原という芸名も糸原高校と同じというだけで、本当は卒業生でも何でもないのかもしれない。ネットの噂なんてそんなものだ。だから、糸原奈津美という人も、高校時代のことをあまり語ろうとしないのだろう。ただ、それもまた憶測に過ぎなかった。僕に分かることなど何もないんだ。
凛のこと、先輩のこと、そしてまたおかしな謎が増えて頭の中が混乱していた。もっと頭のいい人間に生まれたかった。頭脳明晰な名探偵みたいに、簡単に結論を導き出せれば、こんなに苦しむことはないんだろう。
僕は逆に、何一つ結論を導くことができない。
どうせ何もできない人間なんだよ。やる気も自信もなくて、ただ毛布にくるまって時が過ぎていくのを待っているだけなんだ。高志の事を笑えなかった。何もできないからこそ、僕らは今までずっと一緒に生きてきたのかもしれない。何も変えようとしなかったから変わらなかったんだ。なんだか急に今までの思い出が重荷に変わってしまうような気がした。
週明け月曜日、いつものように線路沿いの道を歩いていたけど、凛は後ろから追っては来なかった。一人で登校して教室に入ったら、もう凛も高志も来ていた。
「おはよう」と僕は凛の席まで行って声をかけた。
うん、と軽くうなずくだけで、凛は顔を背けてしまった。無視しないでうなずいたのは、凛なりの精一杯の誠意なのだろう。
「凛」
僕が呼びかけても返事をしない。
「凛」
もう一度呼んだ。黙り込んだままだ。
「好きだよ、凛」
凛が後ろの机に椅子がぶつかる勢いで立ち上がって僕の頬をはたいた。パチンと教室中にいい音が響いた。目の覚めるような痛さだった。僕の愚かさを思い知らせてくれる痛みだった。
みんながこっちを見ている。高志はチラリと目だけ向けて見ていないふりをしていた。
「あたしはあんたのこと嫌いだから。話しかけないで」
初めて見る凛の憎悪に満ちた顔だった。また僕の知らない凛がいた。
でも、これでいいんだ。
これが僕のしたいことだったんだ。
嫌われてしまえば、もう悩むことはない。
弱みにつけ込んで悪者になる心配もない。
安心だ。
これでいいんだ。
僕は自分の席に戻った。
テストは記号を適当に埋めてあとは寝ていた。たったの二科目なのに、時間が止まっているかのようだった。
試験が終わると凛は一人で教室を出て行った。
高志も一人で出て行こうとする。
僕は腕をつかんだ。
「何すんだよ」と高志が驚いたような表情を見せた。
僕は高志の腕をつかんだことがない。いつも高志の方が体は大きかったし、荒っぽいのは高志の方だった。だけどもう、そんな昔のことは関係がない。そんな思い出なんて全部壊れてしまったんだから。
「ちょっと話がある」
「俺は何もねえよ」
「いいから来いよ。逃げるな」
「なんだと、朋樹、てめえ……」
高志は言いかけて黙った。僕がつかんでいる腕から、人形の空気が漏れていくように力が抜けていく。ぬいぐるみを引っ張っていくように、僕は高志を外に連れ出した。
踏切を渡って国道の方へ歩いていき、この前みたいにフードアイの駐車場までやってきた。
「缶コーヒー買えよ」
僕が自販機を指すと高志は財布を出した。小銭を入れてボタンを押す。
あ、冷たいのを買いやがった。思わず笑ってしまった。
「何で冷たいんだよ」
「おまえにはこれで充分だろ」
高志は自分にはホットコーヒーを買った。
僕らは壁によりかかってコーヒーを飲んだ。
いざとなると何から話をしていいのか分からなかった。
「話って何だよ」
高志の方から話を切り出した。
「いつ本気を出すんだよ」
「テストのことか?」
「この期に及んでまだごまかす気かよ」
高志は黙り込んでしまった。やっぱりダメか。
「冗談のつもりだったってごまかし続けて、凛がいなくなっちゃってもいいのかよ」
返事はない。
「僕が奪い取っちゃってもいいのかよ」
やっとこっちを見た。でも、自分と関係のないことを話しているみたいなぼんやりとした表情だった。
「おまえがそうしたいなら、そうすりゃいいじゃんか。あいつも朋樹とそうなることを望んでいるんだからさ」
「凛はそんな女の子じゃないだろ。それを僕は知っているよ。高志だって分かっているはずだ。だからおまえだって凛のことが好きなんだろ。凛のことをそんなふうに言うなよ。凛はそういうことを大事にするちゃんとした女の子だよ」
「何ガキみたいなこと言ってるんだよ」
クソガキじゃないか、僕たち。
「遠慮するなよ。あいつだって別に嫌がったりしないだろ。いつかはそうなるって思ってたんだろうし」
「じゃあ、何で高志の時は泣いてたんだよ」
「だから、俺のことが好きじゃなかったからだろ。俺はもういいんだよ」
高志が空き缶をゴミ箱に投げつける。僕が放った缶はゴミ箱を外れて駐車場に転がった。冬空に乾いた音が響く。高志が拾ってくれた。僕から離れるのにちょうどいいきっかけだったんだろう。僕に背中を向けたまま缶をゴミ箱に投げつけた。
「話ってそれだけか。じゃあな」
「待てよ」
「なんだよ。めんどくせえな。言いたいことがあるなら早く済ませろよ」
「凛に謝れよ。ちゃんと会って話して謝れよ」
高志は僕に背を向けたまま黙っていた。
「凛はさみしくて僕に助けを求めたんだ。でも、僕がしたいようにしたって、凛の心にぽっかり空いたさみしさを埋めてやることなんてできないんだよ。おまえがやったことはおまえが責任をとれよ。高志が自分で埋めてやらないといつまでも凛はさみしいままじゃないかよ。逃げるな。なにもしないで逃げるなよ」
高志は僕からも逃げようとしていた。僕に背を向けたまま歩き出そうとしていた。右足を踏み出そうとしている高志の腕を僕はつかんだ。
「逃がさないよ。凛に謝れよ。ちゃんと向き合って自分の正直な気持ちを伝えろよ。キスしたいなら、そう言えよ。無理矢理じゃなく、ちゃんと気持ちを伝えて正面からぶつかれよ」
高志が笑い出した。腕をふりほどいてこちらを向いていきなり僕を殴った。凛にぶたれた頬がまた痛む。今日は凛にも高志にも殴られる日だな。僕も高志の腹を殴り返そうとしたけど、かわされてしまった。
「なんだよ、ずるいじゃないか。殴らせろよ」
「朋樹、おまえは何もできないやつだな。凛を奪い取ることも、俺を殴ることも」
「高志だってそうじゃないかよ。押し倒してびびっちゃって、やるチャンスを逃しちゃってさ」
「でも、俺はおまえを殴ったぞ。俺の勝ちだ」
どういう勝負だよ。でも、それなら負けでいいよ。
「負けでいいからさ。凛を大事にしてやれよ。な、高志」
ポケットの中でスマホが震えた。
凛からだった。
『パン買って来いよ』
パシリかよ。
いつだって優しいな、凛は。
そうやって僕らは甘やかされ続けてきたんだ。
ありがとう、凛。助け船に乗っかるよ。
『どこにいる?』
『若松神社』
『すぐ行く』
僕は高志にスマホを見せた。
「行くだろ」
「サンキュー、朋樹」
僕は高志と一緒にフードアイで二十個入りのクロワッサンボックスを買って若松神社に急いだ。
境内のブランコに凛がいた。
高志がクロワッサンボックスを差し出して声をかけた。
「買ってきたぞ」
凛は驚いた表情で高志を見上げている。
と、次の瞬間、凛はブランコから跳び上がって神社裏口に向かって駆けだした。
「待てよ、凛」
高志があわてて追いかける。クロワッサンボックスをラグビーみたいに後ろの僕に放り投げて追いかける。パン二十個入りのプラスチックボックスはけっこう重くて固くて僕のおなかに食い込む。もたついている間に、二人は路地に出て見えなくなってしまった。
僕が神社の裏階段を下りたとき、歩行者用踏切の警報が聞こえてきた。路地を走っていくと踏切に凛がいた。線路の中に立っている。高志が遮断機をくぐり抜けて凛を引っ張ろうとしている。凛は線路を歩いてもっと奥に逃げようとしている。馬鹿なことをするなよ、凛。
僕は路地に鞄とパンを投げ捨てて踏切に入った。
「凛、馬鹿なことはやめろよ」
僕の声は警報にかき消されて聞こえないのか、凛は枕木に足を取られながらどんどん線路の中に入っていく。高志が必死に引っ張るけど、凛がふりほどこうと暴れる。
直線の線路の向こうから西唐津方面の電車が向かってくる。遠くからパアンパアンと警笛を鳴らしている。凛は線路の真ん中に立ち止まった。早く戻って来いよ。僕は祈るしかなかった。
「来ないで」
「やめろ、凛」
「あんたとは話したくない」
高志がしっかりと抱きしめた。
「俺のせいでおまえが苦しむなら、俺が死ぬから」
高志が凛を僕の方へ投げ飛ばす。僕は凛を受け取って腕を引いて踏切の外に連れ出した。
「タカシ!」
凛が踏切の中に戻ろうとするのを僕は必死に押さえた。
「タカシが死んじゃう」
「高志、凛はもう大丈夫だ。戻って来いよ」
高志はぎゅっと目を閉じたまま電車に背を向けて線路の真ん中に立っている。
「朋樹、一緒に来て、お願い」
凛が僕の手を握りかえして僕を引っ張る。僕は膝が震えて動けなかった。
「ねえ、朋樹、お願い、高志が死んじゃうよ」
電車の警笛がパアンパアンと鳴り響く。線路のカタカタという振動がどんどん大きくなっていく。僕は動けなかった。
「どいて、バカ」
凛は僕を突き飛ばして踏切の中に戻っていった。尻餅をついたまま僕は見ているしかなかった。ダメだ、本当に僕は何もできないやつなんだ。
凛が高志の手を引っ張る。高志は動かない。
立場が逆になっていた。これじゃあ、二人とも死んでしまう。
「高志、凛まで道連れにするな」
僕は立ち上がって踏切に飛び込んだ。二人とも死なせるわけにはいかないんだ。僕が助けなくちゃならないんだ。
「高志、逃げろ。凛、膝を蹴れ」
いつもやっているみたいに凛が膝裏を蹴って高志の体勢を崩した。そのまま凛が背中を押して、よろけたところを僕が手を引いて高志を線路から連れ出した。三人で踏切の外に転がり出る。電車はいつもより速度を緩めた状態で通過していった。遮断機が上がる。
「逃げよう。見つかったら、怒られるよ」
「うん、笹山公園まで行こうよ」
僕の言葉に凛が反応して高志の背中を叩く。高志も立ち上がった。
僕ら三人は食パンマンションの前を通り抜けて駅前ロータリーから坂を上がって笹山公園の入り口まで走ってきた。僕はクロワッサンボックスを抱えていたから、いつもより走りにくくて、ばててしまった。
石段下で僕が立ち止まると、凛が振り向いて指をさす。
「高志、持ってあげなよ」
「おう、よこしな、朋樹」
「ありがとう。これ、意外と重いよね」
「あたし先に行ってるから」
凛は鞄でスカートを隠しながら石段を駆け上がっていく。元気だな、凛。僕は高志と二人で一段ずつ踏みしめながら上がっていった。
展望台のコンクリート階段に凛が座っていた。いつも先輩が座っている場所だ。今日はいないようだった。
「あたしでがっかりした?」
「そんなことないよ」
僕らは三人それぞれ階段に腰掛けた。上から一段ずつ、凛、高志、僕が並んだ。
高志がクロワッサンボックスのふたを開ける。凛が後ろから一番先に手を伸ばしてパンを取る。
「おなかすいたね」
ぽつりとつぶやいて、凛がパンを口に入れた。僕は二人を見上げながら高志からパンを受け取った。
高志も黙ってパンをかじっている。凛が高志の背中をつついて振り向かせると、次のパンに手を出す。無言でパンを取り、かじる。
僕は高志に目配せをし、凛はたまに僕をちらちら見ていた。
黙ってクロワッサンをかじっていると口の中が乾く。凛が鞄からペットボトルの紅茶を出して飲んだ。僕も欲しい。凛がくれる。間接キスだぞ。うらやましいだろ、高志。
「あ、俺もくれ」
え、僕の次でいいのかよ。ていうか、僕が嫌だな。
高志は気にせず僕からペットボトルを奪い取るとぐびぐび全部飲み干した。
たまりかねて僕は叫んだ。
「おい、高志。パン食いに来たんじゃないぞ」
凛が口を押さえて笑う。
「朋樹、あたし、パン噴きそうになったじゃんか」
高志が口をぬぐって立ち上がると、凛に向き合った。
「凛、済まなかった。お前のことが好きだって言う気持ちは本気だったけど、俺はひどいことをした」
高志は深く頭を下げた。
凛が立ち上がる。高志が顔を上げる。階段一段分、ちょうど目線が合う。
凛が拳を後ろに引いた。
「分かったよ。フルスイングで一発殴らせろ」
「おう、気のすむまでやってくれ」
高志が気をつけの姿勢で目を閉じた。
でも、凛は殴らなかった。
「いいよ。もう許してあげる。朋樹も証人だし」
高志が目を開いて凛の手を握った。凛は逃げなかった。
「ホントにごめんな。もう絶対にお前を泣かせるようなことはしないからさ」
高志の言葉を聞きながら凛もうなずいている。よかった。凛の安らいだ表情は久しぶりに見る。
「ねえ、みんなでデートしようよ」
「みんな?」
「朋樹とまふゆ先輩も一緒に四人で博多に行こうよ」
「僕も?」
高志の手を握ったまま、凛が僕の方を向いた。
「うん。二人きりだとまだ怖いから。付き添いで来てよ」
高志が困った顔をしている。
「そうしてくれるか、朋樹」
仕方がない。
先輩を誘う口実にもなるし、いいか。
「じゃあ、先輩に聞いてみるよ」
でも、いつ会えるかな。
明日、学校帰りに会えるんだろうか。
明日で試験は終わりか。もうすぐ、冬休みだな。
「じゃあ、僕は帰るよ」
「あ、ちょっと待ってくれ、朋樹」
高志が僕を呼び止めた。
「さっきは殴って悪かった。ありがとうな。俺、凛のこと大事にするからさ。おまえに誓うよ」
「うん、凛も良かったね」
高志の後ろで凛が僕にベーッと舌を出していた。
石段を下りようとしたとき、凛が僕を呼んだ。
「朋樹」
振り向くと凛が高志の頭を押さえ込んで僕に手を振っていた。
「ありがとうね、コイツのために」
よかった。仲直りできたんだ。
僕は石段を下りながら空を見上げた。またいつもと変わらない毎日がやってくるんだろう。今までと同じ毎日が戻ってくるんだろう。
僕はそれを疑わなかった。
だって、そのために僕は頑張ったんだから。
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