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第8章 動き出した関係(8-1)

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 笹山公園の石段下まで来ると凛が立ち止まって、息を整えた。
「朋樹、先に行きなよ」
「なんで」
「下からパンツ見るんだろ」
「もうその話はいいって」
 でも疑われたくないから、僕が先に階段を上った。
 笹山公園の広場には先輩がいた。展望台のコンクリート階段に座ってこちらを見ていた。
「先輩、こんにちは」
 広場に出たところで凛が僕を追い抜いて声をかけた。なんだよ、本当に見られるのを警戒していたのか?
 まふゆ先輩はこちらを向いて「そうか」とつぶやいた。
「先輩は幽霊なんですか」
 いきなり凛が尋ねた。
「そうだ」
 先輩も単純明快に答えた。
「昼間っから見える幽霊って珍しいですよね」
「そうなのか」
「ふつう、逆ですよ。夜になると出るんですよ」
「そうなのか」
「先輩はどうして高校生の格好をしてるんですか?」
「出てきたときにこういう格好をしている」
「スマホも持ってますよね」
「出てきたときに持っている」
 先輩の話によれば、その場にふさわしい格好で現れるらしい。高校に出現するときは高校生の格好なのだそうだ。
 墓地だったら墓地にふさわしい格好なのかな。でも昼からあの死に装束の幽霊だとなんか変な気がする。
「そもそもなんで僕たちには先輩が見えるんですか。他の人たちも見えているんですか?」
「私はすべての人間に姿が見えるわけではない」
「へえ、そうなんですか」
「見えている人間の周囲の人間にも私の姿が見えるようになっているんだ。見えている人間がいなければ、私もいなくなる」
 うまくできてるもんだ。
「そもそもなんで高校に昼間っから出現する必要があるんですか」
「必要だからだろう」
 答えになっていない答えだ。
 凛が僕の腕をつつく。
「先輩と知り合えたんだから、偶然に感謝すべきなんじゃない?」
 確かにその通りだ。出会いなんて全部偶然だ。僕と凛と高志だって、たまたまこの街に生まれ育ったから知り合いなんだ。そのことに理由なんかない。それでよかったし、これからもそれでいいはずなんだ。でも、高志がそれを壊してしまった。
 先輩を前にして高志のことばかり気になってしまった。凛は先輩と話をすることを楽しんでいる。高志とのことを少しは忘れることができているんだろうか。
 凛が尋ねた。
「先輩は三年何組なんですか」
「三年?」
「だって、上履きのラインが青じゃないですか」
「ほう、そうなのか。それは知らなかった」
「じゃあ、三年生じゃないんですね。先輩かと思ってたんですけど」
「先輩、後輩なんて意味がないだろう。幽霊に歳なんてないからな」
 それは確かにそうだ。でも、雰囲気は年上だから先輩の方が自然な感じがする。
「おまえはなぜそれを首に巻いているのだ?」
 先輩が凛のマフラーを指さした。
「これ、あったかいんですよ」
「あたたかい? それは感覚か」
「まあそうですね。寒いの反対」
「私は感覚がないから分からないな」
 凛は星条旗柄のマフラーを外して先輩の首に巻いた。
「ふむ、これがあたたかいということか」
 先輩はマフラーが気に入ったようだった。
「明日から巻くことにしよう」
「こういう柄はやめた方がいいです」
 僕は忠告した。先輩がマフラーを外して凛に返す。
「なぜだ」
「こんな変な柄のマフラー、普通はしませんよ」
「うっせーよ。余計なお世話だって。あたしは気に入ってるんだから」
「どういうセンスだよ」
 先輩は無表情に僕らのやりとりを眺めている。僕は無難なマフラーをすすめた。
「無地の白いやつとかが似合いますよ、きっと」
「そうか。ではそうしよう」
 凛が何か言いたそうだったけど、そのときおなかが鳴って笑い出す。
「おなかすいちゃったよね。お昼まだだったし」
 凛が鞄から箱を取り出す。
「先輩、おまんじゅう食べますか」
「おまんじゅう?」
「博多のお土産です。どうぞ」
 なんで箱ごと鞄に入ってるんだよ。女子の鞄だからなのか。いや、いくらなんでもおかしいだろう。普通の女子高生は鞄におまんじゅうの箱なんか入れてないだろ。
「ほら、朋樹も食べなよ」
 蜂蜜と生クリームで洋風にした白あんが絶妙な博多のお土産物を三人で食べた。
 青空にくっきりと輪郭を切り取られた可也山が正面に見える。そういえば今日は学校が早かったからまだ夕暮れまで時間がある。先輩と少しは長く一緒にいられるわけだ。
「おいしいでしょ」
「これがおいしいということなのか」
 先輩は口を動かしながらつぶやいた。
「幽霊は食事をしたり水を飲んだりする必要がない。そもそも感覚がないから、食べても味が分からない。おいしいまずいも分からない。これがおいしいということなんだな」
 食べ終わって先輩が僕たちを交互に見ながら言った。
「なあ、おまえ達、私に感情を教えてくれないか」
「感情ですか」
 僕はふと思いついたことを口にした。
「そうすれば幽霊じゃなくなっちゃうんじゃないですか」
 凛が手を叩いて喜ぶ。
「じゃあ、なおさらいいじゃん。先輩人間化計画だね」
 この前は探偵ごっこ。今また凛の新しい遊びが始まったらしい。
 先輩が膝にひじを突いて少し前屈みになりながら尋ねた。
「まず、おもしろいとは何だ」
「おもしろいっていうのは、楽しいとか、笑っちゃうようなとか。そんなやつです」
「楽しいとは何だ」
「おもしろい……じゃだめか。んー、なんて言ったらいいんだろうね」
 話が戻ってしまうので凛が言葉に詰まってしまった。
「笑うというのは、なぜ笑うのだ」
「おもしろいからですね」
「それでは説明になっておらんな。さっぱり分からんぞ」
「ああ、なんかもう、ガイジンに納豆の説明しているみたいな変な会話」
 凛が顔をしかめて首を振る。
 僕もなんと説明していいのか全く思いつかなかった。
「そういう時ってどうすればいいのかな?」
 僕のつぶやきに、凛が即答した。
「実際に納豆食べさせた方が早いじゃん。言葉で説明するんじゃなくてさ、おまんじゅう食べたらおいしいという感情が伝わったみたいにさ。実際にそういう経験をしてもらえばいいんじゃん」
 凛は手を叩きながら、自分で言った言葉に自分でうなずいた。
「うん、そうだよ。だからさ、おもしろいことをどんどんやってみればいいんだよ。あんた、なんかダジャレ言いなよ」
 うわ、いきなりハードル上げてきたよ。
「ふとんが……」
「つまんねえよ。おっさん以下だな。ていうより、今時のおっさんに失礼なレベルだろ」
 そこまで言うかよ、ひどいな。まあ、確かに僕にはダジャレのセンスはないけどね。
「ダジャレなんて思いつかないよ。大ピンチだな」
 僕にダジャレの神が舞い降りた。
「レオナルド・大ピンチ……、なんてね」
 凛が笑い出す。
「くだらねえ。笑っちゃうくらいくだらないね。ひっでえダジャレ」
 笑っておいてひどいんですけど。
 先輩が表情を崩さず僕の目を見つめた。
「それは何がおもしろいのだ」
「あの、レオナルド・ダビンチっていう歴史上の有名人がいてですね、その人の名前と大ピンチが似ていておもしろいなと」
「そうか。ダビンチ、大ピンチ。これはおもしろい。おもしろい。そうか、おもしろいということなんだな。ダビンチが大ピンチと似ていておもしろい」
 僕の説明を理解しようとしているのか、先輩が何度も繰り返す。そんな先輩の様子を眺めながら笑いをこらえて凛が僕の腕をつつく。
「ほら、朋樹、おもしろいってよ。よかったじゃん」
 先輩、許してください。お願いです、おもしろくありませんから。
「こういうときには笑うという行為をおこなえばよいのだな」
「まあそうですね」
「じゃあ、こんな感じでどうだ」
 ぎこちない笑顔だったけど、僕は一瞬で引き込まれた。
 彫刻のようだった顔の輪郭が柔らかくほぐれて、頬がおまんじゅうのように丸くなる。冷たく光のなかった瞳にあたたかさが宿る。幽霊とは思えないような柔和な笑顔だった。こんな笑顔で朝「おはよう、朋樹」なんて言われたら、僕の学校生活は天国だろうな。
 ふと横を向くと、凛が僕を見て黙っていた。
 え、なに?
 なんでもないわよ。
 凛がぷいと顔をそらした。
 先輩が笑顔のまま僕らに尋ねた。
「なあ、人にぶつかったときにはなんて言えば良いのだ?」
「そういう時は『ごめんなさい』か『すみません』ですね」
「そうか。私はよく人にぶつかるのでな」
 先輩がまた無表情になってうなずく。
「あと一つ。こういう時は何と言えばいいのだ?」
「こういう時?」
「物を教えてもらったりまんじゅうをもらった時だ」
「それは『ありがとう』ですね」
「そうか」
 先輩は立ち上がって僕らに頭を下げた。
「ありがとう」
 凛が笑顔で返す。
「どういたしまして」
「またまんじゅうをくれよ」
 凛が僕の袖を引っ張って先輩の方に押し出した。
「先輩」
「なんだ」
「おもしろくないときでもこいつに笑顔を見せてやって下さいよ」
「それが普通なのか」
「先輩の笑顔が素敵だからですよ」
「素敵とは何だ」
 凛が首を傾げて言葉を探している。説明が思い浮かばないらしい。
「よくわからないけど、コイツが喜ぶんですよ。先輩の笑顔を見ると。それが『素敵』ってやつです」
 おい、何言ってんの。
「よく分からないが笑顔というものを見せればよいのだな」
 先輩の笑顔は確かに素敵だった。凛の言うとおりだった。
 それを見た凛も笑う。
「すごく素敵ですよ、先輩。いつも笑顔でいるといいですよ」
「おまえの笑顔も素敵だぞ」
 言われた凛は頬を染めて照れていた。そんな凛は今まで見たことがなかった。ここにもまた僕の知らない凛がいた。
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