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第2章 あたしの知らない世界(2-1)

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 目を開けるとそこには白い天井が広がっていた。
 真っ黒だった世界に光が戻ってきたらしい。
 天井両側の壁も白い。
 明るい光の差し込む窓が頭の方にあって、脚の方はカーテンで仕切られている。
 天井と壁の区切り目がうっすらと直線になっているのを目で追う。
 顔を動かそうとするのに、目を動かすのがやっとだ。
 首が痛いし、頭全体も弱いゴムバンドで縛られているみたいに鈍い感覚に包まれている。
 自分の体が空気の抜けた浮き輪みたいでなんだか変だ。
 筋肉の動かし方を忘れてしまったみたいで、手がイカのお刺身みたいだ。
 あたしはベッドに横たわっているらしい。
 腕には点滴のチューブがつながっている。
 ……病院か。
 あたし、どうしたんだろう?
 なんかの病気だったっけ?
 手術でもしたのかな。
 体中が痛いから怪我かな?
 そういえば、なんか変な夢を見ていたような気がする。
 誰かに抱きしめられていたんだったっけ。
 よく思い出せないし、思い出そうとすると頭が痛くなる。
 あたしは考えるのをやめた。
 この部屋は耳がおかしくなったのかと思うくらい静かだ。
 でも、少しだけ手を動かすと布団のこすれ合う音がする。
 咳払いをすると、静かな病室に思ったよりも響いた。
 耳は大丈夫らしい。
 脚の方で自動ドアの開く機械音がして、誰かの足音が近づいてくる。
 カーテンが開く。
「あら、目が覚めましたか。今点滴交換しますからね」
 看護師さんらしい。
 ベッド脇の電子機器をなにやらいじっている。
 ピッピッピというはっきりとした電子音が、夢ではないんだよと教えてくれているみたいだ。
 そちらに顔を向けようとすると頭に激痛が走って、急に吐き気がこみ上げてきた。
 あたしの表情を見て看護師さんが優しく声をかけてくれる。
「まだあまり動かない方がいいですよ。平衡感覚がおかしくなってるかもしれないから」
「あたし、どうしたんですか」
「交通事故でね。三日間ずっと眠ってたのよ」
 看護師さんの説明によれば、あたしは車の暴走事故に巻きこまれて、意識不明で搬送されたそうだ。
 ただ、骨折などの大きな怪我はなく、CTやMRIの検査で脳にも異常は見つからなかったらしい。
「事故のショックで意識を失っていたんでしょうけど、目が覚めたから、あとは体力が回復するまでゆっくり静養していればいいのよ。打撲で痛みは残ってるでしょうから、リハビリとかは焦らなくても大丈夫ですからね」
 点滴に入っている薬のせいかあたしはまたいつの間にか眠っていて、次に目覚めたときは連絡が行ったらしく、枕元にお母さんとお父さんがいた。
「よかった。かさね、よかったね」
 泣いているお母さんを見たのは初めてだ。
「三日も意識が戻らなくて心配したわよ。体は擦り傷くらいでほとんどなんともなかったのにね」
 勾玉神社の境内に高齢者の運転する車が突っ込んで、あたしは後ろから跳ねられたらしい。
「警察でドライブレコーダーを調べたらね、運転していたお爺さん、ぶつかる前にもうハンドルを握ったまま心臓発作で亡くなってたらしいのよ」
 そうだったのか。
 お父さんも興奮気味だった。
「自動ブレーキはついてなかったんだってよ。アクセルペダルに体重がかかっててかなりスピードが出てたってさ。あんなすごい事故だったのに、まるで何かにくるまれていたみたいに無傷だったんだよ。映画のスタントマンみたいだよな」
「ちょっと、お父さん、何言ってんの」と、お母さんが横であきれている。
「でも、無事で良かったよな。おまえの身代わりに神社が壊れてくれたんだろうさ」
 そんなことないんじゃないの。
 お母さんまで渋い顔をしている。
「もう、お父さん、黙って。なんてこと言ってるの」
 まあ、これもお父さんなりの励ましなんだろう。
 あたしにしても、自分に起きた出来事なのに、誰か別の人のことを聞いているみたいで、感想や感情がまったく湧いてこない。
 それから二週間入院して、いろいろな検査をしたり、立ち上がって歩く練習をした。
 脳内は最初は異常が見つからなくても、少し時間がたってから何かが出てくることもあるらしい。
 幸いなことに、特に脳内出血などもなく、初めのうちはひどかっためまいも何日かするうちに収まっていった。
 リカバリー・ルームから四人部屋の一般病室に移った頃、一度ミホがお見舞いに来てくれた。
 恥ずかしそうに菓子折を差し出す。
 ミホの家『御蔵屋』の名物和菓子『御蔵最中(みくらもなか)』の詰め合わせだ。
「本当はケーキの方がいいでしょ。ごめんね。うちのおばあちゃんが持ってけっていうからさ」
 実はあたしは『御蔵屋』のお菓子を食べたことがほとんどない。
 笹倉城に来た観光客が必ず買っていく定番商品だけど、地元の人はわざわざ買わないのだ。
 小さい頃に、どこかからのもらい物をおばあちゃんと食べた記憶がかすかにある程度で、味は全然覚えていない。
「ありがとう。食欲はあるから、遠慮なくいただくよ」
 私の言葉に安心したのか、ミホが微笑みながら箱を開けて中を見せてくれた。
 俵型の最中が三種類並んでいる。
「これがシンプルな粒あん。こっちは栗入り。これはね、抹茶味」
「栗入りがいいな」
 かしこまりました、とあたしに一つくれて、ミホは抹茶味を取った。
 一口かじると粒あんの中から大きな栗が出てきた。
 思っていたよりも甘さが主張していて、お茶が欲しくなる。
「味が濃いね」
「昔はこういう方が喜ばれてたみたいよ。でも、最近はお上品な味にみんな慣れちゃってるよね」
 病院の食事に舌が慣れすぎているのもあるのかもしれない。
 久しぶりに味わう甘さが中毒性を発揮し始めて、あっというまに一つ食べてしまった。
「ほれ、太れ太れ」とミホが箱を突き出してくる。
 あたしは遠慮なく粒あん最中をもらった。
 こちらは栗がない分、あんこがぎっしりで甘みもさらにパンチが効いている。
 少し口の中をさっぱりさせたいなと思っていたら、ミホがベッドサイドの棚にある水のペットボトルのふたを開けてくれた。
 あいかわらず超能力みたいな察し方だ。
「ありがとう」
 水を一口ふくむと口の中がすっきりした。
 そうなると不思議にもう一つ食べたくなる。
「おいしいね、この最中。せっかくだから抹茶味ももらおうかな」
「そんなに食べて大丈夫?」
「うん。べつに何食べてもいいって。ここのご飯けっこうおいしいから、少しくらいお菓子食べても、夕飯もちゃんと入るよ」
 それは良かったとうなずきながらミホが最中を渡してくれた。
「でもさ、少しって量じゃないよね。本当に大丈夫?」
「いいじゃん。せっかく持ってきてくれたんだから」
 入院していると、あまりすることがなくて、食欲があるのはいいことなんだなって思う。
 食べられるというのは、それだけでうれしいことなんだな。
 調理科で学んでいるけど、今まではそんなことを考えたこともなかった。
 調理師といっても、レストランで働く人ばかりではない。
 学校給食の事業所や空港で機内食をつくる工場とか、パン祭で有名な全国チェーンの工場で働く人もいる。
 うちの高校の調理科の卒業生も老人ホームや病院の食事を提供する会社に就職する先輩が多い。
 学校の授業でも、病人向けレシピの実習をやったことがある。
 アレルギー対策や塩分量など、指定された材料しか使ってはいけないし、調理法も決められている場合はますますメニューの幅が狭くなってしまう。
 そういう制約の中でもなるべくおいしいものを提供できるように工夫していくことが大事なんだなと、しみじみ思った。
 自分が実際にこういう立場になってみると、そういう知識がどんな風に活かされているのかとても参考になる。
 そんなことを話しているうちに、話題が事故のことになった。
 ミホが声を抑えながらも、少し興奮気味に話してくれた。
「あの日、私と神社で別れて、その後だったんだよ。もうびっくりしたよ。まさかかさねが巻きこまれるとは思わなかったな」
 そうなのか。
 ミホまで巻きこまれなくてよかったな。
 ていうか、あたし、一人で何してたのかな。
 違うよね。
 一人のはずがないもん。
 だって、いつもあいつと一緒だったから。
「ねえ、コースケはどうしてるの?」
 あたしの質問に、ミホが耳を寄せてくる。
「え? 誰?」
「コースケだよ」
 当惑した表情で、ミホが自分の耳に手を当てる。
「え、ごめん。よくわからないや。ええと、もう一度言って」
「コースケ。知ってるでしょ。八重樫康輔」
 やえがし……こうすけ……、とつぶやいたミホの表情が曇る。
「ごめん。マジで分からないや。こうすけくん、だよね? うちらの高校? 中学じゃなくて?」
 え、なにそれ。
 コースケだよ。
 分からないってどうして?
 急になんだか嫌な予感がしてきた。
「ねえ、もしかして、何か隠してる?」
 あたしの言葉に驚いたようにミホが体を起こして両手を振った。
「いやいや、何もないよ。ていうか、本当に八重樫君って誰?」
 誰って……?
 どういうこと?
 何を言ってるの?
 ……まさか。
 体の奥が震える。
「ねえ、ミホ」とあたしは手を差し出した。
 ミホが優しく握ってくれる。
 友達の手はあたたかい。
「ねえ、本当のことを言ってよ」
 うん、とあたしの友達がうなずいた。
 でも、何も言ってくれない。
「コースケ、あたしと一緒に事故に巻きこまれてどうかしたの? もしかして……」
 ミホは返事に困っているようだった。
 あたしの手をさすりながらうつむいて言葉を探している。
 沈黙が流れる。
 教えてよ。
 ねえ、本当のことを教えてよ。
 あたしはミホの手を握り返した。
 教えてくれるまでは離さないからね。
「あのさ、かさね」と、ようやく言葉を絞り出してミホが顔を上げた。
 まるで腹話術の人形みたいに不自然な口の動かし方だった。
「ごめんね。本当に何のことだか分からないよ。気を悪くしないでほしいんだけど、事故で頭を打ったからまだ調子が戻ってないんじゃないかな。夢とかと混ざっちゃってるのかもよ」
 夢?
 何言ってるのよ。
 でも、ミホはものすごく真剣な目であたしを見ている。
 あたしに疑われていることに対して責任を感じている表情だった。
 友達を追いつめて迷惑をかけてはいけない。
 あたしは頬の筋肉を無理に引き上げて笑顔を向けた。
「夢かあ。まだ自分が思ってるほど本調子じゃないのかも。アハハ」
「ごめんね。嘘はついてないし、隠し事もしてないよ。マジで」
 こっちこそごめん。
 ミホはあたしに対してはいつもちゃんと向き合ってくれてたよね。
 大事な友達って言ってくれたんだもんね。
 本当はあたしが疑っていることもちゃんと分かっていて、あたしがミホに対して気をつかわせないように無理に笑ったところで、そんなこともお見通しだよね。
 だけど、だからこそ、何もなかった演技をしなければならないんだ。
 あたしが康輔にしていたのと同じように。
 そんなことを考えていたら、ミホがぽつりとつぶやいた。
「本当に分からなくてごめんね」
 あたしはなるべく明るい声で答えた。
「ううん。なんかめちゃくちゃリアルな夢だったからさ。麻酔とかのせいだったのかな。麻薬だったりしてね。アハハ」
 不謹慎ネタまで総動員してなんとかその場をごまかすしかなかった。
 でも頑張ったおかげで、ミホもようやく笑ってくれた。
「ねえ、夢に出てきた男の子って、イケメンだった?」
「ううん。そうでもない」
「そっか」とミホは曖昧な笑みを浮かべながら両手であたしの手を包んでくれた。
 じんわりとしみこむように優しさが伝わる。
「ミホの方がイケメンだよ」
「だろ? 惚れるなよ」と、急なフリにもしっかりと芸人魂を発揮してくれる。
 ほんと、ミホはイケメンだよ。
 ミホが帰った後、あたしは自分のスマホを見ようとした。
 ふだん、あれだけ触っていたのに、痛みや吐き気でそれどころではなかったから、すっかり忘れていた。
 でも、病室にはないようだった。
 お母さんが来てくれたときに尋ねたら、返ってきたのはため息だった。
 事故の時に壊れてしまったんだそうだ。
 お父さん風に言えば、あたしの代わりに壊れてくれたということなんだろう。
 こんなことになるなんて思ってなかったからバックアップはとっていなかった。
 写真とかアプリのデータは全部消えちゃったことになる。
 消えてしまうと、あんなにいらないと思っていたつまらない写真がとても貴重な物に思えてくる。
 なんだか本当に身代わりとして、今までの自分まで消えてしまったような気がして、あたしも思わずため息をついてしまった。
「退院したら、新しいの買ってあげるからね」
 お母さんのせいじゃないのに、心配させてしまって申し訳ない。
 退院の日に、お母さんが車で迎えに来てくれて、そのままスマホを買いに行った。
 機種を指定してお父さんに予約しておいてもらったから手続きはすぐに済んだ。
 車の中でアプリの設定をしようと思ったけど、酔いそうだったからやめた。
 前は乗り物酔いなんてしなかったんだけど、やっぱり軽くめまいがする。
「家でゆっくりやりなさいよ」
「うん、そうする」
 あたしの素直な返事にお母さんも戸惑っているようだった。
 いつも、そんなにわがままだったのかな、あたし。
 すごく恥ずかしい。
 直さなくちゃね。
 いろんな人に寄りかかりすぎて、ひねくれすぎてて、あたしってすごく面倒な人間だったんだな。
 もっと大人にならなくちゃ。
 今度こそ、康輔にも謝ろう。
 ごめんなさい。
 それに、ちゃんと感謝の気持ちも伝えよう。
 いつもいろいろありがとう。
 一番大事な素直な気持ちもちゃんと言おう。
 あのね。
 あたし、康輔のこと好きだから。
 笑うかな。
 マジだってば。
 冗談だろとかって、言われちゃうかな。
 ううん。
 信じてくれるまで何度でも言おう。
 ずっと好きだったよ。
 いつも一緒にいてくれてありがとう。
 今度こそ、ちゃんと言うんだ。
 好きなんだってば。
 あいつ、びっくりするかな。
 うそこけ、とか言われたらどうしよう。
 信じるまでぎゅって抱きついてやるか。
 ケンカになるかな。
 コクったとたんに別れたりして。
 冗談のつもりなのに、なんだか心が震え出す。
 まずいまずい。
 勇気を出しなよ。
 大丈夫だって、うまくいくから。
 言える。
 あたし、ちゃんと言える……よね。
「どうしたの?」
 信号待ちでお母さんがミラー越しにあたしを見ていた。
「え? どうかした?」
「なんか笑ってるから」
 ……言えないよ。
 言えるわけないじゃん。
 康輔のこと考えてたなんて言えるわけない。
「久しぶりに帰れるから」
 無難な返事でごまかすと、お母さんは微笑んでくれた。
 ウソではないけど、ちょっぴり後ろめたさはある。
 うまくいったらちゃんと報告するからね。
 あたし、カレシができました、なんてね。
 よし、やるぞ。
 あたし、頑張る。
 新しい西谷かさね、誕生の瞬間だ。
 家に着いて、アプリの連絡先が更新されると、たまっていた二週間分のメッセージが続々と入ってきて、不機嫌なおじさんみたいにスマホがうなりっぱなしだった。
 ミホからは早速、『退院おめでとう』と入っていた。
 でも、どういうわけか、康輔がいなかった。
 何度見ても連絡先もメッセージも戻ってこない。
 なんだろう。
 あいつのスマホも壊れたのかな。
 あたしは事故のニュースを検索してみた。
 通信社の速報や、全国紙の記事、それにスポーツ紙まで、いろいろなニュース記事が見つかった。
『また高齢運転者の事故』
『高校生が重体。軽傷者数名』
 これはあたしのことか。
 でも、こうやって新聞記事になっていると、どこか他の誰かのことみたいな感じがする。
『心臓の持病で通院中。来月八十歳の誕生日を区切りに免許返納を。周囲に話していた矢先の事故。家族の後悔』
 高齢者の事故というだけでなく、突っ込んだ先が神社という点が話題の中心になっているようだった。
 確かに、鳥居をなぎ倒してグシャグシャになった車の写真はインパクトがある。
 あたしの名前が載っている記事もあった。
 でも、どこにも康輔のことは書かれていなかった。
 軽傷者の中にいたのかな。
 運転していたおじいさんは気の毒だったけど、巻きこまれた被害者の中に死者はいなかったというその事実だけが唯一の救いだった。
 でもじゃあ、どうして康輔と連絡がつかないんだろう。
 ミホのあの当惑した表情もなんだったんだろう。
 明日から学校へ行けば会えるかな。
 康輔のことを考えていたら、不意に狛犬のことが頭の中に浮かんできた。
 鳥居が壊れたということは、すぐそばの狛犬も無事ではなかったんじゃないだろうか。
 ニュース記事にはそのことは書かれていなかったし、写真も角度がいまいちで、よく分からなかった。
 粉々に砕けた狛犬を想像していると、なんだか康輔までそんな姿になってしまったような気がして体が震え出す。
 体の奥から何かがこみ上げてくる。
 気持ちが悪くなってしまってトイレに駆け込んだ。
 急いだせいでなおさら頭がクラクラして、胃がグニュグニュと痙攣した。
 空腹だったから何も出てこなかったけど、変な汗で体中ぐっしょりになってしまった。
 いつの間にかトイレの外ではお母さんが心配そうな顔で立っていた。
「大丈夫? もう一度お医者さんに行ってみる?」
「ううん。おとなしく寝てるよ。心配かけてごめんね」
 病院から帰るときに着ていた服を脱いで、タオルで汗を拭う。
 その間にお母さんが新しいパジャマを用意してくれた。
 めまいがしたときのための薬をもらっていたので、それを飲んでから自分の部屋に戻った。
 ベッドに入って、ついてきてくれたお母さんに笑顔を向ける。
「ごめんね。スマホばっかりいじってたのがいけなかったのかな。ちゃんと寝てるからさ」
「なんか素直ね」
「なによ。かえって心配?」
 お母さんも笑ってくれた。
「帰ってきてくれて安心したわよ。無理しないでゆっくり休んでなさいね」
「明日から学校行けるかな」
「無理しなくていいのよ。先生にも、さっき退院しましたってメールしておいたけど、出席日数の心配はいらないからしっかり養生しなさいっておっしゃってたわよ」
「うん。じゃあ、明日の朝、考えるね」
「夕飯できたら様子見に来るけど、寝てたら起こさないからね」
「うん。ありがとう」
 お母さんがあたしの額にかかった前髪を直してから部屋を出て行った。
 目を閉じると、おばあちゃんのことが思い浮かんできた。
 去年亡くなったとき、病院から帰ってきたおばあちゃんは安らかな顔をしていた。
 いろんな思い出がよみがえってきて、その一つ一つにありがとうって言えた。
 おばあちゃんは何も答えてはくれなかったけど、でも、ちゃんと伝わった気がした。
 そのときあたしはちゃんとお別れが言えたんだと思った。
 おばあちゃんとの思い出はいいことばかりってわけじゃない。
 わがままを言って困らせたこともあった。
 それでもおばあちゃんはあたしのことをかわいがってくれた。
 そんなあたしの未熟なところも全部受け止めてかわいがってくれたのがおばあちゃんだった。
 だからあたしも安心して甘えられたんだ。
 お葬式はとても悲しくて泣いたけど、でも、おばあちゃんはあたしの心の中に今もいてくれて、思い出すたびにあたたかな気持ちがよみがえってくる。
 おばあちゃんはいなくなったんじゃない。
 いつまでもあたしのそばにいてくれる。
 ありがとうね、おばあちゃん。
 わがまま言ってごめんね。
 こうしていつでも気持ちを伝えることができる。
 だからいつだってあたたかな気持ちがよみがえってくるんだ。
 でも、康輔は……。
 康輔との思い出はプツンと途切れてしまっている。
 いなくなった、というより、元からいなかったみたいだ。
 なんでそんなことになっちゃったんだろう。
 全然わけが分からない。
 急に胸の奥が冷えていく。
 考えてはいけないんだと警告されているみたいに、閉じたまぶたに浮かぶかすかな光が渦を巻き始める。
 めまいがしそうで、ギュッとまぶたに力を込める。
 体が熱くなってきて汗がにじみ出てくる。
 その汗が冷えてきて今度は体が震え出す。
 ねえ、康輔。
 助けて。
 お願いだから、ここにいるって言ってよ。
 馬鹿だなって笑ってよ。
 目を閉じたまま枕カバーで涙を拭う。
 濡れた枕の冷たさを耳たぶで感じる。
 自分の鼓動が耳の中で響く。
 ノイズ混じりの鼓動の向こうから康輔の声が聞こえてくる。
 いなくなるわけねえだろ。
 いつもそばにいたじゃんか。
 いつも一緒だっただろ。
 ……だよね。
 いつも一緒だったよね。
 明日、ちゃんと会えるよね。
 心配するなよ。
 うん。
 おやすみ、かさね。
 うん。
 ……おやすみ、康輔。
 ……。
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