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 リュディアスは二人だけの会話を言いふらす人ではないが、万一他の人の耳に入っては問題がある内容だからだ。

「ああ、分かった」

 念入りに前置きしたことに怪訝な顔をしたが、鷹揚にリュディアスがうなづく。それを確認して、再びジャスミンは口を開いた。

「昔、婚約していた男性に式直前に破談されて。彼はすぐ別の……えーと、地位のある女性と結婚しました。わたしにはなんの後ろ盾もなかったので、利点のある女性を選んだのでしょうね。利点のあるなしで判断されたということは、彼はわたしのことが対して好きではなかったのだと思います。それでもわたしは彼が初めての恋人で。本当に好きで、破談になって、その後もいろいろなことが起こったのが耐えがたくて。今でもそれがずっと忘れられなくて、また結婚が直前にダメになるんじゃないかと思うと怖くて。それどころか人を好きになることすら、もうわたしには」

 ジャスミンは言葉の途中で口を結んだ。

(……気持ち悪い)

 辛い記憶と向き合ったことで、気持ち悪くなったからだ。吐き気を覚えて、口元を押さえてうなだれる。

「おい? 大丈夫か?」

 口を挟まずにいてくれたリュディアスが、心配そうな口調で、背中をさすってくれる。

「ベッドに運ぶか?」

 彼の提案に、ジャスミンは緩慢に首を振る。

「いえ、そこまでは……大丈夫、です。お水をいただけますか? ベッドのサイドテーブルに水差しとコップがあるので」
「ああ、分かった」

 リュディアスがすぐにコップに水を注いで持ってきてくれる。

「……申し訳ありません。ありがとうございます」

 ジャスミンはゆっくりと水を飲み干すと、コップをテーブルの上に置いた。ジャスミンの顔色が若干戻ったことを確認して、リュディアスが疑問を口にする。

「昔とは? 今までお前に婚約者がいたなど聞いたことがないぞ。ましてやオレと出会う前の未成年のお前が、式を挙げるはずがない」
(だよね。まあ、そうなるわよね)
 
できれば前世があることは伏せておきたかったが、これだけではリュディアスは納得しないようだ。頭おかしいと思われても仕方ないか、とジャスミンは覚悟を決めて、説明することにした。ここを通らずに説明できない。

「信じてもらえないと思うのですが。わたしには前世があって。そのときの話です。当時わたしは二十五歳でした」
「……前世? そうか。前世の話か」

 怪訝そうな顔をしたものの、リュディアスは納得してくれたようだ。そのほうが助かるのに、あっさり納得してくれたのが意外で、ついジャスミンは聞いてしまう。

「前世などと突拍子もない話、信じてくださるのですか?」
「にわかには信じがたいが、お前が嘘をつくとは思えない。他国には輪廻転生を信じている宗教もあるくらいだし、ないとは言えないからな」
「あ、ありがとうございます」

 手放しに信用してくれるのはありがたいが、申し訳なくもある。ジャスミンはリュディアスの気持ちに応えられないのだから。

「今のお前は大国の王女だから、かなりの後ろ盾があると思うが? それでも婚約破棄されることが心配だと?」
「……まぁそうなのですが」

 だが、あのときの悲しみは今でも忘れられない。世界で至上の幸福を手に入れたと思った次の瞬間、奈落の底に落とされたような。
 リュディアスは不機嫌そうにさらに続けた。

「何より、そんなクズ男と同列に思われるなんて不愉快だ。オレも同じように、式の直前に婚約破棄すると?」
「……そういうわけでは」

 ないが、そうだと言っているのと確かに同義だ。
 
(リュディアスさまがそんなことをする方ではないのは、分かっている。だけど、やっぱり怖い……)

 一度婚約破棄されたトラウマは相当のものだ。例えどんな相手でも、もう二度と婚約などしたくない、結婚など考えたくもない。と思えるほどには。
 口ごもっていると、彼は悲しそうな顔をした。
 ジャスミンの背中側に回り込んで、ぎゅうっと後ろから抱きしめてくる。

「……オレには全く脈はないか? ほんの一握りも?」

 その声は、今まで聞いたことのないほど切なく悲し気で、ジャスミンの心を締め付けた。ジャスミンはリュディアスが嫌いなわけではない。むしろ好感を持っている。
 だからこんな風な声を出されるのはとても辛い。リュディアスが前世の元婚約者とは違い、むしろ真逆のいい人なのは分かっている。

(わたしが結婚を受け入れたのなら)

 リュディアスは喜ぶのだろう。けれど。

(ごめんなさい。やっぱり……怖い。きっとわたしはもうとっくに……)

 だからこそ、リュディアスに別れを告げられたら、本当に立ち直れない。ジャスミンは心苦しく思いながらも、首を振った。

「申し訳ございません。やっぱり、できません」

 ふう、とリュディアスは小さく嘆息した。渋られるかと思ったが、

「長い間、追い回して悪かったな。では」

 あっさりとリュディアスはすたすたとバルコニーに出て行き、夜空へ飛び立ってしまった。あまりにあっさりとしていたので、ジャスミンはしばらく茫然として、その小さくなる背中を見送る。

「あ……」

 もう肉眼ではとらえることのできなくなったリュディアスを見送っているうちに、知らず知らずのうちに涙がこぼれていることに気づく。そして、先ほどのぼんやりとした気持ちが真実だったのだ、と確信した。

(ああ。わたし……。リュディアス様が……)

 きっとジャスミンも初めて会ったあの時から。
 

「好き……」

 どうして気づいてしまったんだろう。どうせならば、ずっと気づかないでいられればよかったのに。

(わたしが、こんな気持ちになるなんて身勝手すぎるわ。リュディアスさまのほうが、きっと辛いのに)

 もう、遅すぎる。自分で終わらせたのに。
 初めてリュディアスに会ったあのとき。
 心臓が痛いほどの気持ちになったのは、気のせいではなかったのだ。きっとあれが、運命の番に会ったということの証。

(リュディアスさまも、同じことを感じていたんだわ)

 もっとはっきり拒むことなら、いくらでもできたのに。リュディアスのジャスミンの部屋への立ち入りを禁じることもできた。ジャスミンはそうしなかった。

(わたしは、ずるいわね)

 リュディアスと過ごすことが、楽しかったからだ。
 彼が望む関係になることはできないのに、ずるずると親しい友人以上、恋人未満のこの関係を続けてきた。

 ジャスミンは無意識に首にかけた、うろこのお守りを握った。
 心臓が締め付けられて痛かった。息苦しかった。もしかしたら、前世に婚約破棄されたときよりも。
 ジャスミンはよろよろと、ベッドまで歩いて行った。中に潜り込むと、上掛けを頭からかぶる。泣きつかれて、いつの間にか眠ってしまった。

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