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 宿屋の親父さんにあいさつをすませ、わずかばかりの荷物とともに、街に別れを告げた。
 親父さんは獣人のことを知っていたようだ。顔に似合わず、街の施設などに寄付をしている慈善家の伯爵らしい。
 「この方ならば安心してお前を任せられる。いつでも遊びにおいで」と言ってくれた。

 遠ざかる街を馬車の窓からぼんやり眺める。辛いことも多かったが、孤児院を出てからずっと暮らしていた街だ。妙に感慨深い気がした。
 クレマンは同乗しなかった。当然と言えば当然なのだろうが、貴族と使用人は別の馬車に乗るらしい。
 だからこの馬車の中は、俺と獣人の二人きりだ。重たい沈黙した空気が漂っていた。
 俺と獣人は向かい合わせに座っている。獣人は不機嫌そうな顔で、腕組みをしていた。

(気まずい)

 仲良くおしゃべりなんてしたくはなかったが、居心地の悪さが嫌になり、俺は口を開いた。
 とりあえず名前を聞くことにする。何と呼んでいいのか分からなければ、不便で仕方がない。

「あんたの名前は?」

 俺の問いかけに、獣人はゆっくりと顔をあげた。 

「リュカだ。リュカ・アンジブースト。呼び方はリュカでいい。お前は?」
「俺も『お前』じゃなくてヴェルトリーだ」
「姓は?」
「ねーよ。そんなご立派なもの。孤児だから」
「そうか。俺の姓になるわけだから、そもそも必要ないな」

 小さな声でリュカが呟いた。俺とこいつが結婚することは、もう決定事項らしい。
 運命の番だかなんだか知らないが、本当に結婚してもいいのだろうか。
 そして心から望んでいるようには思えない。だって本当に結婚したいのなら、もっと嬉しそうにするだろ。それどころか表情は仏頂面だし、腕組みはしているし、不機嫌極まりない。
 まぁ結婚のことは俺からは触れないようにしよう。
 俺は別の気になっている事柄に話題を変えることにした。

「リュカ、その……なんか香水つけてるよな」
「いや?つけていないが」

 即座に首を振られ、俺は眉をひそめる。
 
「そんなはずは……甘ったるい……やつ」

 街中にいるときですらそう思っていたのに、馬車の中の密室で匂いが充満して正直くらくらするほどだ。これで何もつけていないなんて、ありえないだろう。

「フェロモンだ。ヴェルトリーが俺の番だから感じ取ったんだ」

 リュカの目が鋭くなる。その目を見た時、俺は背筋がぞくっとした。
 フェロモン……。獣人ならともかく、人間の俺がフェロモンなんかかぎとれるものなのだろうか。というか、

「番、とかなんとか……って、本当なのか? どうして分かんの?」

 俺を騙したところで、リュカにメリットなど一切ないと思うが、どうにも信じがたい。

「ヴェルトリーを一目見た時に分かった。お前もヒートが来れば分かる。お前は俺の唯一の運命の番だと」
「あんたは俺で、いいのかよ」
「『俺で』じゃなくて、お前以外ありえない。魂の番とはそういうものだ。だから俺はおまえを伴侶にする」
「そういうもの……」

 「好き」だの甘ったるい言葉を求めていたわけではないが、諦めているというか俺が運命の番だから仕方なしに結婚すると言っているようで、大変不本意だ。

「ヒートってのは?」
「いわゆる発情だ」
「獣人だけの話じゃねーの?」

 獣人に発情期があるのは知っている。宿の親父さんの発情期のときは仕事どころではないと言って、休みになるから。

「オメガに限っては人間でもある。お前、年は?」
「十八だけど」

 なぜそんなことを訊くのだろう、と不思議に思っていると、

「うわっ」

 いきなり手首をつかまれる。

「まだヒートがないのは少し遅いな。痩せすぎのようだから、屋敷についたら食べるように。そのうちヒートが来るだろう」
「わ、分かったよ」

 つかまれた部分がやけに熱くて、なぜだかさっき初めて会った時のように心臓がうるさくドクドクと鼓動した。そのことがなんだか腹が立って、俺は慌ててリュカの手を振り払った。
 そしたらリュカがふっと笑ったので、もっと腹が立った。尻尾と耳がぴくぴく動いている。

(隙を見て絶対逃げ出してやるからな!)

 俺は固く心に誓った。
 
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