寡黙な騎士団長は花嫁を溺愛する

水無瀬雨音

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1巻

1-3

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 珍しく口数が多いアーノルドに、コンラッドは驚きながらも主人の問いに答える。

「まず落ち着いてください。あんた、自分がかなりスペック高いの、まだ分かってないんですか。それに、普通に考えて、伯爵家は公爵家から縁談を持ち込まれたら断れませんよ。成人しているのかとか、絶対ヴィオレット様に聞かないでくださいよ。気にされてるかもしれないんですから。大変お可愛らしい方でよかったですね! エルフだから、お顔もきっとお綺麗きれいです。さ、早く着替えてご挨拶あいさつを……って、なぜまたベッドにもぐっているんですか!?」

 コンラッドはアーノルドから上掛けをはごうとするが、先ほどと同様にどうにもできない。

「……あんなに可愛い人の隣に、オレなんかが並べない。彼女もオレの噂を知っているはずだ。怖がっているに決まっている」
「だから、あんたスペックはかなり高いですから。いい加減嫌味かな? って思えてきますよ」

 こほん、と咳払せきばらいして、コンラッドはまた口を開いた。

「いいですよ。婚約解消しても」

 ぴくりと上掛けが動く。

「あんなにお美しいのですから、すぐに他の方との縁談があるでしょうね? いいんですかね。ヴィオレット様がほかの人のものになっても。あるいは、今までは深窓しんそうの令嬢ということで、あまり知られていなかったようですが、エルフの先祖返りだということが分かれば、研究機関に拉致らちされるかもしれません」

 コンラッドが言うと、ばっと上掛けがちゅうを舞う。
 先ほどまでの緩慢かんまんな動きは何だったのか、というほど素早く着替えると、アーノルドは勢いよくドアを開け放ち、部屋を出た。
 シャツもジャケットも羽織はおっただけ。ボタンは留めきっていないので、細身ながらきたえられた上半身があらわになっている。
 とても花嫁に見せる姿ではないが、必死なアーノルドは気づいていなかった。

「あ、ちょっと。ボタン留めてないし、そんなぼさぼさの頭で行くんですか!? 待ちなさい、アル!」

 つい、子供の頃のように叱責しっせきするコンラッド。けれどその声も届かず、アーノルドは走り去っていった。


   ✿ ❀ ✿


 ヴィオレットがアーノルドの屋敷に到着する一時間ほど前のこと。
 マルス王国に向かう汽車に乗っていたヴィオレットは、沈んだ気持ちで深くため息をついた。

「ヴィオレットお嬢様、もうすぐ海ですよ。ご覧になったことはないでしょう?」
「……うん」

 明るくはげまそうとしてくれるノアの言葉にも、ヴィオレットは生返事で顔もあげなかった。本を開いてはいるが、目が文字をなぞっているだけで、まったく頭に入らない。汽車に乗ってから一ページも進んでいなかった。
 自分に縁談を申し込んでくれたアーノルドを後悔させないよう、妻として精いっぱい努めよう。
 そう決めたヴィオレットだったが、いざ結婚の日が近づいてくると、徐々に不安がつのっていった。

「もう。いい加減暗い顔をするのはやめたらどうですか? 案外いい方かもしれませんよ?」

 ヴィオレットが一向に顔をあげないので、ノアはあきれているようだ。

「そうかもしれないけど……」

 ヴィオレットの頭を、『疾風しっぷう黒豹くろひょう』にまつわる数々の噂がよぎる。
 結婚に対する不安から、ヴィオレットはアーノルドについて色々と情報を集めていたのだ。
 ――大した罪はない人なのに、気に入らなければ理由をつけて投獄とうごくする。
 ――負けを認めて懇願こんがんしても、自分の気がすむまで相手を打ち負かす。
 それらの噂は、ヴィオレットを震え上がらせるには十分だった。

「噂は噂ですよ? 執事長からのお手紙を読まれて、『お優しい方なのかな』っておっしゃっていたじゃないですか」
「それはそうなんだけど……。こんなにたくさんあると、どれかは本当のことなんじゃないかって思わない?」

 実際に本人とやりとりをしたわけではないし、絵姿すら見ていない。そのためか、悪い想像ばかりがふくらむ。

「噂がどうであれ、明日には夫婦になるんです。そろそろ覚悟を決めてください」
「うん……もう決まったことだものね……」
「お会いして本当に耐えきれないようでしたら、すぐおっしゃってください。帰りましょう」
「そうは言っても、結局は連れ戻されるんじゃ……」

 相手は、一度狙った獲物えものは絶対にのがさないという『疾風しっぷう黒豹くろひょう』だ。花嫁に逃げられたとなれば、どんな手を使ってでも連れ戻しにかかるに決まっている。

「修道院に行けばいいんです。『疾風しっぷう黒豹くろひょう』と言えど、男子禁制の場所には入れませんから」

 胸を張るノアに、ヴィオレットは首を横に振る。

「私は逃げられるけど、お父様やお母様のことを考えたら絶対にできない」

 ヴィオレットは暗いおもちではあったが、改めて覚悟を決めた。
 そのとき、汽車が大陸と大陸をつなぐ橋にさしかかった。
 それと同時に、人々の歓声があがる。

「何?」

 ヴィオレットが首をかしげると、ノアが口を開いた。

「イルカじゃないですか?」
「イルカ!?」

 生き物が大好きなヴィオレットは、ノアの言葉にようやく窓の外へ目を向けた。
 コバルトブルーの海が、太陽の光を浴びてキラキラと光っている。
 そんな海面から、イルカが時折ジャンプして姿を現す。本の挿絵などで見て姿は知っているが、本物のイルカは初めて見た。

「可愛い……」
「船に乗って近寄れば、触ることもできますよ。もともとイルカは人懐ひとなつっこいですし、この海域では漁が禁止されているので、警戒心も薄いと思います」
「そうなの!?」

 勢いよくいついてきたヴィオレットに、ノアは笑いをこらえる。

「場合によってはクジラも見られるそうですよ。公爵様に船に乗せてもらえるよう、頼んでみてはどうですか?」
「え、ええ」

 途端にヴィオレットはこわばった顔になった。
 もう数時間もすれば、フィリップ公爵と対面することになるのだ。
 ヴィオレットの不安な心中をよそに、汽車はしばらくしてマルス王国の首都の駅に停まる。駅にはフィリップ公爵家から、壮年そうねんの紳士が迎えに来てくれていた。
 公爵家の馬車は、王宮のものと比べても遜色そんしょくないほど、立派なものだった。盾の上に剣が二本交差した紋章が側面についている。
 マルス王国の貴族は、それぞれの紋章を持っており、それらは身分証のようなものなのだと聞く。馬車に刻まれているのは、アーノルドのものだ。
 馬車に乗り城下街を抜けると、貴族たちの住宅街の区域に入った。その中でもひときわ大きく、真っ白な邸宅に馬車は近づいていく。門には魔法がかけられているらしく、公爵家の住人が近づけば勝手に開くようだ。
 広い庭はいたるところに様々な花が咲き誇っている。動物や天使の置物があったり、噴水があったりと、意外にも可愛いらしい雰囲気だ。
 庭を抜け、玄関の前に馬車が停車する。先にノアが降り、続いてヴィオレットが御者ぎょしゃの手を借りて降りると、そこには前公爵夫妻が待っていてくれた。

「初めまして。ヴィオレット・フォン・マッキンリーです」

 緊張しながら挨拶あいさつをすると、夫婦はにこりと優しい笑みを浮かべてくれる。
 夫人は外国からとついできたそうで、白い肌に金髪碧眼へきがんだった。

「せっかく親子になったのだし、あなたのこと、愛称で呼びたいわ。『ヴィー』と呼んでかまわないかしら?」

 ヴィオレットは笑顔でうなずいた。

「かまいません」

 ヴィオレットは、自らの婚約者の姿が見えないことに気づき、あたりを見回した。そんな彼女に、夫人は言う。

「アルはちょっと支度に時間がかかっているみたい。ヴィーも疲れたでしょうから、先に中に入っていましょう」
「お気遣いありがとうございます、お義母様」
「まあっ! お義母様、ですって! 息子も可愛いのだけれど、娘は華やかでいいわね。しかもこんなに可愛らしいし」
「ヴィオレット、私のこともお義父様と呼んでみてくれないか」
「あ、はい。お義父様」

 われるままに呼ぶと、前公爵は満足げに破顔はがんし、夫人と顔を合わせてうなずき合う。

「うん! いいな」

 夫婦は気さくな性格で、ヴィオレットはほっと息をつく。
 するとそのとき、玄関から男性が二人出てきた。一人は準礼服、もう一人は執事服を身に着けている。体つきも違うので、どちらがアーノルドなのかはすぐ分かった。

「大きいですね」

 ヴィオレットにだけ聞こえるくらいの小声で、ボソッとノアがささやく。ヴィオレットも小さくうなずいた。

(……大きい)

 ヴィオレットが今まで会ったことがある人の中で、比べるまでもなく一番背が高い。
 マルス王国の国民は総じて身長が高いし、前公爵夫妻も背が高い。だが、アーノルドは中でも飛びぬけて大きかった。多分二メートル近くあるのではないか。


 目の前に立ったアーノルドを見上げて、ようやく目にすることができたその顔は、一言で表すと、怖い。
 褐色かっしょくの肌にきりりと凛々りりしい眉、鋭いつり目。
 精悍せいかんではあるのだが、ヴィオレットの理想とするような、優しい顔には程遠い。まさに『疾風しっぷう黒豹くろひょう』の噂通りの外見だった。
 無表情でまったく感情が読めないため、すごみが増している。
 加えて、礼服の上からでも分かる、細身ながらしっかりとした筋肉。その圧迫感に、ヴィオレットは思わず後ずさりした。涙目になってしまった気もする。
 しいて言えば夫人譲りの金髪碧眼へきがんだけが、ヴィオレットの理想と同じだった。
 じっと無表情で見つめられ、ヴィオレットの姿を見てがっかりしているのではないかと心配になってくる。
 けれど令嬢としてマナーを叩き込まれた彼女は、その不安を表に出すことはなかった。完璧な笑みを浮かべ、淑女しゅくじょの礼をとる。

「お初にお目にかかります。ヴィオレット・フォン・マッキンリーです。よろしくお願いいたします、アルバート様」

 そう述べた途端、ぴしり、と空気が凍ったような気がした。
 先ほどまで無表情だったアーノルドが、なぜかこの世の終わりを見たかのように肩を落としている。その目には涙すら浮かんでいた。

(……何か重大なマナー違反を犯してしまったのだろうか)

 ヴィオレットは動揺しつつ、助けを求めてノアのほうを振り返った。するとノアは、小声でわけを教えてくれる。

「アーノルド様です。先ほど『アルバート様』とお呼びになっていました……」
「あ……」

 アーノルドの名前は何度も繰り返し覚えたし、頭では分かっていたのに。なぜ名前を間違えてしまったのだろう。
 マナー違反の中でも、名前を呼び間違えるなど最悪だ。婚約破棄されても文句は言えない。
 いや、婚約破棄されるくらいならまだいい。

(私だけでなく、両親たちまで牢に入れられるかもしれない。それどころか殺されるかも……! ただ殺されるだけならまだしも、逃げまどっているところを追い回されて、いたぶりながら殺されたら……)
「た、大変失礼なことをいたしました。お名前はもちろん存じあげておりましたが、緊張のあまりお呼び間違いをしてしまいました。申し訳ありませんっ、アーノルド様」

 ヴィオレットは頭を深々と下げ、恐怖に震える声で謝罪した。

「ま、まぁヴィオレットも長旅で疲れていたんだろう。気にしなくていい。頭をあげなさい」
「そうよ。ヴィー。愛称はどちらでも『アル』だから、ほとんど同じようなものだし」

 いっそ罵倒ばとうしてくれたらよかったのに、夫妻は口々に優しい言葉をかけてくれる。
 ヴィオレットは余計に申し訳なく思ってしまった。

「本当に申し訳ございません。アーノルド様、アーノルド様、アーノルド様……。もう大丈夫です。二度と間違えません。ですが、私のことはいかようにでも罰してください」

 再度アーノルドに謝罪する。
 そのとき、アーノルドの隣に立っていた執事から「痛っ」と声が発せられたので、目線をそっとあげて様子をうかがうと、彼は腰をさすりながら主人をにらみつけている。どうしたのだろうか。
 直後、ヴィオレットは声をあげそうになった。執事は主人であるアーノルドの足を蹴りはじめたのだ。

(ええ!?)

 普通の主従関係では絶対にありえない。即解雇かいこされても文句は言えないくらいの行為だ。
 だがアーノルドは、執事をちらっと見ただけだった。

「……気にしなくていい。頭をあげて。改名するから」
「え? か、改名?」

 アーノルドの言葉に耳を疑いながら、ヴィオレットは内心がっかりした。

(……声もものすごく怖い)

 アーノルドの声は、ヴィオレットのこのみと真逆のバリトンだ。

「またバカなこと言い出して」

 執事はあきれ顔で額に手を当てている。そんな彼を無視して、アーノルドはぶっきらぼうに名乗った。

「……オレがアーノルド・フォン・フィリップだ」

 その口調もまたすごみがあって、ヴィオレットは思わずびくっと肩を震わせる。

「立ち話もなんだし、早いけれど昼食をいただきましょうか。うちの料理人は腕がいいの。楽しみにしていて、ヴィー」

 場をとりなすように、夫人がぽんと体の前で両手を合わせる。

「それは楽しみです、お義母様」

 ヴィオレットがそう言うと、夫妻は先だって屋敷の中へ歩き出す。
 室内では帽子をとるのがマナーとされているため、屋敷に入ったヴィオレットは帽子をとろうとした。
 けれどこれをとれば、とがった耳や水色の髪があらわになってしまう。そう思うと、躊躇ちゅうちょしてしまった。

「とりたくないなら、とらなくてもかまわないわよ。客人もいないし」

 ヴィオレットの様子に気づいた夫人がそう言ってくれて、ほっとした。

「……ありがとうございます」

 ヴィオレットは食堂に通され、隣にアーノルド、その向かいに夫妻が座った。
 執事やメイドがてきぱきと給仕をする。先ほどアーノルドの足を蹴り飛ばした執事は、コンラッドという名前らしい。

「マルス王国に来るのは初めてか? 料理は口に合うかね」

 前公爵が心配そうに尋ねてくる。

「来るのは初めてですが、向こうでマルス料理を出す店があって、食べたことはあります。どれも美味おいしかったです、お義父様」

 アーノルドはもともと寡黙かもくなのか、口を開くことはなかったが、夫妻とヴィオレットは会話を楽しみ、昼食の時間はなごやかに進んだ。
 ……ある料理が出てくるまでは。

「ニシンのパイでございます」

 コンラッドがテーブルに置いた料理を見て、ヴィオレットは『ひっ』と声をあげそうになる。

「……っ」

 ほどよく焼き色のついたパイ生地が具材をおおっていて、香ばしい香りが食欲をそそる。ただ、普通のパイと違うのは、中身の具材が隠れきっておらず、むしろかなり主張が激しいところだ。
 ニシンの頭がパイ生地を突き抜け、一斉に上を向いている。
 目が合いそうになり、ヴィオレットはそろーっと顔をそむけた。

「私の国の郷土料理なのよ。私が一番大好きなメニューなの」

 夫人がニコニコとした様子で、パイにナイフを入れてとり分けてくれる。

「そ、そうなのですか」

 味は美味おいしいのだとしても、見た目のインパクトが強すぎて食べたくない。
 だが、夫人はヴィオレットをニコニコと見ているし、出されたもの……ましてや人のこのんでいる料理に、まったく口をつけないのは失礼だ。
 ヴィオレットは涙目で、ナイフとフォークを手にとった。そのとき――

「……それ、オレがもらってもいい?」

 今まで口を閉ざしていたアーノルドが、ヴィオレットのパイを指さしている。

「……代わりに、あとでオレのデザートをあげる」
「あ、はい。かまいません。アーノルド様」

 ヴィオレットは内心ほっとしながら、皿をアーノルドの目の前に置いた。

「まぁ。お行儀ぎょうぎが悪いわよ、アル」

 夫人は顔をしかめた。

「ごめんなさいね、ヴィー。ぜひ食べてもらいたかったのに。パイはまた作ってもらってちょうだい」
「いえ。アーノルド様が召し上がりたいのなら、まったくかまいません。また今度、料理人さんにお願いしてみます」

 正直に言えば、頼むことはないだろうと思うが。

(もしかして、助けてくれたのかな?)

 横目でアーノルドの様子をうかがってみるが、相変わらず無表情で感情はまったく分からない。洗練された動きでパイを切り分け、口に運んでいる。

(……あれ?)

 ヴィオレットはアーノルドの口元に、先ほど出されたビーフシチューのソースがついているのに気づいた。

「アーノルド様、ちょっと失礼します」

 そう声をかけると、ヴィオレットはアーノルドの口元をナプキンでぬぐう。

「ふふ。とれました」
(子供みたいでなんだか可愛い)

 思わずくすっと笑ってしまい、慌てて謝る。

「あ、申し訳ございません」
「……別にかまわない。……ありがとう」

 相変わらずぶっきらぼうな口調だったが、そらされた顔は照れたように少し色づいている。
 そのとき、ヴィオレットがアーノルドに抱いていた恐怖心は、確実に薄らいでいた。



   3 ……気持ち悪いですよね。こんな髪の色。


 食事のあと、アーノルドはヴィオレットと式の打ち合わせをすることになった。
 食堂を出たアーノルドは、知人に会いに行くという前公爵夫婦を見送り、ヴィオレットとともに応接室へ向かう。
 うしろを歩くヴィオレットを気にしながら、アーノルドはコンラッドに小声で耳打ちした。

「……彼女、怖がってたけど、本当にオレなんかと結婚していいの?」
「彼女が結婚を承諾しょうだくしたからここにいるんでしょう」

 面倒くさそうにコンラッドが返事をした。
 自分との結婚を承諾した女性がいるなんて、ずっと何かの間違いだと思っていた。
 実際ヴィオレットと対面してからは、こんなに美しい女性が自分との結婚を承諾しょうだくするなど、なおさらありえないと思った。
 もしかしたら白昼夢はくちゅうむを見ているのかもしれない。もしくは……

「……全員でグルになって、オレをだましてないよな?」
「ネガティブ思考すぎでしょう」
「……夢じゃないか確かめたいから、オレの頬をつねってくれ」
「はい。かしこまりました」

 コンラッドが主人の命に従って、アーノルドの頬をつねった。

「痛い」
「これでもう現実だと理解できました? ほら、時間は限られているんですから、早く。あんた右手と右足が同時に出てますよ! 緊張しすぎです」

 コンラッドがうるさく言ってくるが、アーノルドの耳には入ってこない。すっかりヴィオレットに心を奪われたアーノルドは、うしろをちらりと盗み見る。
 ヴィオレットの瞳は紫色だ。紫の目の人はまれにいるが、ヴィオレットほど綺麗きれいな瞳を見たことはない。
 帽子におおわれてよく見えないが、髪の色もきっと同じように美しいのだろう。
 透明感のある肌はくすみ一つなく、いっそ白すぎて不健康に見えるほどだが、ヴィオレットの神秘的な美しさに合っていた。
 細い手足は華奢きゃしゃで、触ったら折れてしまいそうだ。それでいて、決して骨ばっているわけではない。
 特筆すべきは、その完璧なまでに整った顔立ちだ。大きく魅力的な目を、カールした長いまつげが縁取ふちどっている。小さな唇は桃色で、頬はべにを落としたようにほんのりと赤い。
 エルフとは皆こうも美しいのだろうか。
 動いたり話したりしていなければ、腕のいい職人が作った人形だと思われることだろう。
 声を出せばカナリアが歌っているようだし、何気ない所作しょさも舞いのようだ。
 洗練された所作しょさとは、こんなにも美しいものなのだと、彼女に出会って初めて知った。
 そして、アーノルドはこれほど小さい成人女性を見たことがなかった。周囲の女性は皆背が高く、ヒールの高い靴をけば男性と目線が同じという女性も珍しくない。
 しかし、ヴィオレットの身長は、十センチメートルはあるだろうヒールの靴をいていてなお、アーノルドの胸のあたりまでしかなかった。
 上目づかいで見上げて挨拶あいさつしてきたときの、可愛らしさと言ったら。
 アーノルドの、お世辞せじにも優しいとは言えない風貌ふうぼうと高い身長が、ヴィオレットをおびえさせてしまったようで、初めて顔を合わせたとき、彼女は若干涙目になっていた。
 それも小動物のようで可愛らしかった。
 名前を間違えられたときは、ショックを受けて放心状態になってしまったが、その可愛らしい声で名前を連呼されると、嬉しさのあまりコンラッドの腰を殴ってしまったくらいだ。
 とにかくヴィオレットは、アーノルドの理想を体現していて、すべてが完璧なのだった。
 そうこうしているうちに応接室に着き、ソファーに腰を落ち着けたアーノルドたちは、さっそく打ち合わせをはじめる。
 口下手なアーノルドにかわって、コンラッドが話を進めてくれた。

「おおよその流れは他の国と大して変わりませんから、ヴィオレット様もご存知だと思います。違う点は指輪くらいでしょうか。オルレーヌ国では指輪の交換をするんですよね」
「はい。結婚すると、夫婦は左手の薬指に指輪をします。婚約期間中は、女性だけ婚約指輪を右手の薬指にはめます」

 ヴィオレットは受け答えこそきちんとしているが、アーノルドともコンラッドとも一切目を合わせない。
 風貌ふうぼうの怖さに自覚がある自分だけなら分かるが、人当たりのいいコンラッドとまで目を合わせないことに多少違和感を覚えた。何か理由があるのだろうか。

「マルス王国の貴族の男女は、アクセサリーの交換はいたしません。男性は右手、女性は左手の甲に、魔法を用いて夫の紋章を刻印します。ですので、ヴィオレット様にはアーノルド様の紋章を入れていただきます。このことはご存知でしょうか?」

 魔法で刻印された紋章は身分証明にもなる。この国でフィリップ公爵夫人だと分かって害をなす者はまずいないので、もしものときはヴィオレットの身を守ってくれるだろう。
 刻印の偽装は重罪であるため、ずみで紋章を入れようなどというやからはまずいない。そして、刻印を消すことは、今知られている魔法と技術では不可能だ。マルス王国において、それだけ貴族の結婚は重んじられている。

「一応は……。ただ、詳しいやり方は存じあげませんが」
「魔法自体は簡単なものですし、呪文は司祭様が教えてくださるので心配はいりません。ただ、刻印は真実の愛を証明する神聖なものですので、お互い想い合っていないと上手く刻印できないそうです。それは……大丈夫ですかね」

 コンラッドの言葉に二人はびくっと肩を震わせた。
 アーノルドはヴィオレットに対して、自分でもはっきり分かるほど好意を抱いているが、彼女はどう思っているのだろう。
 ちらりとヴィオレットの横顔を見るが、うつむいた顔は帽子に隠れてよく見えず、表情はうかがい知れない。

「……式がすんだあとは屋敷に戻り、親しい方たちを招いた披露宴ひろうえんですね。ガーデンパーティーにする予定です。のちほどお呼びする方のリストをお見せしますが、漏れがございましたら教えてください。私からお伝えしたいのは以上です。何かご不明な点や、ご心配な点はありますか?」
「いえ。丁寧に説明していただいたので、特にありません」
「アーノルド様は何かございますか?」
「……刻印。……手、握るの?」
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