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苦手な相手3
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会社の入っているビルに入ると、とっくに受付嬢は退社していて、顔なじみの守衛が迎えてくれる。定年退職した後の仕事として働いているそうで、老年の穏やかな男性だ。
「お疲れさまです。今から仕事ですか」
「いえ。忘れ物を取りに来ただけですぐ帰ります」
軽く挨拶をかわし、正面のエレベーターに乗る。
営業課のあるフロアは3階。
繁忙期は残っているときもあるが、今は比較的忙しくない時期なので、残っている社員はいないようだ。電気をつけて、自分のデスクの引き出しを開ける。目当ての手帳はすぐ見つかった。
両親に就職祝いでもらった黒革の手帳を、就職してから三年、ずっと中身を入れ替えながら大事に使っている。高いものは手入れをして使えば長く使えるし、味わいも出てくるというのが両親の持論で、樹も年齢のわりに持ち物は良いものが多い。
営業は良いものを使ったほうがいいとはいえ、年齢の割にあまりに高価すぎるものが多く、生意気だと言われることもある。だが大抵は樹のキャラクターで黙認されているし、取引先から「若いうちからそんな物を使って、しっかりしている」と褒められることも多い。
手帳をカバンに放り込む。
コーヒーでも飲んでから帰るか、と同じフロアの端にある給湯室に向かう。と、その隣の広報課の電気がついているのに気が付いた。消し忘れだろうかと覗くと、一人の男性社員が、黙々と仕事をしていた。
小鳩佑。樹より二年前に入社した先輩だ。
課が違うためそこまで接触はないのだが、樹は佑のことが苦手だった。
嫌がらせをされたわけではない。むしろいい人なのだ。
すべての人間には何らかの思惑があると思っている樹にとって、見返りを求めず他人にする親切な佑は理解不能の相手だった。そうでなくともあの髪とメガネをどうにかすれば見た目がましになるのに、と見ているとイライラするのに、近くにいるとつい目がいってしまう。
今も。
「残業ですか?」
無視して帰ればいいのに、なぜだかわざわざ近づいて話しかけてしまった。地味に仕事のできる佑が、残業をしているのは珍しい。
「千堂君」
急に話しかけれて驚いた様子の佑が、顔を上げて樹を見る。野暮ったいメガネの奥の目を瞬かせた。
「用事があるからって、沢田さんに頼まれて。僕は特に用事なかったから。千堂君は今まで外回りだったの?」
「俺は接待だったんですが、忘れ物取りに来て」
(一応先輩に自分の仕事おしつけるなよ……。用事って合コンだし。
てかそんなめんどくさいこと引き受けるかよ、普通)
「……沢田の用事って、合コンだったみたいですよ」
無性にイライラした樹は、言わないほうがいいとは思っていたのに、ついわざわざ本当のことを言ってしまった。
(この人も、さすがにイラつくかな)
「そうなんだ。付き合いがいいんだね、沢田さん」
怒るどころか、なぜ笑顔。
(自分に仕事押し付けたやつに、そんなこと言うなんて聖人君子かよ)
それとも。
「……沢田に、見返りもらったんですか?」
「え、何も?
誰かが仕事をすれば、ちゃんと会社は回るんだし、それでよくない?無理やり押し付けるのはよくないけど、僕は納得して引き受けたんだし。僕も用事あれば断るけど、今日暇だったから」
(暇だから別にいい?意味が分からない)
樹だったら、残業代をもらえるとしても、他人の仕事を「合コンに行きたいから」なんていうふざけた理由で引き受けるのはお断りだ。一般論としてもそうだと思う。
見返りをもらったわけではないなら。
「……沢田のこと、好きなんですか?」
「妹みたいで、かわいいとは思うけど」
佑はきょとんとして、不思議そうに首を傾げた。
瀬奈に、恩を売りたいわけでもないらしい。
「俺が言ってきたとしても、引き受けてくれましたか?」
「それはもちろん」
間髪入れず佑がうなづき、なぜか樹の心はじわりと温かくなった。
樹は佑の隣の席に座ると、パソコンを立ち上げつつ書類を半分手に取る。
「これなら俺も手伝えそうなんで、手伝います」
「でももうすぐ終わるよ」
佑は申し訳なさそうに眉を下げた。そんな彼の顔を視界に入れないように、樹は書類に目を落とす。
「二人でやったほうが、もっと早く終わるでしょ」
「千堂君、優しいね。課も違うのに」
ほわーっとした顔で、佑が微笑んだ。
優しい、なんて。
(あんたに、言われたくない)
特に樹からは、対極に位置する綺麗すぎる言葉だ。
見返りを求めない人間なんて、いないのだ。
一見そうは見えなくても、心のうちは何を考えているか分からないもの。
(あんたの化けの皮、絶対はがしてやる)
どうせ気になってしまうのなら、とことん付き合ってやる。
もし佑の本性が分かったところで、脅したりする気はない。ただ安心したいだけだ。
やっぱり祐も普通の人間で、心のうちは汚いのだと。
「お疲れさまです。今から仕事ですか」
「いえ。忘れ物を取りに来ただけですぐ帰ります」
軽く挨拶をかわし、正面のエレベーターに乗る。
営業課のあるフロアは3階。
繁忙期は残っているときもあるが、今は比較的忙しくない時期なので、残っている社員はいないようだ。電気をつけて、自分のデスクの引き出しを開ける。目当ての手帳はすぐ見つかった。
両親に就職祝いでもらった黒革の手帳を、就職してから三年、ずっと中身を入れ替えながら大事に使っている。高いものは手入れをして使えば長く使えるし、味わいも出てくるというのが両親の持論で、樹も年齢のわりに持ち物は良いものが多い。
営業は良いものを使ったほうがいいとはいえ、年齢の割にあまりに高価すぎるものが多く、生意気だと言われることもある。だが大抵は樹のキャラクターで黙認されているし、取引先から「若いうちからそんな物を使って、しっかりしている」と褒められることも多い。
手帳をカバンに放り込む。
コーヒーでも飲んでから帰るか、と同じフロアの端にある給湯室に向かう。と、その隣の広報課の電気がついているのに気が付いた。消し忘れだろうかと覗くと、一人の男性社員が、黙々と仕事をしていた。
小鳩佑。樹より二年前に入社した先輩だ。
課が違うためそこまで接触はないのだが、樹は佑のことが苦手だった。
嫌がらせをされたわけではない。むしろいい人なのだ。
すべての人間には何らかの思惑があると思っている樹にとって、見返りを求めず他人にする親切な佑は理解不能の相手だった。そうでなくともあの髪とメガネをどうにかすれば見た目がましになるのに、と見ているとイライラするのに、近くにいるとつい目がいってしまう。
今も。
「残業ですか?」
無視して帰ればいいのに、なぜだかわざわざ近づいて話しかけてしまった。地味に仕事のできる佑が、残業をしているのは珍しい。
「千堂君」
急に話しかけれて驚いた様子の佑が、顔を上げて樹を見る。野暮ったいメガネの奥の目を瞬かせた。
「用事があるからって、沢田さんに頼まれて。僕は特に用事なかったから。千堂君は今まで外回りだったの?」
「俺は接待だったんですが、忘れ物取りに来て」
(一応先輩に自分の仕事おしつけるなよ……。用事って合コンだし。
てかそんなめんどくさいこと引き受けるかよ、普通)
「……沢田の用事って、合コンだったみたいですよ」
無性にイライラした樹は、言わないほうがいいとは思っていたのに、ついわざわざ本当のことを言ってしまった。
(この人も、さすがにイラつくかな)
「そうなんだ。付き合いがいいんだね、沢田さん」
怒るどころか、なぜ笑顔。
(自分に仕事押し付けたやつに、そんなこと言うなんて聖人君子かよ)
それとも。
「……沢田に、見返りもらったんですか?」
「え、何も?
誰かが仕事をすれば、ちゃんと会社は回るんだし、それでよくない?無理やり押し付けるのはよくないけど、僕は納得して引き受けたんだし。僕も用事あれば断るけど、今日暇だったから」
(暇だから別にいい?意味が分からない)
樹だったら、残業代をもらえるとしても、他人の仕事を「合コンに行きたいから」なんていうふざけた理由で引き受けるのはお断りだ。一般論としてもそうだと思う。
見返りをもらったわけではないなら。
「……沢田のこと、好きなんですか?」
「妹みたいで、かわいいとは思うけど」
佑はきょとんとして、不思議そうに首を傾げた。
瀬奈に、恩を売りたいわけでもないらしい。
「俺が言ってきたとしても、引き受けてくれましたか?」
「それはもちろん」
間髪入れず佑がうなづき、なぜか樹の心はじわりと温かくなった。
樹は佑の隣の席に座ると、パソコンを立ち上げつつ書類を半分手に取る。
「これなら俺も手伝えそうなんで、手伝います」
「でももうすぐ終わるよ」
佑は申し訳なさそうに眉を下げた。そんな彼の顔を視界に入れないように、樹は書類に目を落とす。
「二人でやったほうが、もっと早く終わるでしょ」
「千堂君、優しいね。課も違うのに」
ほわーっとした顔で、佑が微笑んだ。
優しい、なんて。
(あんたに、言われたくない)
特に樹からは、対極に位置する綺麗すぎる言葉だ。
見返りを求めない人間なんて、いないのだ。
一見そうは見えなくても、心のうちは何を考えているか分からないもの。
(あんたの化けの皮、絶対はがしてやる)
どうせ気になってしまうのなら、とことん付き合ってやる。
もし佑の本性が分かったところで、脅したりする気はない。ただ安心したいだけだ。
やっぱり祐も普通の人間で、心のうちは汚いのだと。
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