おれはお前なんかになりたくなかった

風太と美晴の入れ替わり

待って

　「トイレ……行きたいっ……」
　
　風太は太ももを擦すり合わせながら、両手で下腹部かふくぶを押さえつけた。
　来ている感覚は男の時と似たようなものだったが、我慢がまんの限界はまるで違っていた。女は許容量きょようりょうが少ないらしく、少しでも気を抜いたら漏もれ出てしまいそうになる。
　風太はもう、美晴に助けを求めるしかなかった。
　
　「はぁっ……はぁっ……」
　
　呼吸が乱みだれる。脚あしはほとんど動かすことができない。
　
　（このままじゃ、おれ、美晴の体で……）

　その時突然、美晴は風太の手をしっかりと握にぎった。そして、今までとは違うハッキリとした口調で、風太に言った。

　「走りましょうっ！　急いでっ！」

　美晴が風太の手を引くと、それにつられて、風太の脚も動き出す。まず一歩、そして二歩、三歩。美晴は後ろを向いて歩き、風太の様子をうかがった。風太はそれに応えるため、苦しみに耐たえながら、首を縦たてに振った。
　心の準備が出来たことを確認すると、美晴はさらに強い力で、風太の手を引いて走りだした。

　＊

　少年は少女の手を引いて、住宅街じゅうたくがいを駆け抜けた。
　風太は、目の前で『風太』の後ろ髪が跳はねるのを見ながら、小さな足を精一杯せいいっぱい動かして走った。
　
　（あれ？　こんなこと、さっきもあったような……）
　
　そして、雪乃に手を引かれて保健室へ行った時のことを思い出した。
　
　（あの時と同じだ。誰かに手を握ってもらえると、少し気持ちが落ち着く……）
　
　（でも、女子に二度にども助けてもらうなんて、かっこ悪いな。おれ、男なのに）
　
　（美晴は女なのに。でも今は頼たよりになって、男らしくみえて……かっこいい？）
　
　それを意識いしきし始めると、再び心臓しんぞうがドキドキと高鳴かたなりだした。目の前にいるのは美晴のはずなのに、風太の頭の中はポーッと、のぼせ上がった。顔が赤くなって、『風太くん』の背中が直視ちょくしできなくなっていく。
　
　（うわっ、違うって！！　体は美晴になってるけど、おれは男で、心は風太だろっ……！！）
　
　女子と入れ替わった影響により、思考回路しこうかいろが「乙女おとめ寄より」になってしまう現象げんしょうだが、風太はそれを自覚していない。
　ブンブンと首を横に振り、強引ごういんに思考をかき消すと、『美晴』の体はまた尿意にょういとの戦いに集中しはじめた。

　＊　＊　
　
　しばらく走った後、美晴は大きな建物の前で立ち止まった。それに合わせて後ろの風太も立ち止まり、その建物を見上げた。
　建物の名前は、『メゾン枝垂しだれ桜ざくら』。どうやらマンションのようだ。
　
　「はぁ、はぁ……。ここですっ！　ここの5階っ！」
　
　壁かべが薄汚うすよごれていて、お世辞せじにも綺麗きれいだとは言えないマンションだが、風太はそんなことを気にしている場合ではなかった。
　
　（も、もう限界だ……！）
　
　風太は涙目なみだめになりながら、美晴に手を引かれてマンションの中へと入った。
　1階には管理人かんりにん室しつの窓口まどぐちとエレベーター、そして階段があった。今から階段を昇る余裕はないので、エレベーターが降りてくるのを待つ。

　（4階……3階……2……1……）
　
　1階で開いたエレベーターに即そく乗り込むと、美晴はすかさず5階ボタンを指で押した。
　ゆっくりとドアが閉まり、エレベーターが動き出す。しかし今の風太にとって、5階はあまりにも遠い場所だった。
　
　「はぁ、はぁ……！」
　「大丈夫ですか？　もう少しだけ、我慢してくださいっ！」
　
　見かねた美晴が、風太を励はげまそうとして背中を撫なでた。しかし、それはあまりにも唐突とうとつすぎる行為こういだった。

　「ひゃうっ！！？」

　背骨せぼねにそって優しく撫でられ、風太の口から、男子としてはとても情けない悲鳴が漏れた。
　前に曲がっていた背筋せすじは、一瞬でまっすぐピンと伸び、せまいエレベーターの中には、その情けない声が響き渡った。
　
　「あっ、ごめんなさい」
　「この野郎……覚えてろ……よ……」

　風太は謝あやまる美晴をギリリと睨にらんだ。

　＊

　5階に到着。「戸木田」と書かれた表札ひょうさつがある部屋の扉とびらを、風太は自分のポケットに入っていたカギを使って、ガチャガチャと急いで開けた。
　
　「一番近くのドアですっ！」
　
　トイレの場所を美晴から聞き、ランドセルを放り捨て、靴を脱ぎ捨て、瞬時に手前のドアを開く。

　（あった……！）

　便座べんざカバーがかけられた便器べんきが、そこにあった。もう1秒の猶予ゆうよもない風太は、便器の前に立ち、下半身かはんしんの短パンに指をかけ、勢いよく下へ降ろし……降りなかった。
　短パンが脱げないように、背後の美晴が上へグイッと引っ張っている。風太の邪魔じゃまをしている。

　「なぁっ……！？」
　
　風太はワケが分からず、振り向いて美晴を見た。すると、美晴は顔を伏ふせながら、囁ささやくように言葉を絞しぼり出した。
　
　「……待って。脱ぐ前にっ」
　「いや……無理だって……！　もう出るっ……！　ションベン……が……出るっ……！」
　「目を閉じてくださいっ」
　「え……！？」
　「お願いします。あなたに……見せたくないものがありますっ」
　「……」

　その後の動作どうさは、風太も美晴も静かで丁寧だった。
　風太は言われた通り目を閉じ、短パンに引っかけていた指をパッと放した。この先の全てを、両目が開いている美晴に任せることに決めた。

　（頼むっ……）
　
　美晴は風太の短パンをスッと降ろし、さらにその次にある「最後の一枚」も降ろした。冷たいそよ風が、裸はだかになった風太の股の間を、優しく通り抜ける。
　
　（寒い……！）
　
　そして美晴は、背後でゴソゴソと何かやった後、「座すわってください」と静かに言った。
　
　（す、座って？　ションベンするつもりなんだけど……）

　疑問ぎもんに思いつつも、黙ってその言葉に従したがう。
　風太は美晴に助けられながら、前にある便座にゆっくりと座った。すると、そこに座り終わるのと同時ぐらいに、ソレは股間こかんから排出はいしゅつされた。

　「あっ、あぁ……ぁ……」

　我慢に我慢を重かさねた上での解放感からか、風太の口からは自然に声が出た。
　自分の体から、溜まっていたソレが出ていく感覚がとても気持ちいい。そして、美晴が「座ってください」と言った理由も、その時の排出の感覚で風太にはなんとなく分かった。

　（ションベンが……そこから出てる……）
　
　二人は、戸木田家の静かなトイレ内で、便器の中の水面みなもに水が落ちる音を最後まで聞いていた。

　＊

　「トイレが終わったら、わたしが今やったみたいに、そっと拭ふいてください」
　「うん……。分かった……」
　
　その後、風太はこの体で排泄はいせつした後にどうすればいいのかを、美晴から教わった。もちろん、ずっと目をつぶったまま。
　
　（紙で拭く……）
　
　あるハズのものがない違和感いわかんはあったものの、美晴にトイレットペーパーで拭かれた部位ぶいを感触かんしょくで覚え、トイレでの一連いちれんの工程こうていを、一人で目をつぶって出来るように頭に入れた。
　風太がそれを覚えている間あいだに、美晴はテキパキと体操服を脱がせ、部屋着へやぎを着せた。そしてさらに、長い髪を簡単にブラシでとき、最後に風太の耳と鼻の上に、何かをそっと乗せた。
　
　「終わりました。もう目を開けてもいいですよ、風太くん」
　
　許可きょかをもらい、風太が目を開けると、眼前がんぜんの世界はさっきまでとは違い、何もかもが鮮明クリアに見えた。それこそが、風太にとって初めてメガネを通して見る世界である。
　
　「わたし、普段はメガネかけてるんですっ」
　
　美晴は微笑ほほえみ、少し恥ずかしそうにそう言った。しかし、そいつの見た目は男子の『風太』なので、女の子っぽくモジモジすればするほど気色きしょくが悪かった。
　確かにメガネのおかげで、風太の見ている世界は鮮明になった。しかし、結局けっきょく長い前髪が邪魔なので、それほど視界しかい良好りょうこうでもない。
　
　（そもそも体が入れ替わらなければ、着替えとかトイレとか、こんな面倒なことにはならなかっただろ……！)
　
　風太の頭の中には、たくさんの美晴にぶつけたい文句もんくが浮かんだ。しかしまず第一声だいいっせいは、このピンチを助けてくれた美晴に対して、素直にお礼を言うことにした。

　「ぁりが……と……ぅ……」

　思ったことを上手く話すことができない口でそう伝えると、美晴はまた少し照てれて微笑んだ。

　＊　＊

　ゆったりとした緩ゆるめの部屋着パーカーと、メガネ。
　美晴の「お家スタイル」に着替えさせられた風太は、現在、廊下ろうかに立っている。「今から部屋を片付けるので、ちょっとだけ外で待っててください！」と、美晴に言われたからだ。風太の目の前には、『みはるのへや』という札ふだがかかったドアがある。
　
　（呑気のんきなやつ。こいつ、本当にこの状況をなんとも思ってないのか？　おれ、元に戻れるのかな……？）
　
　風太が少しイライラしながらそんなことを考えてると、美晴はまた唐突とうとつに、『みはるのへや』からバタンと飛び出してきた。
　
　「あ、あのっ！！」
　「お前……！　ちゃんと……これからのことに……ついて……話し合いを……」
　「ちゃんと話し合いをしたかったんですけど、そのっ！　すっかり忘れててっ！」
　「え……？」
　「もう時間がなくてっ！　お母さんが帰ってくる時間なので、わ、わたし、帰りますっ！」

　そろそろ美晴のお母さんが、この家に帰ってくる時間だと言いたいらしい。

　（お母さん？　今はそれどころじゃないだろ！？　もし一生、この姿のままなんてことになったら……！）
　
　そう思い、風太は引き止めようとしたが、すでに遅く。美晴はあわてて、玄関げんかんを飛び出してしまった。
　
　（まだまだ聞きたいことが、たくさんあるのに……！)
　
　また少し美晴にイライラし、風太がそいつの出て行った後の玄関の扉を見つめていると、今度はガチャリと扉が開き、その人と思われる大人の女性が現あらわれた。
　
　「ただいま、美晴」